ナポレオンが愛用した香水4選+番外編2選 

ナポレオンは1ヵ月に60本も使用したというエピソードも残っているほどオーデコロンを愛用していました。

そしてナポレオンは家族にもお気に入りのオーデコロンを勧めていました。

本記事では「ジャン・マリー・ファリーナ」、「ロジェ・ガレ」、「ランセ」などナポレオンが愛用したオーデコロンを香水企業の歴史的背景とナポレオンの歴史的背景を絡めて解説しています。番外編もご用意していますので、ぜひご覧になってください。

1、有限会社 ユーリッヒ広場の向かいにあるヨハン・マリア・ファリーナ(Johann Maria Farina gegenüber dem Jülichs-Platz GmbH)

「有限会社 ユーリッヒ広場の向かいにあるヨハン・マリア・ファリーナ」は現存する中で最古のオーデコロン・香水企業です。

その歴史は古く、18世紀初頭にまで遡ります。

ヨハン・マリア・ファリーナ(英名:ジャン・マリー・ファリーナ)の兄であるヨハン・バプティスト・ファリーナは、1709年にケルンに貿易会社「GBファリーナ(GBFarina)社」を立ち上げました。

1714年、ケルン水の祖と言われるヨハン・マリア・ファリーナは自身の香水事業とともにヨハン・バプティスト・ファリーナの貿易会社の事業に加わりました。

ここからヨーロッパ中にヨハン・マリア・ファリーナのケルン水が広まって行きます。

1732年4月24、ヨハン・バプティスト・ファリーナ が亡くなり、翌年の1733年3月1日、社名を「ヨハン・マリア・ファリーナ」に変更しました。

1740年になるとほぼヨーロッパ全土に「ヨハン・マリア・ファリーナ」の名前は知れ渡っていました。

1794年6月26日フリュールスの戦いに勝利したフランスのライン方面軍は、同年10月6日にジュールダン将軍麾下のジャン・エチエンヌ・チャンピオンネ(Jean-Étienne Championnet)将軍がケルンを占領しました。

フランスのケルン占領を契機として、それまで保護されていた商標権が無効となり、「ヨハン・マリア・ファリーナ」の多くの偽物が誕生しました。

この時、フランスの兵士たちがヨハン・マリア・ファリーナの偽物含むケルン水をフランス本国に送り、フランスにケルン水が広まっていきました。ここからケルン水はフランスで「オーデコロン(ケルンの水という意味)」と呼ばれるようになります。

1804年、ヨハン・マリア・ファリーナの甥の孫であるヨハン・マリア・ヨーゼフ・ファリーナがファリーナ一族との話し合いの上、「ヨハン・マリア・ファリーナ」の名でパリのサントノーレ通り5番地331番地に香水店をオープンしました。

ケルンの「ヨハン・マリア・ファリーナ」とは異なる香りにすることがヨハン・マリア・ファリーナの名前でパリに出店する条件でした。

そのため、ケルンの本家と「ヨハン・マリア・ファリーナ パリ」は異なる香りになります。

その後「ヨハン・マリア・ファリーナ パリ」は1840年ロジェ・ガレ社に買収されます。

1804年9月13日~17日、当時第一執政だったナポレオンは妻ジョゼフィーヌとともにケルンを訪れました。

この時、ケルンの「ヨハン・マリア・ファリーナ」本家でナポレオンはオーデコロン(ケルン水)を購入したと言われています。

「ケルンを出発するとき、私たちは「ヨハン・マリア・ファリーナ」からたくさんのオーデコロンを購入しました。旅のために十分な量を持ち、残りはまとめて梱包して貰いました。」とナポレオンの執事の日記に記されています。

出発するときとのことなので、恐らく9月17日に購入したと考えられます。

ナポレオンは皇帝になってからもケルン水を愛用し、トランクには常にケルン水のボトルが入っていました。

「ヨハン・マリア・ファリーナ」は1900年代に入ってから、会社の分割、売却を行いましたが、1999年にファリーナ家はケルンにある本店の全株式を取得しました。

現在も「ファリーナ1709」というブランドでファリーナ家が運営しています。

ケルン水(オーデコロン)の祖である本家ヨハン・マリア・ファリーナの香水は、英雄ナポレオンの好きな柑橘系の香りがします。

英雄の香りをぜひ身にまとってみてください。

もしかしたらあなたも英雄になれるかもしれません。

ただ、残念ながら日本では流通していないようですので、ケルンに旅行に行った際は寄ってみてはいかがでしょうか。


ヨハン・マリア・ファリーナの顧客リストの一部

1734年 プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵士王)

1740年 オーストリアの女帝マリア・テレジア

1745年 プロイセン王フリードリヒ 2 世(フリードリヒ大王)

1745年 ヴォルテール

1782年 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

1802年 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

1804年 フランス皇帝ナポレオン1世

1807年 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

1810年 ポーリーヌ・ボナパルト(ナポレオンの妹)

1810年 レティツィア・ボナパルト(ナポレオンの母)

1810年 ジェローム・ボナパルト(ナポレオンの弟)

1811年 フランス皇后マリー・ルイーズ

1811年 オーストリア皇帝フランツ1世

1815年 ロシア皇帝アレクサンドル1世

1815年 オーストリア外相クレメンス・フォン・メッテルニヒ

1837年 ヴィクトリア女王

1843年 ロシア皇帝ニコライ1世

1861年 プロイセン王ヴィルヘルム1世

1868年 フランス皇帝ナポレオン3世

1987年 ウェールズ公妃ダイアナ

1999年 アメリカ大統領ビル・クリントン

他有名人多数



2、ロジェ・ガレ(Roger & Gallet)

1804年、ケルン水の祖ヨハン・マリア・ファリーナ(Jean Marie Farina) の甥の孫であるヨハン・マリア・ヨーゼフ・ファリーナがパリのサントノーレ通り5番331番地に「ヨハン・マリア・ファリーナ(英名:ジャン・マリー・ファリーナ)」の名前で香水店をオープンしたことが始まりです。

1809年、ヨーゼフ・ファリーナはケルン水をこよなく愛するナポレオン1世のために、ブーツにすっぽり入る筒型の専用ボトル「皇帝の筒型瓶(エンペラーズ ロール)」を作りました。

ヨーゼフ・ファリーナは「皇帝の筒型瓶(エンペラーズ ロール)」に「ヨハン・マリア・ファリーナ」を入れて納めていました。

ナポレオンはケルン水が脳を活性化させてくれると思っており、ケルン水に砂糖を入れてうがいをしていたそうです。

そのため、多い日は1日20本のケルン水を使用したと言われています。

当時の「ヨハン・マリア・ファリーナ パリ」におおよそ平均して月に60本の注文があったそうです。

その後、ヨハン・マリア・ファリーナ パリは1840年にロジェ・ガレに買収されます。

1862年4月10日にロジェ・ガレ社を創立し、パリのサントノーレ通りにブティックをオープンしました。

「ヨハン・マリア・ファリーナ」が英雄ナポレオンを支えた香水店なら、「ヨハン・マリア・ファリーナ パリ」は皇帝ナポレオンを支えた香水店の1つでしょう。

皇帝の香りを身にまとうなら、ロジェ・ガレの「ヨハン・マリア・ファリーナ(英名:ジャン・マリー・ファリーナ)」を使うといいでしょう。

こちらもナポレオンの好きな柑橘系の香りがします。


ロジェ・ガレの顧客リストの一部

1809年 フランス皇帝ナポレオン1世

1809年 フランス皇后ジョセフィーヌ

1809年 ポーリーヌ・ボナパルト(ナポレオンの妹)

1814年 プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世

1826年 イギリス国王ジョージ4世

1835年 フランス国王ルイ・フィリップ

1840年 ヴィクトリア女王

1841年 ルイーズ女王(ルイ・フィリップ王の娘)

1864年 フランス皇帝ナポレオン3世

1936年 イギリス国王ジョージ6世

2000年 イギリス女王エリザベス女王


◎ロジェ・ガレ ジャンマリファリナ(Roger Gallet Jean Marie Farina Cologne)


3、ランセ(Rance)

17世紀、フランスのグラースに本拠を置くランセは、フランス貴族のために香りの付いた手袋を製造する独自の技術で有名でした。

香水の調合もしており、それを手袋に刷り込んでいたのです。

1795年、フランソワ・ランセは手袋事業をやめて香水製造事業に専念しました。

そして1805年、フランス宮廷の公式サプライヤーとなりナポレオンのお気に入りの調香師となりました。

1805年12月2日にあった「アウステルリッツの戦い(三帝会戦)」の戦勝記念として、ナポレオンのために「ル・ヴァンカー(Le Vainqueur)日本語訳:征服者」、「トリオンフ(Triomphe)日本語訳:勝利」、「ロウ・ド・アウステルリッツ(L'Eau de Austerliz)日本語訳:アウステルリッツの水」を作成し、献上しました。

「ロウ・ド・アウステルリッツ(L'Eau de Austerliz)」は現在「LE ROI EMPEREUR ル・ロワ・エンペラー」として販売されています。

そして、ジョゼフィーヌのために「ラ・インペラティス(l'Impératrice)日本語訳:皇后」を作成し、セーヴル磁器の箱に入れて贈りました。

「ラ・インペラティス(l'Impératrice)」は現在「ジョゼフィーヌ(JOSÉPHINE)」として販売されています。

その他、ナポレオンの子であるフランソワ・シャルル(マリー・ルイーズとの間に生まれた将来のナポレオン2世)には「フランソワ・シャルル(FRANÇOIS CHARLES)」を、ナポレオンの妹ポーリーヌには「ポーリーヌ(Pauline)」ナポレオン3世の妻ユージェニーのためには「ユージェニー(Eugénie)」を贈っています。

「フランソワ・シャルル(英名:フランソワ・チャールズ)」や「ポーリーヌ」、「ユージェニー」も贈った当時は別の商品名だったと考えられます。

そしてランセはナポレオンやジョゼフィーヌなどの貴人に香水を献上したことで有名になり発展していきます。

ランセは現在に至るまで家族経営で香水事業を営んでいます。

フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝アレクサンドル1世が相まみえた「アウステルリッツの戦い(三帝会戦)」の戦勝記念としてナポレオンの絶頂期を支えたランセの香水を身にまとってみてはいかがでしょうか。


◎ランセ ル・ヴァンカー(Rance Le Vainqueur)


◎ランセ トリオンフ(Rance Triomphe)


◎ランセ ル・ロワ・エンペラー(Rance Le Roi Empereur)、旧名:ロウ・ド・アウステルリッツ(L'Eau de Austerliz)


◎ランセ ジョゼフィーヌ(Rance Josephine)、旧名:ラ・インペラティス(l'Impératrice)


◎ランセ フランソワ・チャールズ(Francois Charles)


◎ランセ ポーリーヌ



4、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局(Officina Profumo-farmaceutica di Santa Maria Novella)

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局はトスカーナ地方の花の都フィレンツェに現存する世界最古の薬局で、薬の他に香水や石鹸なども昔のレシピに基づいて作り続けています。

その起源は13世紀にまで遡り、1549年、カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王アンリ2世に嫁ぐ時、オーデコロンの起源の1つと言われる「王妃の水(L'acqua della regina)」を考案し、献上しました。

この「王妃の水」がドミニコ修道会の修道士によりケルンに伝わり、その後継者が「ヨハン・マリア・ファリーナ」であると言われています。

サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の香水はナポレオンも愛用したとされており、ナポレオンは「フィエノ(Fieno)日本語訳:干し草」という名のオーデコロンを愛用したそうです。

ナポレオンが使用していたエピソードは特に無く、使用していた時期も不明です。

トスカーナはどちらかというとフランスに敵対的でしたが、自由貿易都市であり、表面的にはフランスと友好条約を結んでいた時期もありますので、1,700年代からフランスにも輸出できたでしょう。

ただ、ナポレオンが使用した時期で最も可能性が高いと思われるのは1809年のフランスによるトスカーナ公国の併呑以降~1814年まででしょう。

サンタ・マリア・ノヴェッラはトスカーナ併呑時、一時的に閉鎖に追い込まれたことがありましたが、ナポレオンの妹夫婦に統治させていたため、妹のエリザ・ボナパルトから「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」の香水を紹介されたのではないでしょうか。

これらはあくまでも推測ですが、ナポレオンと関連する資料やエピソードが無いことから4番目に紹介させていただきました。

◎サンタ・マリア・ノヴェッラ フィエノ


番外編①:ミューラー&ヴィルツ(Mäurer & Wirtz)

ミューラー&ヴィルツ社は2007年から「4711」という香水ブランドを保有しています。

日本ではこの「4711」とロジェ・ガレの「ヨハン・マリア・ファリーナ」や本家の「ファリーナ1709」の歴史的背景が混同されて伝わっているようですが、ナポレオンと関係があるのは「ヨハン・マリア・ファリーナ」や「ロジェ・ガレ」であり、「4711」は関係は無いと考えられます。

ミューレンス家の言い伝えによると1792年10月8日、ドイツのケルンでミューレンス社の創始者であるウィルヘルム・ミューレンスは、婚礼の祝福としてカルトジオ修道会の修道士から一枚の羊皮紙を授かりました。そこに記載されていたのは「アクア・ミラビリス(神秘の水)」のレシピだったと言われています。

その後、ミューレンスはケルンのグロッケンガッセに小さな工場を設立し、アクア・ミラビリスの製造を始めました。

フリュールスの戦いに勝利したライン方面軍は、1794年10月6日にジュールダン率いるフランス革命軍がケルンを占領しました。実際に占領したのはライン方面軍左翼を率いるジャン・エチエンヌ・チャンピオンネ(Jean-Étienne Championnet)将軍でした。

この時、ケルンは戦わずに門を開きました。

1794年、フランス軍はケルンの街の管理のために、区画に番号を振りました。ミューレンス社の区画に振られた番号が4711だったと言われています。

「4711」の誕生とケルン水の元祖である「ヨハン・マリア・ファリーナ」の偽物が出回った時期が重なるため、「ヨハン・マリア・ファリーナ」の偽物の中で勝ち残った香水と思われることもあるようです。

「ヨハン・マリア・ファリーナ」の偽物は80年で約2,000種類も出回っていたそうなので、もしそうならその中で勝ち残ったのはある意味すごいです。

これらはあくまでも言い伝えや噂ですが、「4711」は少なくとも1799年には製造されていたため、現存する中で世界最古のオーデコロン(ケルン水)の1つと言えるでしょう。


◎ミューラー&ヴィルツ 4711


番外編②:ラレー(Rallet)

1912年にボロジノの戦いの100周年を記念してラレー社が発売した「ナポレオンの花束(Bouquet de Napoleon)」はヨーロッパ各国で大いに売れました。

「ボロジノの戦い」は、1812年に始まったロシア戦役においてロシアの英雄クトゥーゾフが宮廷勢力、軍隊、ロシア国民の圧力により会戦を強要された戦いで、実際のところ痛み分けですが、フランス軍、ロシア軍ともに自軍が勝利したと言っている戦いです。

その後、クトゥーゾフは前任者バルクライの立案した焦土戦術を継承して首都モスクワをも放棄し撤退を繰り返していくことになります。

フランス側からしてみればロシア軍は撤退して行きましたし、ロシア側からしてみれば英雄クトゥーゾフのロシア戦役での最初の負けとは思えない戦いであり、焦土戦術の起点とみなすことができるといったところでしょうか。

ラレー社はもうありませんが、「ナポレオンの花嫁(Bouquet de Napoleon)」は販売されているようです。

実はこの「ナポレオンの花嫁」は世界で最も有名な香水の1つである「シャネルの5番(Chanel No.5)」を作成した調香師と同じ調香師である「エルネスト・ボー(Ernest Beaux)」が作成しています。

ナポレオン時代の終わりの始まりである「ロシア戦役」に思いを馳せつつ世界で最も有名な調香師の1人である「エルネスト・ボー」の香りを身にまとうなら「ナポレオンの花嫁」を置いて他にないでしょう。

◎シャネル No.5



最後に

「ヨハン・マリア・ファリーナ」は世界最古のオーデコロン企業ですが、レシピは当時のものと異なっているようです。そのため「4711」に世界最古のオーデコロン(ケルン水)の名を奪われたと考えられます。

「4711」は1799年以降同じレシピで作り続けているとのことです。

そのため、「ヨハン・マリア・ファリーナ」は世界最古のオーデコロン企業であり、「4711」は世界最古のオーデコロン(ケルン水)と呼ばれています。

「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」はあくまでも薬局でありオーデコロン企業ではありません。

そしてサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局の香水は正確にはケルン水ではないため、世界最古の香水ではあるけれども、世界最古のオーデコロン(ケルン水)ではないということで、「4711」が世界最古のオーデコロン(ケルン水)と謳っているのだと思います。

英雄ナポレオンを支えた香りを身にまとうなら「ヨハン・マリア・ファリーナ」

皇帝ナポレオンを支えた香りを身にまとうなら「ロジェ・ガレ」

アウステルリッツの戦いに思いを馳せ、皇帝ナポレオンの絶頂期の香りを身にまとうなら「ランセ」

世界最古の香水を身にまとうなら「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」

世界最古のオーデコロン(ケルン水)を楽しみたいなら「4711」

ナポレオン時代の終わりの始まりに思いを馳せるなら「ナポレオンの花嫁」をおすすめします。