ナポレオン・ボナパルトへの改名とイタリア方面軍砲兵司令官への任命

本記事はトゥーロン攻囲戦後からサオルジオの戦いが始まるまでの間のナポレオン・ボナパルトに関する事柄を紹介しています。

ナポレオンはこの期間中にイタリア風の「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte)」からフランス風の「ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)」に改名し、イタリア方面軍砲兵司令官に任命されました。

将軍になりたてのナポレオンの知られざるエピソードです。


母への仕送り

トゥーロン攻囲戦中にナポレオンは大尉から大佐まで昇進し、トゥーロン攻囲戦の戦功として少将にまで駆け上がりました。

この昇進速度はナポレオンの業績ももちろんですが、ナポレオンに助力した派遣議員達のおかげであり、士官や将官が足りなかったフランス革命軍の内部事情のおかげでもありました。

少将に昇進した後、母レティシアに60,000フランを送ったと言われています。

給料も上がり、トゥーロン攻囲戦での褒賞も貰ったのだと考えられます。



ナポレオン・ボナパルトへの改名とイタリア方面軍砲兵司令官への任命

1794年に入り、ナポレオンはイタリア風の「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(Napoleone di Buonaparte)」からフランス風の「ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)」に改名しました。

将軍への昇進を契機に故郷コルシカ島と決別し、フランス人として生きていくことを決心したのだと考えられます。

トゥーロン攻囲戦で受けた太腿の傷を癒やしながら南仏のマルセイユとコート・ダジュール(Côte d'Azur)周辺の沿岸警備を務め、3月にイタリア方面軍の砲兵司令官に任命されニースに移動しました。

そこで懇意にしている派遣議員オーギュスタン・ロベスピエールとサリセッティ等に再会しました。

ナポレオンは母レティシアと5人の兄妹(エリザ、ルイ、ポーリーン、カロリーヌ、ジェローム)をマルセイユからアンティーブのシャトー・サリー(Château Salé)に移り住むよう手配をしました。

シャトー・サリーは恐らくフランス政府の所有であり、ちょうど空き家だったためナポレオンは将軍が受ける福利厚生の一環としてシャトー・サリーの使用を申請し認められたのだと考えられます。

◎19世紀後半頃のシャトー・サリー(Château Salé)

※写真に写っている人物は当時の所有者であるレイユ(André-Charles-Victor Reille)将軍とその家族。レイユ将軍はマッセナ元帥の孫にあたります。マッセナ元帥の次女ヴィクトワール・テクル(Victoire Thècle)がレイユ将軍の母親であり、父親は一時期マッセナ将軍の副官でした。

ナポレオンのいるニースからアンティーブまでは20㎞ほどであり、ナポレオンは家族が近くにいることを望んでいました。

そして1794年4月、ナポレオン24歳の春、「サオルジオの戦い」が始まります。