ナポレオン・ボナパルトの生涯

ナポレオンの誕生から学生生活の終わり(0歳~16歳)

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ナポレオンの初恋とオーソンヌでの学び(16歳~19歳)

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ナポレオン初の実戦と故郷との別れ(19歳~24歳)

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将軍への道のり(大尉から少将へ)(24歳)

sell ◎トゥーロン攻囲戦について詳細に解説 (1793年9月~12月)
ナポレオンは、当時大尉だったにもかかわらず作戦に口を挟み、カルトー中将やラポワプ中将から煙たがられていました。ですが、カルトーもラポワプも派遣議員の支持を得ているナポレオンの意見を無視するわけにはいきませんでした。ナポレオンは砲兵の観点から、いくつもの要塞で広域に守られたトゥーロン要塞を落とす方策を見出していましたが大砲も兵員も足りませんでした。しかし同時期に行われていたリヨン包囲戦が終わったことにより大砲や兵員がトゥーロンに向けられ、総攻撃によりトゥーロン要塞は陥落しました。

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イタリア方面軍砲兵司令官への任命(24歳)

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将軍としての初めての戦い(24歳)

sell ◎サオルジオの戦いについて詳細に解説 (1794年4月)
ナポレオンはこの戦いで初めてマッセナと出会いました。当初立案された作戦は山間部の大雪のため途中で計画の変更を余儀なくされました。雪解けを待つ間、ナポレオンはマッセナとともにオルメア方面に攻め上りました。そして雪解けとともに当初の計画に立ち戻り、マッセナ将軍がサオルジオの背後を脅かしコッリ将軍率いるピエモンテ軍を後退に追い込みました。その後、ナポレオンはこの戦いでの勝利を利用してアルプス方面軍とイタリア方面軍による新たな作戦案を提案しましたが、ライン方面での大規模な反攻作戦のためにアルプス方面軍は大きな兵力を派遣しなければならず、ナポレオンの計画は無期限延期となりました。

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イギリスによるコルシカ侵攻とロベスピエール兄弟の死(24歳)

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サリセッティの裏切りとナポレオンの逮捕(24歳~25歳)

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最初のデゴの戦い(25歳)

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デジレ・クラリーとの結婚の約束と陸地測量部への転属(25歳~26歳)

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ヴァンデミエール将軍(26歳)

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ナポレオンとジョゼフィーヌの出会い(26歳)

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反攻作戦の始まり(ロアノの戦い)

sell ◎ロアノの戦いについて詳細に解説 (1795年11月)
ロアノの戦いにナポレオンは従軍していません。ナポレオンはパリでイタリア方面軍の戦略を立案し、それをイタリア方面軍総司令官シェレールが現状に合わせて計画を一部変更して実行しました。左翼のセリュリエ師団がガレッシオ周辺でコッリ率いるピエモンテ軍を引き付けている間に、中央のマッセナ師団が海岸沿いを進軍する右翼オージュロー師団とピエトラ周辺で合流しヴァドに北上して占領。その後一部を中央から分離してセリュリエ師団と合流させチェバへと北上しました。この戦いによりフランス軍はロアノからサヴォナまでの海岸沿いを支配下に置き、チェバの手前まで進出しました。

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ジョゼフィーヌへのプロポーズとイタリア方面軍総司令官への任命(26歳)

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ナポレオンとジョゼフィーヌの結婚式(26歳)

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第一次イタリア遠征(軍総司令官としての初の国外遠征)(26歳~28歳)

sell ◎【完全解剖】「第一次イタリア遠征」 (1796年4月~1797年10月)
1796年4月、ナポレオンはボロボロのイタリア方面軍を率いピエモンテ軍とオーストリア軍を打ち負かすためにイタリアに派遣されました。モンテノッテ戦役に勝利してサルディーニャ王国を下し、ロディ戦役、カスティリオーネ戦役(ガルダ湖畔の戦い)、バッサーノ戦役、アルコレ戦役、リヴォリ戦役、最後の戦役と数々の戦いを制してウィーンに迫り、最終的にカンポ・フォルミオの和約によりオーストリア帝国と和平を結びました。
※第一次及び第二次教皇領遠征、ヴェネツィア共和国及びジェノヴァ共和国の滅亡などについても記載しています。

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イングランド方面軍総司令官への任命とローマ共和国の樹立(28歳)

ローマ共和国の樹立
1797.10~1798.2

エジプト遠征(28歳~30歳)

sell ◎【詳細解説】エジプト遠征前のナポレオン (1798年1月~1798年5月)
1798年1月、第一次イタリア遠征の勝利によって国内で絶大な人気を得たナポレオンは、政府が主催する式典やパーティに呼ばれて忙しくしていました。しかしバラスをはじめとする総裁達はそれを脅威に思っており、イングランド方面軍総司令官であるナポレオンを大西洋の海岸に視察へ向かうよう促しましたが、大西洋のフランス海軍はボロボロであり、とてもイングランド遠征が実行できる状況ではありませんでした。そんなナポレオンがトゥーロン港を出発するまでのエピソードです。

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sell ◎【詳細解説】マルタ戦役【エジプト遠征最初の戦役】 (1798年5月~1798年6月)
1798年5月19日、ナポレオンは第一級戦列艦「オリエント(l'Orient)」を旗艦として乗り込み、トゥーロンを出航しました。ナポレオン率いる東洋軍の最初の目標はシチリア海峡の先に位置する聖ヨハネ騎士団領マルタでした。マルタは鉄壁の防御を誇る要塞都市であり、エルサレムとロードスを失いマルタへ流れ着いた聖ヨハネ騎士団に率いられた約7,000人のマルタ軍によって防衛されていました。

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