ヴァンデミエール将軍

本記事は「ヴァンデミエールの反乱(ヴァンデミエール13日のクーデター)」について掲載しています。

1795年当時、パリの市中で大砲を使用することは禁じられていましたが、ナポレオンは許可を取り大砲の砲弾の中での殺傷力の高いブドウ弾を放ち反乱を鎮圧したと言われています。

セーヌ川右岸側のサン・ロック教会前での砲撃が有名ですが、実はセーヌ川左岸側の市街地でもブドウ弾を発射し、反乱軍を散り散りにしていることはあまり知られていません。

ヴァンデミエールの反乱鎮圧はナポレオンが「ヴァンデミエール将軍」の異名でフランス国内で名を馳せるきっかけとなった出来事です。


ヴァンデミエールの反乱

イタリア戦線におけるナポレオンの計画は採用されましたが、1795年10月、王党派が蜂起しヴァンデミエールの反乱が起こったことによりナポレオンが立案した作戦の実行も延期となりました。

ヴァンデミエールの反乱は、不人気の現政権が議席数を確保するために「選出される750の議席の内、500議席を旧国民公会議員(国会議員)の中から選ばなければならない」という不公平な法案を国民投票により可決したことにより、法の下に則った王権の復活を考えて選挙準備を行っていた王党派が激怒し投票の不正を主張して起こした反乱でした。

10月初めにレ・ペレティエ(Le Peletier)と名を変えた旧フィレス・サン・トーマス大隊(Bataillon des Filles-Saint-Thomas)が呼びかけ、ルイ・テベネ(Louis Michel Auguste Thévenet)将軍率いるパリ国家警備隊の一部が中心となってパリでデモ行進をはじめ、それに王党派を支持する民衆が加わりました。

フィレス・サン・トーマス大隊は、1792年8月10日のルイ16世とマリー・アントワネットが捕らえられたテュイルリー宮殿の襲撃(8月10日事件)時にテュイルリー宮殿を防衛していた王党派で占められる大隊であり、レ・ペレティエ地区(Sections Le Peletier)の自治管理を行っていました。

共和党の象徴である自由の木を伐採し、フランスの花形帽章を踏みにじり当時の国会議事堂であるテュイルリー宮殿へのデモ行進を続けました。

その勢いからパリ国家警備隊の全体がこのデモに参加するのではないかと噂が広まりました。

危険を察知したフランス政府(テルミドール派)は、国内軍(Army of the Interior)司令官フランソワ・メヌー(Jacques-François Menou)将軍にデモ集団の武装解除及び解散とレ・ペレティエにある本部の閉鎖を命じ、メヌーの元にヴェルディエール将軍(Jean Christophe Collin dit Verdière)とデルピエール(Antoine Joseph Delpierre)将軍を派遣しました。

国内軍はパリの秩序を維持することを目的として編成された軍であり、パリ郊外の宿営地に約5,000人が駐屯していました。

メヌーは軍を3つに分割し、デモの解散に向かわせようとしましたが、デルピエール将軍は体調不良で進軍できないとボイコットし、ヴェルディエール将軍には革命橋(現在のコンコルド橋)へ向かうよう命令していましたが、前進を拒否されてしまいました。

メヌーは手元の兵力のみでレ・ペレティエに向かい、反乱軍と交渉を行いました。

その結果、武装解除の約束を取り付けることができメヌーは撤退し、テュイルリー宮殿周辺を覆いました。

しかし10月3日、デモ隊はメヌーの行動を弱腰と受け取り、パリの他の地区にもデモに加わるよう呼びかけました。

テュイルリー宮殿を取り巻く地区の内7つの地区が呼びかけに応じました。

モンターニュ地区(Section de la Montagne)、社会契約地区(Section du Contrat-Social),マラー地区(Section de Marat)、ブルータス地区(Section de Brutus)、寺院地区(Section du Temple)、フォーブール=ポワッソニエール地区(Section du Faubourg-Poissonnière)がこのデモに加わることを宣言して行進に加わり、武装して反乱軍を形成しました。



ヴァンデミエール将軍

1795年10月4日、小規模だったデモが反乱に変わったことを見たメヌーはすぐに騎兵隊を派遣してフォーブール・モンマルトル通り(Rue du Faubourg Montmartre)に攻撃を仕掛け、レ・ペレティエ地区周辺の反乱軍を一掃しました。

しかし反乱軍は一時的にレ・ペレティエ地区から避難しただけであり、再び集結を始めました。

約25,000人にまで膨れ上がった反乱軍を見た政府は行方不明となったメヌー将軍の司令官職を解き、有力議員であるポール・バラスを国内軍司令官に任命しました。

バラスは軍の指揮経験のあるデュマ中将を呼び寄せ指揮を執らせようとしましたが、デュマ将軍はパリから70㎞以上離れたエーヌ県のヴィレ=コトレ(Villers-Côtterets)で休暇中でした。

デュマ将軍は召集命令を受け取るとすぐに馬車に乗り込みパリに向かいましたが、パリの北東約20㎞程のところに位置するゴネス(Gonesse)で車輪が壊れ修理のために足止めされたため間に合いませんでした。

デュマ中将は貴族と黒人奴隷との間に生まれたフランス共和国初の有色人種の将軍です。「三銃士」や「モンテ=クリスト伯」で有名なアレクサンドル・デュマの父親です。

デュマ将軍の到着を諦めたバラスは行方不明となったメヌー将軍の代わりに、2年前「カフェ イタリア」で出会いトゥーロン攻囲戦を共に戦ったナポレオンを推薦して議会に承認されました。そしてすぐさま部下にナポレオンを探しに行かせました。

ですがナポレオンの泊っている家具付きホテルや行きつけのカフェ、よく立ち寄っている場所を探しても見つかりませんでした。

ナポレオンは最終的に国内軍の事実上の本部であり、ギョーム・ブルーン少将を駐留させていたカルーゼル広場に4日夜9時頃に到着しました。

バラスはナポレオンの遅参を非難し、ナポレオンはそれに戸惑ったと言われています。

10月5日午前1時頃、バラスはナポレオンを正式に副将軍に任命しました。

ナポレオンは自由に指揮ができるなら引き受けると言ったと言われています。

加えて政府はナポレオンの他に4人の将軍をバラスの指揮下に入るよう命令しました。

ヴェルディエール将軍はロワイヤル橋を4門の大砲とともに守り、トゥーロン攻囲戦時にナポレオンの上司だったカルトー将軍はモネ地区の側でヌフ橋を守っていました。

そして将来のナポレオンの元帥の1人であるブルーン将軍はバラスによってカルーゼル広場(Place du Carrousel)周辺の防衛を命じられました。

防衛線はヌフ橋から伸び、セーヌ川右岸の波止場に沿ってシャンゼリゼ通りまで続き、大通りに続きました。

しかし、反乱軍はサントノーレ通り全体、ヴァンドーム広場、サン・ロック教会、パレ・ロワイヤル広場を占領していました。

そして彼らの多数の大隊はすべての道を塞ぎました。

副将軍に任命されたナポレオンはすぐさまバラスにメヌーがパリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)にあるサブロン(Sablons)で組み立てさせていた40門の大砲を取りに行くよう許可を取り、ミュラに300騎の騎兵隊を与えて出発させました。

わずか150人の守備隊に守られたサブロンの大砲は午前4時に攻撃されるという情報を入手していたため、迅速な行動が求められました。

午前2時頃、ミュラ騎兵隊はサブロンに到着したところ、反乱軍もサブロンに到着したばかりでした。

ですが反乱軍は敵が騎兵隊だと分かると撤退していきました。

ミュラ騎兵隊が40門の大砲を持ち帰ると、ナポレオンはその大砲をテュイルリー宮殿に繋がる道の端に配置しました。

反乱軍の先頭は特にサン・トノーレ通りのサン・ロック教会やパレ・ロワイヤル周辺に集結し、彼らを阻むものは目の前に設置された砲台でした。

5日午前5時頃、反乱軍が遂にテュイルリー宮殿に向かって行進を始めました。

それは示威的なデモ行進であり容易に撃退することができましたが、その後反乱軍は本格的に行進を始めてテュイルリー宮殿を包囲し、国内軍と対峙しました。

午後2時頃、約800 人からなる2つの強力な縦列が、カルーセルに入るために現れました。

国内軍はこれを撃退しました。

午後4時45分頃、「武装せよ!」という掛け声とともに反乱軍による前進が始まりました。約7,000人がテュイルリー宮殿を占拠しようと攻撃を行ったと言われています。

武装した大隊がカルーゼル広場の近くまで接近してきたとき、バラスは武器を置くよう勧告しました。

バラスは反乱軍の隊列から出てきた3人に襲われましたが事なきを得ました。

この瞬間、ナポレオンはコートを引っ張りバラスにささやきました「あなたは何を決めますか、将軍?ブルーンに大砲を発射する命令を与えましょう。勝利は私たちのものです。」

その後、反乱軍は一斉射撃を行い、それに対してナポレオンは道の端に設置していた大砲で砲撃するようブルーン将軍に命令しました。

反乱軍はナポレオンの近くにまで接近し、ナポレオンは馬の下から射撃されましたが運良く弾丸が逸れ無傷だったと言われています。

そして発射準備が整った大砲から砲弾やブドウ弾が反乱軍の頭上に向けて発射されたとにより反乱軍の勢いが止まりました。

反乱軍は、カート、荷車、木材、家具などで下水道の上にバリケードを作って抵抗しました。

そしてサン・ロック教会の高い階段の上に小さな小屋があり、そこに籠った反乱軍の数人が発砲し国内軍の砲手を射殺しました。

ナポレオンは小屋に向けてブドウ弾を発砲し、彼らを散り散りにさせたと言われています。

◎戦いを指揮するナポレオン

◎砲撃を命令するナポレオン



この時、第一次イタリア遠征でナポレオンの副官となるミュイロン(Muiron)大佐は4門の大砲の指揮を任されており、市街地に向けて砲撃しています。

砲撃はおよそ45分間行われ、ナポレオンは反乱軍の列に亀裂が開いたことを見て取るとミュラ騎兵隊に突撃を命じ、セーヌ川右岸側での勝利を決定づけました。

カルーゼル広場の周囲は制圧しつつあったため、バラスはナポレオンをカルトー将軍が担当しているヌフ橋に派遣しました。

しかしカルトー将軍は退却し、セーヌ川左岸側と右岸側の反乱軍の連絡は繋がってしまっていました。

セーヌ川左岸側と右岸側の反乱軍が連携して攻撃を仕掛けてくることを懸念したナポレオンはカルトー将軍の部隊をインファンタの庭(le jardin de l'Infante)に配置しました。

ルーヴルの入り口まで撤退したカルトー将軍はその後ヴェルディエール将軍と協力して反乱軍の攻撃に対応しました。

ヴェルディエール将軍はセーヌ川左岸側の反乱軍を平和的に解散させようとしましたが、それは無駄でした。

射撃が行われ、ナポレオンがバック通りに隠していた部隊と交戦状態に入りました。

そしてボーヌ通りに配置された12門の大砲にブドウ弾を詰め込み一斉射撃を行わせました。

反乱軍は動揺し、逃亡を始めました。

ナポレオンは砲撃を続けるよう命令し、反乱軍を散り散りにさせ、反乱軍は地下室に立て籠もりました。

セーヌ川左岸側での勝利が決定づけられた瞬間でした。

夜が近づき、ナポレオンは安全のためにそれぞれの部隊をその場所に留めておくように命じました。

ですが、反乱軍が防衛するパレ・ロワイヤルの東に位置する小道バリエール・デ・セルジャン通り(現在のRue du Pélican)の下水道に立てられたバリケードからは攻撃が行われていたためそれを沈黙させる必要がありました。

ナポレオンは巧みな銃剣突撃によりこれを制圧させました。

その後も抵抗は夜まで続きましたが、10月5日の内にほとんどの抵抗は収まりました。

翌6日、ナポレオンは未だ抵抗を続けるレ・ペレティエ地区を占拠し、その指導者の2人を逮捕しました。

ヴァンデミエールの反乱は完全に鎮圧され、ナポレオンはこの功績により中将に昇進し、一躍「ヴァンデミエール将軍」として有名になりました。