モンテノッテ戦役 01:戦役の始まり Montenotte campaign 01

モンテノッテ戦役

勢力 戦力 損害
フランス共和国 37,775人 約6,000人
オーストリア
サルディーニャ王国
約57,500人 約10,000人~約12,000人

第一次イタリア遠征の始まりBeginning of campaign

 1795年11月のロアノの戦いの後、冬の到来、戦いによる兵士の疲弊によりフランス軍もピエモンテ・オーストリア連合軍もこれ以上の軍事行動を起こすことができなかった。

 両軍の前線は動かず、来春に向けて準備を進めていた。

 フランス軍側では、道徳を重視したシェレール中将は、飢え、給料の遅滞等による士気の低下、兵士の反乱に頭を悩ませており、解決できないでいた。シェレールは統率の失敗を認め辞任要求の書簡を政府に送った。そしてシェレールはイタリア方面軍の現状について政府に報告した。

 兵士は飢えており、受け取れるべき給料すらもまともに受け取っていない、そして政府がジェノヴァから派遣してもらった民間配給会社は兵士たちが受け取るべき食料を横領し私腹を肥やしていると非難したのである。

 1796年3月24日、シェレールはマッセナ指揮下のピジョンに2個半旅団約3,000~4,000人を与えジェノヴァの西に位置するヴォルトリに向かわせた。そして付近の山々を占領し、店舗を設置し、偵察の際に付近の町や村にヴォルトリにいるフランス軍は大部隊であるという噂を広め、ジェノヴァに圧力をかけた。

 ヴォルトリへの進軍が一部功を奏し、ジェノヴァ政府は民間配給会社の横領について警告をし、横領を行ったものは逮捕するよう指示を出した。

 他方、ジェノヴァの親オーストリア派はこの事態をオーストリア政府に連絡し危機感を募らせていた。

 その後シェレールはイタリア方面軍総司令官を辞任した。

 この頃、シェレールの辞任前か後かは定かではないが、べルティエがアルプス方面軍の参謀長からイタリア方面軍の参謀長として着任している。

 オーストリア軍ではロアノの戦いの直前に突然総司令官を任され敗北したウォリス中将は防備を固め、来春の進軍について準備をしていたが、1796年3月4日に砲兵大将に昇進したボーリューがイタリア方面の総司令官に転属することとなり、3月17日にボーリューと交代した。

 ボーリューとコッリは個人的な友人の間柄であり、ボーリューはサオルジォの戦いでのピエモンテ軍の粘り強い退却戦について称賛していたため、ピエモンテ軍とオーストリア軍はボーリュー着任後は良好な関係を築けると考えられていた。

 フランス軍は現状を継続していくと困窮により軍は崩壊の危機に瀕する状況であり、ピエモンテ・オーストリア軍は前年のロアノの戦いでの敗北によってフランス軍に占領された領土の回復のため進軍を考えていた。

 この時点が1797年10月18日に締結されるカンポ・フォルミオ条約(カンポ・フォルミオの和約)により終結する戦役の始まりであった。

イタリア方面軍の状況French military situation

 1796年3月27日、ボナパルト中将がイタリア方面軍の新総司令官としてニースに到着した。

 その場にいた将軍達が出迎え、遠く前線にいた将軍達からは歓待の書簡が届いた。

 歓待の書簡が届いたはいいがそれは表向きであり、ボナパルトは政治的に昇進した司令官であると認識されていた。

 それに加えて最も若輩であったため、マッセナやラハープ以外のイタリア方面軍の将軍達はボナパルトを侮った目で見ていた。

 ボナパルトは前任のシェレールがヴォルトリに派遣したピジョン旅団を後退させようとしたが、後退を取りやめ、マッセナにヴォルトリとサヴォナの間に位置するヴァラッツェの防衛のために800人の部隊を派遣するよう勧めた。

 ヴァラッツェへの派兵の理由は、サッセッロからの後方遮断への警戒のためである。

 着任時ボナパルトが運用できる戦闘可能な兵力は37,775人(騎兵4,542人、砲兵6,513人、工兵1,645人を含む計95,778人の軍だが、沿岸部、後方駐屯部隊が22,229人、病院で休暇中の兵士が35,884人いたことにより、実動部隊はピジョン旅団を含み37,775人)であったが、命令不服従が横行していた。

 4月2日、ボナパルトがニースからアルベンガへ司令部を移そうとした際、給料が支払われなければニースを離れないという大隊すらあったほどである。

 ボナパルトはその大隊を解散させ他の部隊に再配置する対応を行った。

 ボナパルトは規律の再確立が必要であると感じていた。

 ニースからアルベンガに向かう途中の4月3日、ナポレオンはオネリア近くのポルト・マウリーツィオ(Porto Maurizio)に到着しジョゼフィーヌ宛にジョゼフィーヌの肖像が描かれたロケットペンダントを見ながら手紙を送った。

 その手紙の中に「2つの軍(ピエモンテ軍とオーストリア軍)はお互い裏切ることを考えながら動いている」とあり、ボナパルトはこの時点以前からピエモンテ軍とオーストリア軍を分断しようと考えていたことがわかる。

 アルベンガに到着するとボナパルトは、靴さえ履いておらずぼろぼろのイタリア方面軍兵士達を閲兵し、彼らに言葉を投げかけた。

 「兵士たちよ、諸君は裸同然であり飢えている。政府は諸君に対する責任を果たさなければならないが、何も与えることができない。岩山の只中で諸君が示す忍耐と勇気は称賛されるべきものであるが、今まで忍耐と勇気は諸君に栄光すらもたらすことができなかった。私は諸君を世界一肥沃な平野に連れていく。豊かな諸州、諸都市を手に入れることにより、諸君はそこで名誉と栄光、そして富を手に入れるだろう。イタリア方面軍の兵士たちよ、それでも諸君は勇気と忍耐の精神を見せることがないのか?」

 このボナパルトの言葉は、兵士たちにとって革命思想の伝播という綺麗ごとよりも大きな意味を持っていたと想像できる。

 兵士たちは飢えており、フランス政府の財政状態により数ヵ月間給料すらも受け取っていなかったのである。

 ボナパルトがイタリア方面軍総司令官に着任する2日前にもニースにおいて反乱が起きたばかりという状態だった。

 ボナパルトは着任前からフランス政府に食料、物資を要求しており、フランス政府からそれらが届いたにもかかわらずイタリア方面軍の事態は改善されないままであった。

 4月9日、ボナパルトはサヴォナへ司令部を移し、ピエモンテ・オーストリア連合軍と相対する準備を行うが、イタリア方面軍の内情はすでに崩壊の道を歩んでいた。

ピエモンテ・オーストリア軍の状況 Piedmont Austrian military situation

 オーストリアは冬の間、軍の強化に努めた。同盟国にも兵員の派遣を依頼したが失敗に終わり、唯一ナポリ王国から新たに騎兵旅団が派遣されるはずであったが、フランスの妨害により派遣は見送りとなった。

 サルディーニャ王ヴィクター・アマデウス3世は3年間の戦争で疲れ果てており、サルディーニャ王国(ピエモンテ)の人的資源も尽きようとしていた。そのため、サルディーニャ王国はフランスと和平をすることを考えていた。

 この動きを見てオーストリア政府は総司令官ボーリュー砲兵大将に、ピエモンテが裏切ろうとしている、信用するなという情報を送っていた。そのため、ボーリューもピエモンテとの連携に二の足を踏まざるを得なくなっていた。

 ボーリューはオーストリア軍を冬の宿舎へ引き上げ、本部をアレクサンドリアへ移した。アルジャントーは4個旅団で構成され、アックイ、アレクサンドリア、トルトーネを中心としてピエーヴェ、ロディにいるセボッテンドルフ麾下5個旅団と連絡を繋ぐ。コッリは20,000人のピエモンテ軍と5,000人のオーストリア補助軍を指揮しており、モンドヴィとチェバの間を防衛していた。

 ピエモンテ軍の前哨基地は、カイロ、ピアゲラ、モンテモロ、バグナッソ、バッチフォロ、ビコックであった。

 兵力については1796年3月時点でオーストリア軍32,000人(騎兵約3,500人含む)、ピエモンテ軍はコッリ中将麾下約20,000人、プロベラ少将麾下オーストリア補助軍約5,000人、ナポリ王国騎兵旅団約1,500人であった。

 ピエモンテ・オーストリア軍は反攻作戦を考えており、コッリはボーリューに2つの計画を提案した。しかし、ボーリューはオーストリア政府からの情報によりピエモンテ軍を信じることができず、イギリス海軍と連携できるようにすることを考えていた。

 3月27日、フランス軍がヴォルトリに陣を張りジェノヴァに圧力を加えているのを見て、フランス軍はジェノヴァを占領することを考えているのではないのか?とボーリューは考えるようになった。

 ボーリューがこのように考えるようになった理由は、ヴォルトリのフランス軍は大部隊であると思われ、店舗も設置されていることからフランスのイタリア方面軍右翼の本部であると考えられること。そして、ピエモンテがフランスと和平した場合、ジェノヴァが占領されたとしたらイギリス海軍との連携を取ることが難しくなり、フランスのイタリア方面軍はオーストリアのみを相手にすれば良くなるからである。

 そうなった場合、オーストリア軍の状況はかなり不味い事態に陥ってしまう。ピエモンテ軍と連携してでさえフランス軍に押されているのである。

 ボーリューとコッリは友人関係であり、コッリは紛れもないオーストリア人だったが、ボーリューはコッリの提案するピエモンテ軍とオーストリア軍が連携した作戦ではなく、自らの作戦を実行することを決定した。