ガルダ湖畔の戦い 23:ミンチョ川での攻防 
Battle on the shores of Lake Garda 23

ロナートの戦い、カスティリオーネの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロナート:約20,000人
カスティリオーネ:約30,000人
ロナート:約2,000人
カスティリオーネ:約1,300人
オーストリア ロナート:約15,000人
カスティリオーネ:約25,000人
ロナート:約5,000人
カスティリオーネ:死傷者約2,000人、捕虜約1,000人

カスティリオーネの戦い後のフランス軍の配置

 1796年8月5日夜、フランス軍はオーストリア軍を追撃しつつミンチョ川のすぐ近くにまで迫っていた。

 ボナパルトとしてはオーストリア軍が分散した部隊を再び結集することを防ぎたいと考えていた。

 そのため追撃の手を強めた。

 オーストリア軍は支援も無く全力で逃亡し、フランス軍が近づくと恐怖に陥り酷い叫び声を上げ、追いつかれた者は降伏した。

 オージュロー師団はポッツォレンゴ(Pozzolengo)に向かっており、マッセナ師団はカステッラーロ・ラグゼッロ(Castellaro Lagusello)の前、キルメイン騎兵隊はオージュロー師団とマッセナの間、ガルダンヌ率いるセリュリエ師団はボルゲットの後ろの平原に、オージュロー師団の分離であるヴェルディエ旅団はヴォルタ村からボルゲットの間に位置しており、それぞれオーストリア軍を追撃していた。

◎フランス軍各師団の追撃方向

 しかし、フランス軍のそれぞれの師団の部隊はバラバラになっており、上手く統制が取れない状態だった。

 そのためボナパルトは軍の再編成を行い戦闘序列を整えた。そして命令を下した。

 オージュロー師団はボルゲットへ進みヴァレッジョを大砲で囲む。そしてボルゲット橋を渡りミンチョ川の左岸側で戦う。

 マッセナ師団はオーストリア軍がペスキエーラに設営した施設を破壊する。

 そしてバヤリックス旅団を破った後、そのまま前進しヴルムサーの退路を遮断する。

◎ナポレオンによるミンチョ川渡河計画

 命令を受けるとポッツォレンゴに向かってオーストリア軍を追撃していたオージュロー師団は、その夜ヴォルタ村でヴェルディエ旅団と合流し野営した。



カスティリオーネの戦い後のオーストリア軍の配置

 8月5日夜、カスティリオーネの戦いに敗北したヴルムサーは、イドロ湖周辺のカスダノウィッチ師団にヴルムサー本体と合流させるためにミンチョ川左岸側で防衛ラインを構築する決定を下し、本国からの増援を期待した。

 そしてこれらの部隊が集結した後、ヴルムサーは攻撃を再開しミンチョ川を通過する計画だった。

 その間、フランス軍によるミンチョ川の通過を防ぐために、右翼ダヴィドウィッチ師団と左翼セボッテンドルフ師団に命令を与え、モンツァンバーロ(Monzambaro)とポッツォーロ(Pozzolo)に部隊を向かわせた。

 そしてペスキエーラ要塞を堅守するためにヴルムサーはミトロフスキー旅団をペスキエーラに向かわせ、バヤリックス旅団と合流するよう命じた。

◎ヴルムサーの計画

 ガルダ湖の艦隊司令官は、ガルダ湖東岸への上陸はせず、ガルダ湖上でオーストリア軍の右側面を覆うよう命じられた。

 ブッソレンゴの舟橋はドルチェに移動させ、ドルチェの舟橋はアラ(Ala)に移動させた。

 同時にマントヴァ要塞司令官にも今後の計画と命令が送られた。



マッセナ師団によるペスキエーラ要塞の通過(ペスキエーラでの戦闘)

 1796年8月6日早朝、マッセナはペスキエーラに向かって行軍していた。

 午前7時頃、ペスキエーラで抵抗を続けていたギョームは歩兵200人、12個の竜騎兵部隊、4門の大砲で出撃した。

 ギョームはオーストリア軍が占領している堡塁に対し一斉射撃を開始した。

 しかしバヤリックスは部隊を集結させて反撃し、ギョームを押し戻すことができた。

※ペスキエーラ要塞はフランス軍が保持し続けたという説の根拠は、5日夕方5時頃にランポン旅団からの伝令がペスキエーラのギョームの元に到着したこと、6日の午前7時頃にギョームがペスキエーラ要塞内から出撃し、オーストリア軍に占領された堡塁を攻撃していることである。

 その時、マッセナが前衛部隊とともにペスキエーラに到着した。

 10門の軽砲で補強されていたマッセナは、午前8時半頃ペスキエーラを横断した。

 この間、カヴァルカゼッレ(Cavalcasellle)からミトロフスキー旅団が到着しバヤリックス旅団の左翼側に布陣していた。

 そして2個大隊を分離しバヤリッヒ旅団の中央と右翼を補強した。

 ペスキエーラ要塞を勢力下に置いたマッセナはペスキエーラ要塞東側を囲んでいる塹壕を前衛部隊で攻撃した。

 しかしミトロフスキー旅団がバヤリックス旅団と合流したことにより、前衛部隊のみでは太刀打ちできず、マッセナの攻撃は失敗に終わった。

 その後、暫くしてマッセナ師団本体が到着した。

 マッセナはオーストリア軍の両翼に師団を展開して制圧し、ミトロフスキーをパチェンゴ(Pacengo)にバヤリックスをカヴァルカゼッレに後退させた。

◎ペスキエーラでの戦闘


◎17世紀~19世紀のペスキエーラ要塞

※ペスキエーラ要塞は、マントヴァ要塞ほどではないが5つの砦(稜堡)を有し周囲を堡塁に囲まれた難攻不落の大要塞だった。

※北側稜堡:ゲリー二砦(Bastione Guerini)、東側稜堡:サン・マルコ砦(Bastione San Marco)、南東側稜堡:カンタラーネ砦(Bastione Cantarane)、南西側稜堡:フェルトリン砦(Bastione Feltrin)、西側稜堡:トニョン砦(Bastione Tognon)

※ペスキエーラ要塞右側を覆っている堡塁周辺に1854年に建設されたペスキエーラ駅と線路が無いこと、そして同年にミンチョ川に架かけられた鉄道橋が無いことから1854年以前のペスキエーラ要塞の姿であると考えられる。

 「包囲された場合、15日以内に救援に駆け付ける」というボナパルトがギョーム将軍と7月30日に交わした約束をマッセナが果たした瞬間だった。

 ペスキエーラ方面からの大砲の音を聞いたヴルムサーはシュビルツに6個騎兵大隊を与えヴァレッジョからペスキエーラに派遣した。

 しかしシュビルツが到着した頃にはバヤリックスとミトロフスキーは敗退しており、フランス軍によるペスキエーラの通過を防ぐことはできなかった。

 その後バヤリックスとミトロフスキーは彼らの旅団の前衛部隊がいるカステルヌォーヴォに撤退した。

 オーストリア軍はこのペスキエーラでの戦闘で、741人が死傷または捕虜となり、4門の大砲を失った。



ヴルムサーの選択

 8月6日、オージュロー師団はミンチョ川の背後に位置するヴァレッジョを占領するヴルムサー本体と対峙するよう命令を受けた。

 そこでは大砲の応酬が終日行われたが、両軍に目立った損害は無かった。

 ボナパルトとしてはペスキエーラでミンチョ川を通過することが目的であるためボルゲットでヴルムサー本体を引き付けることができればよく、ヴルムサーとしてはカスダノウィッチ師団と本国からの増援を待ち攻勢に出る計画だったため、両軍とも時間が稼げれば良かったのである。

 正午頃、ヴルムサーは将来のオーストリア元帥であるアルヴィンツィ将軍をマントヴァに赴かせマントヴァ要塞での再籠城に備えてヴルムサーの名の下で状況に応じた措置を講じさせた。

 アルヴィンツィはマントヴァに到着すると、マントヴァ要塞司令官であるカント・ディールと協力してマントヴァ要塞での約2ヵ月間の籠城を想定して牛、穀物、飼料などの食糧を運び入れ、病人や負傷者を避難させ、防備を整えた。

 1796年8月6日夕方、ヴルムサーの元にバヤリックス旅団及びミトロフスキー旅団の敗北とフランス軍がペスキエーラを通過したという内容の報告が届くとヴルムサーはヴァレッジョを放棄しチロル方面へ撤退するよう命令を下した。

 ヴルムサーにとってフランス軍がペスキエーラを通過したという事実は、チロルへの最短距離の退路を失うということの他にも、合流予定だったカスダノウィッチ師団と切り離されることを意味していた。

 フランス軍の行動は素早く、カスダノウィッチ師団は間に合わなかった。

 夜になるとヴルムサー本体はボルゲット橋を破壊し、一部はマントヴァに、一部はカステルヌォーヴォに後退した。

 そしてバヤリックスにバルド山にあるマドンナ・デッラ・コロナに向かって後退するよう命じ、ミトロフスキーにはアディジェ川右岸にある山の麓のインカナーレに駐留するよう命じた。

 この時、ヴルムサーがチロル方面に後退する退路はブッソレンゴでアディジェ川を渡る道とヴェローナでアディジェ川を渡る道の2つの道があった。

 もしブッソレンゴでアディジェ川を渡る道を選んだ場合、カステルヌォーヴォをバヤリックス旅団とミトロフスキー旅団に守らせなければならず、バルド山方面の防衛は手薄になってしまう。カスダノウィッチ師団がバルド山方面からペスキエーラに向かっていたが進捗は不明であり、カスダノウィッチ師団の対応に期待するのは不確実だった。

 尚且つカステルヌォーヴォをバヤリックス旅団とミトロフスキー旅団の戦場に選んだ場合、平地での戦いとなりフランス軍が圧倒的有利に戦局を進めることは目に見えていた。

 そして、もしフランス軍がペスキエーラから出撃し、一部はカステルヌォーヴォに、一部はバルド山方面に部隊を差し向けた場合、バルド山やオーストリア軍が後退するための重要地点であるドルチェはフランス軍の勢力下に置かれてしまい、結局のところチロルへの退路を失ってしまう。

 そのためヴルムサーはバヤリックス旅団とミトロフスキー旅団を守りやすいバルド山とドルチェ方面の防衛に向かわせ、ボルゲット橋を破壊してボルゲットにいるフランス軍(オージュロー師団)からの追撃を回避し、最速でヴェローナに向かう道を選んだのである。

◎選択肢①:ブッソレンゴへ向かう場合

◎選択肢②:ヴェローナへ向かう場合

 ヴルムサーはダヴィドウィッチ師団、セボッテンドルフ師団、メサロス師団の騎兵隊をヴェローナに向かわせ、メサロス師団の歩兵部隊はマントヴァ要塞に向かうよう命令した。

 6日夜から日付が変わるまでの夜間に2列目のセボッテンドルフ師団、3列目のダヴィドウィッチ師団、4列目のメサロス師団が後退し始め、7日午前4時にヴェローナに到着した。

 カスティリオーネの戦いに続きミンチョ川においてもヴルムサーは敗北し、出発点であるトレントへの道を退却して行くこととなった。



マントヴァ要塞の防備

 1796年8月6日、アルヴィンツィの到着とともにヴルムサー本体がチロルに撤退することを知ったマントヴァ要塞総司令官カント・ディールは、再籠城のために要塞の修復速度を速め、粗朶(細い木の枝を集めて束にした工兵資材)、蛇籠(竹材や鉄線などで編んだ長い籠に砕石を詰め込んだ土木建築用資材)、柵などを大量に用意した。

 アルヴィンツィは籠城のための措置を講じた後、ヴルムサーの元に戻った。

 6日夜までにマントヴァ要塞の兵力は、マントヴァの補強として送られたシュピーゲル旅団とメサロス師団所属だったミンクウィッツ旅団、計7個歩兵大隊、騎兵100騎を加え、砲兵と工兵686人、騎兵242人を含み16,423人を数えた。

 カント・ディール(Canto d’Irles)は、それらをミンクウィッツ将軍、シュピーゲル将軍、ブレンターノ将軍、ストリオニ大佐、ソラ大佐の指揮する5個旅団に編成した。

 そして歩兵100人と騎兵25騎をゴヴェルノーロ(Governolo)に配置し、2個騎兵大隊をフォッサ・ガンバリの後ろで非常線を形成した。

 カント・ディールはさらに偵察部隊をタルタロ川とオリオ川にまで押し進め、部隊の行き来を容易にするためにポー河の右岸に部隊を送った。

◎カスティリオーネの戦い後のマントヴァ要塞の勢力圏

 これらの措置により、マントヴァ要塞を中心として広範囲の地域から籠城のための食糧や物資をさらにかき集め、要塞修復と防衛体制の構築を成し遂げた。