【徹底解剖】ニュルンベルクに突如現れた謎の少年「カスパー・ハウザー」の真実Kaspar Hauser

1828年5月26日、「カスパー・ハウザー(Kaspar Hauser)」という出自不明の謎の少年がバイエルン王国の都市ニュルンベルクのウンシュリット広場(Unschlittplatz)に突如現れました。

発見された当初「カスパー・ハウザー」と名乗る身寄りのない少年は、まともに言葉を話せず、疲れ果てた状態で広場にやってきたと言われています。

調査をするとカスパーには特殊な能力が備わっていることが判明します。

しかしカスパーは保護された5年後、謎の死を遂げてしまいます。

カスパーは保護された1年後にも覆面を被った謎の人物からの襲撃を受けたことがあり、暗殺されたのではないかと言われているのです。

カスパーはどこから来たのか、なぜ何度も襲撃されなければならなかったのか、襲撃した人物は誰でどのような背景があるのか?

謎多きカスパー少年ですが、様々な調査が行なわれた現在でもナポレオンの孫(養女の子なので血のつながりは無い)ではないかとささやかれています。

本記事ではカスパー少年とナポレオンとの繋がりを紐解きながら、謎の少年の真実を深堀していきたいと思います。

カスパー・ハウザーの母?ナポレオンの養女ステファニー・ド・ボアルネの生涯

※「ヨハン・ハインリヒ・シュレーダーの絵画を模したステファニー・ド・ボアルネの肖像画」1815年 アロイス・ケスラー(Aloys Kessler)作

1789年8月28日、20歳になったばかりのナポレオンがオーソンヌで厳しい訓練を受けていた頃、将来ナポレオンの養女となるステファニー・ド・ボアルネが生まれました。

その頃のフランスは革命の真っ只中であり、母クロディーヌはステファニーを出産後に結核を患いましたが、危険なパリを離れ3歳になる兄アルベリックとステファニーを連れて南仏のリヴィエラに逃れました。

ステファニーの父クロードはフランス近衛連隊の隊長(大尉)として勤務していましたが、家族に注意を払うことはありませんでした。

もしかしたら革命により家族に注意を払う余裕がなかったのかもしれません。

しかしその2年後の1791年、ステファニーの母クロディーヌと兄アルベリックが亡くなってしまいました。

父クロードは、結核のクロディーヌの代わりに2人の子供の世話をしていたイギリス人のバース夫人にステファニーのすべての権利を譲渡しました。

しかし、そのバース夫人もステファニーを修道女に預けイギリスに帰国してしまいます。

ステファニーは修道女とともに身を隠しながら南仏を転々とし、1797年、ボルドーから東に100㎞ほどのところに位置するペリグー(Périgueux)にたどり着きました。

その頃のナポレオンは1年前の1796年3月9日に、父クロードの従兄弟であるアレクサンドル・ド・ボアルネの妻だったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚し、その直後に第一次イタリア遠征に旅立っていました。

ナポレオンは1797年にオーストリア帝国を下し、1799年にエジプト遠征から帰国するとクーデターに協力してフランス第一統領となりました。

この頃のナポレオンは初代ローマ皇帝アウグストゥスのように皇帝になることを考えており、将来的に中立を維持しているバーデン辺境伯領をフランス側に付かせるためにバーデン辺境伯とつながりを持とうとしていました。

バーデン辺境伯領はフランスの北東で国境を接しており、フランスにとって地政学上重要な国でした。

バーデン辺境伯カール・フリードリヒには20代後半のカール・ルートヴィヒという後継者がいましたが、ナポレオンの親族には年齢的にカール・ルートヴィヒに相応しい未婚の女性はいませんでした。

ですが妻ジョゼフィーヌの従姪が南仏にいることを知ります。

ナポレオンはクロードにパリに連れ戻すよう頼み、1803年、遂にステファニーはパリに移住しなければならなくなりました。

ルートヴィヒとの婚約が決まったのです。

しかしステファニーには貴族に相応しい教育が施されていなかったため、バーデン辺境伯の後継者であるカール・ルートヴィヒの妻になるための教育が開始されました。

1806年、ステファニーの教育は終わり、1804年5月に皇帝となっていたナポレオンはステファニーを養子とし、自分の妹たちより格上の「フランスの皇女」の称号を与えました。

1806年4月、ステファニーとカール・ルートヴィヒの結婚式がテュイルリー宮殿で行なわれました。

その5年後の1811年、カール・ルートヴィヒはバーデン大公となり、6月に長女ルイーゼが生まれました。

そして1812年9月29日、待望の跡継ぎが生まれました。

しかし、その子は生後わずか17日後の10月16日に亡くなりました。

この子が謎の少年カスパー・ハウザーであり、瀕死の赤子と取り替えられたのではないかと言われています。

その1年後の1813年、ジョゼフィーヌが誕生し、1816年、再び待望の跡継ぎアレクサンドルが誕生しましたが、1817年に亡くなってしまいました。

1817年マリー・アマリエが誕生しましたが、その翌年1818年12月8日、カール・ルートヴィヒが32歳の若さで後継者を残さず亡くなってしまいました。

バーデン大公カール・ルートヴィヒの息子たちはいずれも早世しているため、バーデン大公家は暗殺の標的にされているとささやかれることもありました。

ステファニーはその後、1860年まで生き、70歳で亡くなりました。

謎の少年「カスパー・ハウザー」の発見

※「カスパー・ハウザー」1828~1829 ヨハン・ゲオルグ・ラミニット(Johann Georg Laminit)作

ナポレオン1世がセント・ヘレナ島で亡くなったおよそ7年後の1828年5月26日、聖霊降臨祭(Pfingsten)の月曜日、靴職人のヴァイクマン(Weickmann)はニュルンベルクの9番と11番の家の前にあるウンシュリット広場で不思議な少年を発見しました。

少年は疲れ果ててよろめき、「ビュー(Bue)」と叫び、近づくと身振り手振りを加えて「ノイエ・トール通り(Neue Torstraße)」と言い、かなり疲れているように見えました。

少年はグレーのジャケットの下にキャンバス地のチョッキを着て、黒いシルクスカーフを首に巻き、長ズボンとハーフブーツを履き、手には典型的なバイエルンの農民が被る大きなフェルト帽を持っていたと言われています。

その身なりは違和感はあるものの裕福な家の子のように見えたそうです。

ヴァイクマンは様々なことを尋ねましたが、まともに言葉を話せないようでした。

そんな中で出身地を尋ねた時、「レーゲンスブルク(Regensburg)」と答えたそうです。

レーゲンスブルクはニュルンベルクから南東95㎞程の位置にある街ですが、ヴァイクマンはこの事を後になってから思い出しました。

少年はニュルンベルクの第6軽騎兵連隊の第4中隊長(この当時はフリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒ(Friedrich von Wessenig)大尉)宛ての手紙を持っていました。

そのためヴァイクマンはヴェッセニヒ大尉の邸宅へ案内しました。

手紙の内容

ヴェッセニヒ大尉は少年が持っていた封筒を手に取り、中身を確認すると2通の手紙が入っていることに気付きました。

1つ目の手紙はゴシック文字で書かれており、その内容から少年を育てた者が書いたと考えられ、2つ目の手紙はローマ字で書かれており、その内容から少年の母親が育てた者へ向けて書いたものであると考えられました。

◎封筒に書かれた宛名

◎封筒に書かれた宛名の日本語訳

「ニュルンベルク第6軽騎兵連隊第4中隊長殿」

 

◎1つ目の手紙

◎1つ目の手紙の日本語訳

「1828年、名もなきバイエルン辺境近くの場所から。 騎兵隊長殿へ

王に忠実に仕えたいと願う少年をあなたに送ります。

この少年は1812年10月7日に私の家に置き去りにされました。

そして私自身も貧しい日雇い労働者であり、10人の子供もおり、自分の家族を維持するために多くの仕事を抱えています。

その子の母親は、ただ彼を育ててもらうために私の家に置き去りにしたのでしょう。

しかし、私は彼の母親が誰なのかを知ることができませんでした。

また、そのような子供が私の家に預けられたということを地方裁判所にも届け出たことがありません。

私は彼を息子として迎えるべきだと思い、彼にキリスト教の教育を施しました。

そして1812年以来、私は彼に家から一歩も出ることを許したことがありません。

彼がどこで育ったのか誰も知らないようにするためです。

彼は私の家の名前も場所も知りません。

あなたは彼に尋ねることができますが、彼はあなたに教えることができません。

私はすでに彼に読み書きを教えましたが、彼は私の字を私とまったく同じように書きます。

そして私たちが彼に自分は何になるのかと尋ねたとき、彼は実の父親と同じように軽騎兵になりたいと言いました。

もし彼が今とは違う両親を持っていたら、彼は博学な若者になっていたでしょう。

あなたが彼に何かを見せると、彼はすぐにそれを学ぶでしょう。

私は彼にノイマルクトへの道を教えただけで、そこから彼はあなたのところへ行くことになっていました。

そしてもし兵士になったとしても、家を探さないよう、もし来ても背を向けるだろうと言いました。

良いですか、隊長殿、彼を試してみる必要はありません。

彼は私がどこにいるのか知りません。

私は真夜中に彼を連れて行き、馬車で去ったため、彼は帰り道を知りません。

私はあなたの最も従順な召使いです。

罰せられるかもしれないので、私は署名しません。

私自身何も持っていないので彼は一銭の金も持っていません。

彼をあなたの元に留めるのでなければ、あなたは彼を追い出すか、吊るして(殺して)ください。」

 

◎2つ目の手紙

◎2つ目の手紙の日本語訳

「その子はすでに洗礼を受けています。

名前はカスパーです。

姓はあなたが付けてください。

私はあなたにその子を育ててほしいと思っています。

その子の父親は騎兵でした。

17歳になったらニュルンベルク第6騎兵連隊へ送ってください。

連隊にはその子の父親も所属していたからです。

私は17歳になるまで教育を受けてほしいと願ってます。

その子は1812年4月30日に生まれました。

私は貧しく、その子の父親はすでに亡くなっているため育てることができません。」

 

この手紙には多くの謎があり、スペルミスや文法間違いなどが多く、内容も整合性が取れていないように思えましたが、名前がカスパーであること、年齢は16歳であることが判明しました。

ヴェッセニヒ大尉の邸宅にて

ヴェッセニヒ大尉は少年を短い期間邸宅で保護しました。

ヴェッセニヒ大尉の使用人の証言によると、もう飢えて疲れ切っているカスパー少年に肉を与えるとすべて吐き出してしまい、1杯のビールを目の前に置くと、数滴飲んだだけで嫌悪感を示しました。

ですが1切れの黒パンと水を持ってくると満足そうに食べたと言われています。

その間、カスパー少年は「父のような騎兵になりたい。(A söchtener Reuter möcht i wern, wie mein Voater gwen is.)」と言い、「馬!馬!」という言葉を繰り返しました。

「A söchtener Reuter möcht i wern, wie mein Voater gwen is.」はカスパーが言った言葉をそのまま示したものです。そのため発音が間違っており、正しくは「Ein solcher Reiter möchte ich werden, wie mein Vater gewesen ist.」です。

カスパー少年は礼儀正しく清潔でしたが、質問などをしても涙を流すか「知りません」と答えました。

しかしヴェッセニヒ大尉は2つの手紙が同じ紙、同じインクで書かれていることに気付き、不審に思ったヴェッセニヒ大尉は少年を警察の手に委ねました。

警察署での検査と尋問

カスパー少年への尋問が警察署で行なわれました。

しかし質問にはほとんど答えず、語彙力も乏しいことが見て取れました。

硬貨を与えてみると、何度か「馬!」と叫び、「馬」に取り付けたいような仕草をしました。

そのためお金に関しても無知であると考えられました。

そして名前を書くように言うとぎこちなくペンを手に取り、しっかりとした筆使いで「カスパー・ハウザー(Kaspar Hauser)」と書いたと言われています。

カスパー少年の衣服や持ち物を検査すると、着ているジャケットは元は燕尾服で燕尾の部分を切り取ったものであることが判明し、赤い刺繍でK.H.と書かれた赤い格子柄の白いハンカチ、角のあるロザリオを所持していました。

その他にカトリックの祈りの言葉が書かれた本の一部を持っていました。

これらの本の一部は、アルトテッティンゲン、ブルクハウゼン、ザルツブルク、プラハなど印刷所の記載のあるものもあれば、記載のないものもありました。

1828年6月3日付の市の法廷医師カール・プロイの報告書によると、当初カスパー少年は「半野生人のように森の中で育てられた」と考えられていました。

普通に生活していれば身につくはずの一般常識が無く、鏡に映された自分を掴もうとし、輝いて見えるものに幼い子供のように手を伸ばし、届かなかったり失敗したりすると泣きました。

さらにロウソクの火を触ろうとして火傷を負った後、手を引っ込めて泣き叫んだそうです。

また、サーベルで切りつける真似をして急に刃を近づけましたが、まばたきすらせず、まったく刃物を知らないかのように怖がらなかったと言われています。

カスパー少年の両腕には天然痘の予防接種の痕がありました。

また、腕には殴られたような傷跡もありました。

※当時は天然痘の集団予防接種を様々な地域で行なっていました。特にバイエルン王国では住民に対し強制的に予防接種が行なわれています。

ブーツを脱がせると、足の裏は柔らかくたくさんの血豆ができていました。

まるで全く歩いたことがない足で長距離を歩いたようでした。

警察はカスパー少年がどの門を通ってニュルンベルクの街に入ったのかを確認するために警察官2人を付き添わせ外に連れ出しました。

カスパー少年はよちよちと歩き、手足はひどく衰弱していました。

カスパー少年は、目の前のものには何の興味も示しませんでしたが、自分に近づけられた物だけは鈍く見つめ、時々、好奇心と当惑の表情を浮かべました。

基本的に話す単語は2つしかなく、人型のものは「ビュー(Bue)」、自分に襲い掛かろうとする可能性のある動物は「ノス(Noß)」と呼びました。

ですがもしその動物が白かったら喜びましたが、黒い動物には嫌悪感を抱き、恐怖したと言われています。

ある日、カスパーの担当の警察官の1人が取調室に白い木で作られたおもちゃの馬を持ってきました。

カスパーは取調室でこの木の馬を見ると、この小さな馬に対してあたかも長年待ち望んでいた古い友人を見つけたかのように振る舞いました。

騒がしく喜ぶのではなく、静かに笑顔で泣きながら喜びました。

カスパー少年はすぐに馬のそばにきて地面に座り、馬を撫で、目をじっと見つめ、色とりどりの光り輝く小さなもので馬を飾ろうとしました。

カスパー少年は取調室を訪れるたびに、何時間も愛馬と戯れていました。

そしてついにカスパー少年をどうするか法廷で話し合われましたが、カスパー少年はその時もストーブの横で馬と戯れながら座っていて、周囲や隣で何が起こっているかに少しも注意を払わなかったと言われています。

結局、尋問しても外に連れ出しても何もわからず、カスパーは浮浪者としてニュルンベルク城で最も高い塔であるルギンスラント(Luginsland)塔に投獄されました。

ルギンスラント塔に入る前までのカスパー・ハウザーについての考察

どこから来たのか?

まず靴職人のヴァイクマンがどこから来たのかを尋ねた時に「レーゲンスブルク」と言ったと証言しています。

そして持っていた手紙には「彼(カスパー)にノイマルクトへの道を教えた」と書かれていました。

そのためヴァイクマンの証言が正しければレーゲンスブルクから約60㎞離れたノイマルクトへ行き、その後、ノイマルクトから約35㎞離れたニュルンベルクに向かったと考えられます。

足の裏にはたくさんの血豆ができており、長い距離を歩いたことが考えられますが、当時のカスパー少年の貧弱さで約95㎞もの距離を歩けるのかは疑問が残ります。

95㎞は大人でも約4日~5日の距離です。

そしてカスパー少年は清潔な恰好をしていたとのことであり、恰好からして約95㎞もの長い距離を歩いたようには見えません。

そのためヴァイクマンの問いに「レーゲンスブルク」と答えたのは思い違いであり、ノイマルクトからニュルンベルクまで歩いて来たのではないかと推測できます。

ただ手紙の内容が嘘であれば、その限りではありません。

カスパー少年の状態

16歳にも関わらずカスパー少年の語彙は圧倒的に少なく、普通に生活していれば身につくはずの一般常識も無く、子供が遊ぶおもちゃの木の馬とともに遊んでいました。

そして自分の置かれた立場を理解できず、自分のその後にも興味がなさそうでした。

これらのことからまともに教育を受けておらず、周囲に鏡やロウソク、刃物がないような場所で育ち、精神年齢は2~4歳程度であると考えられます。

またカスパー少年は清潔で小綺麗な服やブーツを着ており、天然痘の予防接種の痕があり、角のあるロザリオとカトリックの祈りの言葉が書かれた本の一部を所持していたことからカスパー少年を育てた人物はそれなりの資産と教養がある考えられ、手足がひどく衰弱していたことから、何もさせてもらえなかったのだと推測できます。

もしカスパーが嘘をついていると仮定した場合、いきなりサーベルで切りつけられる真似をされて瞬きすらせずに恐がりもしなかったというのは不自然です。

そして足の裏が柔らかく手足がひどく衰弱しているにも関わらず小綺麗な恰好をしているというのは第三者が関与している可能性を示唆しています。

これらのことから、この時点のカスパー少年が詐欺師である可能性は低いのではないかと考えられます。

ルギンスラント塔でのカスパー・ハウザーの観察

◎ルギンスラント塔

◎ニュルンベルク城見取り図

※ニュルンベルク城の平面図。出典:「Der Nürnberg-Atlas. Vielfalt und Wandel der Stadt im Kartenbild, Nürnberg 2007」。ルギンスラント塔は④の場所にある。

ルギンスラント塔では看守アンドレアス・ヒルテル(Andreas Hiltel)がカスパー少年の面倒を見ました。

おもちゃの馬は一頭だけではなく、さまざまな馬が与えられ、塔の上にあるカスパー少年の寝室や居間に置かれました。

カスパー少年にとって馬たちは遊び友達であり、別の部屋にいたとしても見える位置に置かれていました。

カスパー少年はおもちゃの馬たちに水とパンを与えましたが、馬たちが食べることはありませんでした。

石膏でできた馬の鼻は濡れたため柔らかくなって変形しましたが、その他の物でできた馬の鼻は濡れただけで形は変形しませんでした。

そのためカスパー少年は石膏でできた馬の不幸を泣いたと言われています。

その他にもカスパー少年の部屋までの90段ある階段を愛馬を抱えて登っているときに愛馬を落としてしまい、愛馬を急いで救出して愛馬の痛みを想像して泣き、馬たちの壊れてしまった箇所をヒルテルが釘を打って直そうとしたとき、悲痛な表情を浮かべました。

どうもカスパー少年は生命と物との区別がつかないようでした。

カスパー少年が塔に来てから4~5日後、ヒルテルは自分の家族が住んでいる部屋の下の階にある小さな部屋にカスパー少年を引っ越しさせました。

ヒルテルはニュルンベルク市長ヤコブ・フレデリック・ビンダー(Jakob Friedrich Binder)からの命令でカスパー少年が詐欺師でないかどうか確認するよう命じられていたのです。

◎ビンダー市長の肖像画

しかし他の人がいる時も1人でいる時もカスパー少年の行動に変化はなく、これらのことをビンダー市長に報告しました。

ヒルテルはカスパー少年に会話や文字の概念を教えるために実演し、この顎に髭が生え始めた若者を11歳の息子ユリウスや3歳の娘マルガレータとともに遊ばせました。

さらに食事のテーブルにもつかせ、食べさせるるわけではなく、教育を受けた人間の行動を見せ、カスパー少年はそこで模倣することを学びました。

ヒルテルはカスパー少年に話し方を教えるいう仕事が好きになり、彼のつまらない見栄も不快に思わなかったと語っています。

多くの人との接触

ビンダー市長はカスパー少年との接触の許可を出しました。

この時点でカスパー少年のことはニュルンベルク中の話題となっていました。

カスパー少年の元には多くの人が訪れ、カスパー少年はそれを喜びました。

善良なニュルンベルクの街の人々はカスパー少年に様々なことを教えました。

単語やフレーズを繰り返させたり、手話や身振り手振りなどでカスパー少年が知らないことを教え、理解できないことを理解できるよう努めました。

これによりカスパー少年の語彙や思考の幅は大きく広がり、いくつかの概念を得ました。

ダウマー教授の指導と実験

◎ダウマー教授の肖像画

※「ゲオルク・フリードリヒ・ダウマー」ヨハン・レオンハルト・アポルド(Johann Leonhard Appold)による銅板画

1828年6月9日、カスパー少年は哲学者であるゲオルグ・フレデリック・ダウマー(Georg Friedrich Daumer)教授の指導下に置かれることになりました。

ダウマー教授はカスパー少年がパンと水しか食べないのを見て、ワインやコーヒーなどをこっそり水に一滴混ぜました。

すると恐怖で汗をかき、嘔吐し、ひどい頭痛を引き起こしました。

牛乳でさえも、煮ても汚れていないものでも、カスパー少年にとっては美味しくなく、吐き気を引き起こさせました。

パンの中に肉を隠したこともありましたが、すぐにその匂いを嗅ぎ、激しい嫌悪感を示しました。

それにもかかわらず食べることを強要すると、その後、重度の病気になりました。

感覚が鋭敏なため、強い光や大きな音に怯えることもあり、知的障害があるように見えました。

ある時、訪問者が鉄の靴を履いたおもちゃの馬と棒磁石をプレゼントしてくれました。

そして棒磁石をおもちゃの馬に近づけるとおもちゃの馬は浮き上がることをカスパー少年の前で実演し、カスパー少年はそれを真似しようと棒磁石を手に取りました。

しかしすぐに嫌悪感を示し、すぐにこのおもちゃを付属の小さな箱に片付け、二度と取り出すことはありませんでした。

ビンダー市長との対話

カスパー少年の言葉は未だおぼつかず、自分の考えを上手く表現できませんでした。

ぎこちない言葉遣いであり文法や構文も滅茶苦茶だったため、聞き手が上手く話を聞き出して推測し、補足する必要がありました。

ビンダー市長はこの頃から非公式に私邸にカスパー少年を連れてきて家族の一員のように接し、話しかけたり、話をさせたりしました。

ビンダー市長による公表

1828年7月7日、ビンダー市長は、未だたどたどしいながらも言葉を発することができるようになったカスパー少年と多くの会話をし、調査結果を公表しました。

 

「物心ついた頃からいつも1人でいた。

昼も夜もわからない光の無い部屋に閉じ込められ、半分横たわった姿勢でいた。

眠りから覚めると傍らにパンと水の入った容器が立っていた。

たまにまずい水の時があり、それを飲むと眠気が襲い、起きると身体は清潔になり、服は新しくなり、毛髪と爪は切られていた。

地面の窪み(おそらく壺があった)で用を足したが、夜には空になっていた。

部屋の中には2頭の木馬があり、様々なリボンを付け、いつも馬たちと遊んでいた。

馬を激しく動かしすぎて騒音を出し過ぎたとき、男がやって来て棒(または木片)で腕を殴られた。

見知らぬ男が部屋に現れ、指の間に何か(鉛筆)を挟み手を誘導して名前の書き方を教え、カスパーはこの新しい遊びに夢中になった。

見知らぬ男は時間を変えて訪問を繰り返し、新しい言葉を教えたが、カスパーには言葉の意味はわからなかった。

「父のような騎兵になりたい」という言葉を、意味も分からないまま見知らぬ男から繰り返し聞いて覚えた。

見知らぬ男はまた別の時に来て、ベッドから彼を持ち上げて、立ち上がるように教えようとして、それを何度も繰り返した。男は後ろからカスパーの胸の周りをしっかりと掴み、両足をカスパーの足の後ろに置き、前に歩くために持ち上げることによって歩くことを教えた。

その男が再び現れ、カスパーの手を肩に掛けて縛り、背後の穴(カスパーの部屋)から引きずり出した。カスパーは山の上もしくは下に運ばれた。夜が明け、男はカスパーを地面に横たわらせた。

「いつも一緒にいた」その男は歩き方を教えようとしていおり、カスパーはそれをするのがとても好きだった。

ニュルンベルクの街の前まで連れて行かれ、男はカスパーにニュルンベルクに来たときの服を着せた。

後ろから地面に押し倒され、力づくで足を引き上げられ、後ろから足をブーツに押し込められたため、ブーツを履くときはとても痛かった。

2枚の手紙が入った封筒とともにニュルンベルクの街の前に置き去りにされた。」

 

これらのことが発表されると、ヨーロッパ中の新聞にカスパー少年のことが掲載され、「ヨーロッパの孤児」として一躍有名になりました。

1829年に、カスパーは市長の発表は真実であり、部屋の寸法が長さ約2m、幅約1m、高さ約1.5mであったと回想録に記しています。

そしてビンダー市長はカスパー少年をニュルンベルク市の養子とし、カスパー少年は公費で生活することになりました。

警察の調査と市長の調査結果との相違点

手紙の内容には「ノイマルクトへの道を教え、それからあなたのところへ(ニュルンベルク第6軽騎兵隊第4中隊長の元に)行くようになっていた。」とあり、足の裏に長い距離を歩いたと考えられるたくさんの血豆があったため、靴職人ヴァイクマンが証言したレーゲンスブルクかもしくはノイマルクトの手前からニュルンベルクに向かったのだろうと考えられるにもかかわらず、ビンダー市長の発表では「ニュルンベルクの街の前まで連れて行かれた」とあります。

もし「ニュルンベルクの街の前」に置き去りにされたのなら、足の裏にたくさんの血豆はできないだろうと考えられるため、発見当初のカスパー少年の状況と相違します。

もしこれらのビンダー市長が個人的に引き出した情報が真実であるなら新たな発見となりますが、この頃のカスパー少年の語彙は少なく、文法や構文も滅茶苦茶で、正確に聞き出すことは不可能だったのではないかと考えられるため、ビンダー市長の妄想や願望も付け加えられているのではないかと推測できます。

カスパー少年を取り巻く噂

これらのことが公表されるとこの話はヨーロッパ中の新聞に掲載されカスパー少年に「ヨーロッパの孤児」のあだ名が付けられ一躍時の人となりました。

ヨーロッパ中の人達がカスパー少年に大きな好奇心を抱き、様々な噂が流れました。

高貴な立ち振る舞いや顔立ちから、ハンガリーやイギリス王室、バーデン大公家の御落胤ではないかとの噂、いやいや彼は詐欺師だなどの噂が流れました。

その中でもバーデン大公家の御落胤ではないかという噂は特に勢力をのばしていきました。

バーデン大公家の1812年9月29日に生まれて17日後の10月16日に死亡し、洗礼も受けられなかった名もなき男子が取り替えられたのだという噂がまことしやかにささやかれていきました。

この子は前バーデン大公カール・ルートヴィヒとフランス皇女ステファニー・ド・ボアルネの間に生まれた子であり、ナポレオン1世の孫でした。

バーデン大公家の乗っ取りを狙っているのではないかと思われる勢力がいくつか存在しており、バーデン大公の男子はこの子の他にも1816年にアレクサンドルが生まれていましたが、翌年に亡くなっていたため、バーデン大公家の男子は暗殺されているとささやかれることもありました。

バーデン大公家を狙っていたと思われる主要な2つの勢力

1、バイエルン王家

※1806年~1835年までのバイエルン王家の紋章

1812年時点でのバイエルン王はマクシミリアン1世、バーデン大公はカール・ルートヴィヒです。

バーデン大公カール・ルートヴィヒの10歳年上の姉フリーデリケ・カロリーネ・ヴィルヘルミーネ・(Friederike Karoline Wilhelmine)が当時のバイエルン王マクシミリアン1世の妻であり、もしバーデン大公家に世継ぎが生まれなかった場合、マクシミリアン1世が大公家を継承することになっていました。

実際、マクシミリアン1世は継承権を利用してバーデン大公国に様々な政治的圧力を加え、バーデン大公家が途絶えた場合の秘密協定をオーストリアと結んでいました。

 

2、ホッホベルク伯爵家

バーデン大公カール・ルートヴィヒの祖父カール・フリードリヒには2番目の妻がいました。

※バーデン大公カール・ルートヴィヒの父はバーデン大公家を継ぐことなく若くしして亡くなったため、バーデン大公家は孫のカール・ルートヴィヒが継いでいます。

2番目の妻の名前はルイーゼ・カロリーネ・フォン・ホッホベルク(Luise Karoline Reichsgräfin von Hochberg)です。

ルイーゼとの子は、長男レオポルド、次男ヴィルヘルム、長女アマーリエ、四男マクシミリアン(3男は早世)と男児に恵まれていました。

しかしルイーゼは元は下級貴族の女官だったため、当時のバーデン大公国の法によるとルイーゼから生まれた子にバーデン大公家の継承権はありませんでした。

ルイーゼの子にバーデン大公家を継がせるためには、1812年時点でのバーデン大公カール・ルートヴィヒに世継ぎが生まれず、夫カール・フリードリヒの最初の妻の子である次男フリードリヒと三男ルートヴィヒ1世の家系が途絶え、バーデン大公国の法を変え、周辺国の承認を得る必要がありました。

法学者アンゼルム・フォン・フォイエルバッハとの初めての対面

◎アンゼルム・フォン・フォイエルバッハ肖像画

1828年7月11日、アンゼルム・フォン・フォイエルバッハ(Anselm von Feuerbach)は人間的および科学的興味から、野生児カスパーを観察するためにニュルンベルクに行きました。

カスパー少年はこの頃まだルギンスラント塔のヴェストナー(Vestner)門の近くの部屋に住んでおり、カスパーを見たい人は誰でも入ることができました。

実際、朝から晩まで人が絶えず、当時人気のあったカンガルーや飼いならされたハイエナよりも人気があったと言われています。

フォイエルバッハは1人の大佐に同行し、幸運にもあまり人がいない時間帯に到着しました。

カスパーの部屋にはニュルンベルクの人々からの贈り物が並べてありました。

数百人の鉛の兵士、木製の小さな犬、小さな馬など、さまざまな子供向けのおもちゃが多数あり、カスパー少年は夕方にこれらを片付け、朝起きると決まった順番で並べたと言われています。

カスパー少年はできる限り白昼の光から目をそらし、窓から降り注ぐ太陽の光が消えると慎重に窓を覗きこみました。

ですが太陽光が偶然カスパー少年の目に当たったとき、激しく瞬きし、眉をひそめ、痛みを感じたようでした。

さらにカスパー少年の目はやや炎症を起こしており、光に対して非常に敏感でした。

言葉はカスパー少年が知っている範囲でためらうことも、どもることもなく、しっかりと明瞭に話しました。

しかし、まだ一貫したスピーチができず、概念のストックと同じくらい言葉遣いも拙いものでした。

接続詞、助詞、助動詞がほとんど欠落し、自分のことを「私」ではなく「カスパー」と言い、構文も滅茶苦茶でした。

そのためカスパー少年が伝えようとしていることを相手に理解してもらうのは困難を伴いました。

訪問者たちによる新たな刺激によるものかどうかはわかりませんが、ヒルテルによるとカスパー少年はフォイエルバッハの訪問の少し前から「動かないおもちゃ」に興味を示さないようになり、自分の小さな部屋に貼ってある絵や銅板画に興味を持つようになったとのことでした。

ダウマー教授の元で

1828年7月18日、市長はダウマー教授に公金を支給してカスパー少年を預けました。

その翌日、国民全体へ布告が出され、カスパー・ハウザーの元へのこれ以上の訪問を許可しない旨が周知されたのでした。

ダウマー教授は自身の邸宅に下宿させ、読み書きをはじめとして数多くの科目、絵画やチェンバロの演奏などを教えました。

カスパー少年の学習意欲は高く、記憶力も優れていたと言われています。

カスパー少年が最も喜んだのは藁ではないちゃんとしたベッドでした。

ベッドで寝るようになってから夢を見はじめ、最初は夢と現実の区別がつきませんでしたが、ダウマー教授の幾度かの指摘により区別できるようになりました。

カスパー・ハウザーの鋭い感覚

1、視覚

カスパー少年は昼間よりも夕暮れ時の方がよく見えるようであり、普通の人がまだ3つか4つしか星を見つけられない時には既にすべての星が見えており、その大きさと色で星を見分けていました。

そして日が沈んだ後、少なくとも約180歩離れた遠い距離から、昼間は認識できなかったはずの通りの家の番号を読むことができました。

さらにニュルンベルク宮殿から18㎞ほど離れているマーロフシュタイン城(Schlosses Marloffstein)の窓の列を数え、ニュルンベルク城から約24㎞離れているローテンベルク要塞(Festung Rothenberg)の下にある家の窓の列を数えることができました。

夕暮れ時、遠く離れた蜘蛛の巣にぶら下がっている蚊を指し示したり、少なくとも60歩離れたところからブドウとニワトコ、そしてブラックベリーを区別することができました。

注意深く実験を行った結果、彼は暗い場所で色を識別し、青や緑などのさまざまな暗い色も識別しました。

暗闇の中、聖書を読んだと言われています。

2、聴覚

野原を歩いていると、比較的遠くから数人のハイカーの足音が聞こえ、その強さに応じてハイカーたちの足音を区別することができました。

裸足の人の一歩一歩がどんなに柔らかくても気付くことができるとある盲人の聴覚と比較する機会があり、この時のカスパー少年の聴覚は同じくらい鋭かったと言われています。

そして、隣の部屋のささやき声を聞き取ることさえできたそうです。

3、嗅覚

あらゆる感覚の中でカスパー少年を悩ませたのは嗅覚でした。

普通の人にとって無臭なものが無臭ではなく、愛らしい花の匂いは悪臭であり、カスパー少年が心地よいと感じる匂いはありませんでした。

散歩や乗馬で外にでると花畑やタバコ畑、ナッツの木など匂いのする植物の前を通らなければならず、その後、頭痛や体調不良を直すために休憩しなければなりませんでした。

そして遠くからでも葉の匂いでリンゴ、ナシ、プラムの木を区別することができました。

古いチーズの匂いで気分が悪くなり、酢の匂いで目が潤み、少し離れたテーブルにワインが注がれただけで酔ってしまいました。

ある時、ダウマー教授が、コップ一杯の水にアヘンを一滴入れて実験したことがあるのですが、カスパーはこの水を一口も飲んでいないうちに「あの水はまずい。時々昔の家で飲まなければならなかった水と同じ味だ。」と言いました。

これにより、カスパー少年がニュルンベルクに来る前に住んでいたときに時々飲んでいた「まずい水」はアヘン入りの水であることが判明しました。

4、磁覚

ダウマー教授の元に引っ越した後、カスパー少年は塔にいたときに訪問者からもらった棒磁石の入った箱をスーツケースの中に保管していたのですが、持ち物を片付けているときに偶然それが出てきました。

ダウマー教授は実験を思い付き、カスパー少年に磁石のN極を向けました。

カスパー少年は自分のみぞおちに手を当ててチョッキを引っ張り、「こんな感じで引き寄せられているように感じます。そして空気の流れが自分から出ているように感じます」と答えました。

S極はカスパー少年にあまり影響を与えないようでしたが、カスパー少年は「自分に向かって何かが吹いているように感じます」と答えました。

距離がかなり離れていても磁気の影響を受けるようで、長時間続けていると汗が吹き出し体調を崩しました。

ダウマー教授はその他にも実験を行っており、その時に離れた場所にある金属を言い当てたりしたそうです。

5、記憶力

カスパーは誰から何を貰ったのかを克明に記憶していたと言われています。

そして、細部まで記憶する能力を有していたそうです。

この細部まで記憶する能力は絵の才能として花開きました。

◎1829年、カスパー・ハウザーが描いた鉛筆画

◎1829年4月22日、カスパー・ハウザーが描いた水彩画①

◎カスパー・ハウザーが描いた水彩画②「枝にたくさんのベリー」

◎カスパー・ハウザーが描いた水彩画③「蝶の入った果物かご」

肉の克服

ダウマー教授は食事についても様々な工夫を凝らしてパンと水以外のものも食べさせようとしました。

はじめは水っぽいスープやパンに似たものを与え、次に水っぽいスープに肉汁を混ぜて慣れさせ、茹でた肉の繊維を食べるようになりました。

最終的に1828年9月になって初めて、カスパー少年は肉料理を食べ始めました。

そして繰り返しの練習により、両手で25ポンド(12.5㎏)の重りを地面から少し持ち上げることができるまでに成長しました。

しかし肉料理に慣れてくるほどに聴覚や嗅覚は衰えていき、最終的には普通の人と同程度となったと言われています。

そして1828年12月の終わり頃、聴覚や嗅覚の鋭さがほぼ完全に消失したとき、金属に対する感覚の鋭さも徐々に消失し、最終的には完全に消失しました。

ダウマー邸での生活は感覚の鋭いカスパー少年にとって苦痛であり、この頃は文字の書き方と歩き方を教えた見知らぬ男とともに光が無い部屋に戻ることを切望していました。

「カスパー・ハウザーの回想録」の執筆の開始

カスパーは熱心に勉強し、あらゆる種類の知識を獲得し、算術と文章の面で上達し、後者はすぐに上達し、1829 年の夏頃にはビンダー市長の要請に応じて回想録を執筆することができるようになりました。

カスパーが回想録を執筆中であることはいくつかの公的な新聞にも掲載されました。

この回想録の中で1828年7月7日のビンダー市長の公表内容は正しいということが書かれました。

ですがこの回想録の執筆はビンダー市長の要請に応じたものであり、ビンダー市長がカスパーに「ビンダー市長の公表内容は正しい」と書くよう言った可能性も否定できません。

ダウマー教授の元に引っ越してから訪問者は激減し、世間の関心も薄れていっていました。

最初のカスパー・ハウザー襲撃事件

※最初のカスパー・ハウザーの襲撃を描いた彫刻、作者不明

1829年10月17日正午頃、ダウマー教授の妹カタリーナが邸宅の掃除をしていたとき、1階から中庭に続く階段にいくつかの血痕と血の足跡があることに気づきましたが、すぐに拭き取りました。

カタリーナはカスパーが階段で転んで鼻血を出したのだろうと考えました。

カタリーナは問い詰めるためにカスパーの部屋に行きましたが、カスパーはいませんでした。

ですが、カスパーの部屋のドアの近くに血まみれの2足の足跡があることに気付きました。

カスパーがいなかったため、カタリーナは中庭の通路の掃除を再開しようとすると、中庭の石畳の通路の血痕を見つけました。

カタリーナはトイレの前でも血だまりを発見しました。

そこへちょうど家主の娘が来たため、それを見せると、その場所で子供を生んだ雌猫の血ではないかと言いました。

血だまりを洗い流したカタリーナは、カスパーがこの血だまりを踏み、足を洗わずに歩き回っていると思いました。

12時を過ぎており、すでに昼食の準備がされていました。

いつも時間通りに来るカスパーが来なかったためダウマー教授の母はカスパーを呼ぶためにカスパーの部屋に行きました。

カスパーはいませんでしたが、コートが壁に掛けられ、衣服がピアノの上に置かれていることに気付きました。

そのためカスパーはトイレにいると思い、トイレにいきましたが、ここにもカスパーはいませんでした。

彼女が自分の部屋のある2階に戻ろうとしたとき、地下室への落とし戸が濡れているのに気が付きました。

彼女にはそれが血のように見えました。

嫌な予感がしたため地下室の落とし戸を開けると血が滴った跡がいくつかあり、地下室のすべての階段に大きな血痕が残っていることに気づき、一番下の段まで降りました。

そしてそこから水が溜まっている地下室をみると、隅に何か白いものあるのを見つけました。

彼女は急いで戻り、家主のメイドに中に何が白いのか見るために灯りを持って地下室に入ってみるように頼みました。

白いものに光を当てるとダウマー教授の母親は「あそこにカスパーが死んでいる!」叫びました。

その間にやって来たメイドと家主の息子が、カスパーを抱き上げましたが、カスパーは何の反応もしませんでした。

カスパーの顔はの死んだように青ざめ、顔の片側は血にまみれでした。

そしてすぐに持ち上げられ、地下室から引き上げられました。

カスパーはうめき声をあげて意識を取り戻し、「男!男!(Mann! Mann!)」と叫びました。

彼はすぐにベッドに寝かされ、時折、目を閉じたまま、次の片言の言葉やフレーズを叫んだりつぶやいたりしました。

「煙突掃除人!殺さないでください!」

「母さんに、私の部屋を地下室に移すように言ってください。」

その後、カスパーは暴れだし、屈強な男たちでも取り押さえることが困難でした。

温かい飲み物を飲ませて落ち着かせようとしましたが、カスパーは飲み物の入っている磁器製の器ごと嚙み砕き、丸ごと飲み込みました。

そして48時間に渡り放心状態であり、時々恐怖に襲われ意味不明なことを口走ったと言われています。

事件前の状況とダウマー邸内部構造

カスパーは午前11時から正午まで、カスパーは家の外で会計の授業に出席するはずでした。

ですが1829年10月17日はプルー博士から貰ったナッツを食べたら気分が悪くなり、ダウマー教授に家の自室にいるよう指示されていました。

この時、ダウマー教授は散歩に出かけており、ダウマー邸にはカスパーを除けばこの時点で家の掃除に忙しくしているダウマー教授の妻、母親、妹しかいませんでした。

ダウマー邸は人里離れた人通りの少ない場所にあり、広大な敷地に建っています。

表の建物と裏の建物に分かれており、表には家主が住み、裏にはダウマー一家が住んでいました。

裏の建物の正面玄関にはドアが1つあり、石畳の通路が中庭を両側から囲み、2階への螺旋階段がありました。

通路には木製の厩舎、鶏室などその他それらと似た部屋があり、カスパーの部屋もありました。

螺旋階段の下の床との接点近くで斜めに狭まる所には仕切りがあり、その先にトイレへの狭い出入口がありました。

1階の木製の厩舎の近くからは誰が螺旋階段から降りてくるのか、誰が秘密の部屋へ行こうとしてるのかがよく見えました。

カスパーはトイレに行くときは、キレイ好きなためか、まず1階にある自分の部屋で衣服を脱ぎ、薄手のシャツのみとなってからトイレに入っていました。

警察による捜査

カスパーの捜査は警察の手に委ねられ、10月20日に検査が行われました。

傷は額の生え際に1本の線があり、2/3は右半分、1/3は左半分にありました。

傷は左端で太くなっていたため、左端が最も深い傷を負ったと考えられました。

◎1830年6月に描かれたカスパー・ハウザーのパステル画

※額に一本の傷跡があるのが見える。

もし傷がきれいに切られていた場合、傷の両端は浅く中央は深くなるはずです。

医師の説明によれば、傷はたいしたことはなく、通常であれば6日もあれば治るということでしたが、カスパーの傷は治癒するまで22日かかりました。

カスパーは、腹痛でトイレにいるときに黒い覆面の身なりの良い男(初めは顔が黒かったため煙突掃除人だと思ったそうです)が目の前に現れて襲われ、トイレの前の床に倒れて気絶したと供述しました。

そして意識を取り戻した後、血に驚き、また襲われるのではと思って襲撃者から逃げ、中庭を通ってあちこち歩き回り(この時に自室にも行った)、カスパーの力では持ち上げられないはずの落とし戸を持ち上げて地下室に落ちたとのことでした。

12時の鐘が鳴るのを聞いたとき「ここは完全にひとけのない場所だ。ここでは誰も私を見つけることはできず、私はここで死ぬだろう」と思ったそうです。

「そのため私の目は涙でいっぱいになり、嘔吐し、その後意識を失いました。意識を取り戻したとき、私は自分の部屋のベッドの上にいて、隣には母親がいました。」と言いました。

捜査を開始して間もなく、犯人と思われる人物に関する目撃証言がいくつか出ました。

襲撃があった日時、カスパーが証言した恰好をした人物がダウマー邸から出ていくのが目撃されました。

そしてその少し後、カスパーが証言した身なりの良い人物が、ダウマー邸からそれほど遠くない通りの水場で(おそらく血まみれの)手を洗っているのが目撃されました。

その4日後、カスパーが説明した身なりの良い紳士が市門の前でニュルンベルクに入ろうとする女性と合流し、負傷したカスパーの生死について話し、この女性と一緒に門の下へ行き、そこでハウザーの傷に関する判事の公示を読んだ後、街には入らずに立ち去ったのが目撃されました。

しかし警察の捜査や高額の賞金にもかかわらず、犯人が見つかることはなく、凶器さえも見つかりませんでした。

最初の襲撃事件時にカスパー・ハウザーの死を願っているかもしれない人物

1812年の時点でバーデン大公家を狙っていたかもしれない勢力にバイエルン王家とホッホベルク伯爵家を挙げましたが、その内のバイエルン王家は世代交代し、マクシミリアン1世の最初の妻の子であるルートヴィヒ1世が跡を継いでおり、ルートヴィヒ1世にはバーデン大公家の継承権が無いためカスパー・ハウザーを殺害したとしても何のメリットも無く、襲撃することはないと考えられます。

次にホッホベルク伯爵家ですが、当時のバーデン大公ルートヴィヒ1世が亡くなった場合、もしカスパーが前バーデン大公カール・ルートヴィヒの子であると認められなければ長男がバーデン大公となる可能性が出てきます。

そのためホッホベルク伯爵家はカスパーの死を願っていた可能性は高いでしょう。

最後に、幼少時のカスパーを監禁していた実行犯はカスパーの死を願っていた可能性は高いと考えられます。

カスパーは自身の回想録の執筆を手掛けており、実行犯は「もしかしたら自分の情報が書かれるかもしれない」とその公表を恐れていた可能性はあるでしょう。

その他にカスパーの死を願っているかもしれない人物は記録に残っている中ではこの時点では考えられません。

この頃のカスパーはダウマー教授の元で保護されており、利害関係者が限られているからです。

ダウマー教授一家にはすべてアリバイがあり、ビンダー市長はカスパーに回想録を書くよう要請しているため死を願っているということは無いだろうと考えられます。

自傷ということも考えられますが、傷のつき方、住民達の証言、凶器が発見されていないことなどがそれを否定しています。

もし自傷説を考えるとしたら、カスパーは刃を額の左側に突き立てて右に一直線に切り、凶器をトイレに投げ入れるか自室に隠し、住民達の証言はすべて思い違いや記憶違いであるということになります。

もし凶器をトイレに隠した場合、自治体によって糞尿が回収され堆肥にされる段階でに発見されると考えられ、自室に隠した場合も捜査の過程で見つかるだろうと考えられます。

※当時のトイレは桶に貯めるタイプのものであり、各家庭などから集められた糞尿の多くは堆肥や火薬の原材料である硝酸カリウムを製造するために使用されました。

そのため警察は第三者による犯行として捜査を継続しました。

襲撃事件の影響

◎ビーベルバッハ夫妻の肖像画

事件の後、安全上の理由から、カスパーはビーベルバッハ(Biberbach)市議会議員の家族とともに住むことになり、2人の警察官による常時監視下に置かれました。

この襲撃事件により、カスパー・ハウザーに対する世間の関心が再び高まり、彼の出自が高貴な貴族ではないかとの噂が広がりました。

ですが、自分で傷を付けどこかに刃物を隠したと考える、カスパーの証言に懐疑的な人々もいました。

詐欺師であるとの訴えがありましたが、1830年「カスパー・ハウザーが詐欺師である可能性は低い」として退けられました。

ビーベルバッハ一家はカスパーを好意的に迎え入れました。

発砲事件

1830年4月3日、ビーベルバッハ邸のカスパーの部屋で拳銃が発砲されました。

前室にいた2人の警察官は、意識を失い頭から血を流して床に横たわっているカスパーを発見しました。

後に意識を取り戻したカスパーは、本を取るために椅子に立ち、椅子が転倒した際、何かを掴もうとして壁に掛かっていた拳銃を落とし、誤って発砲したと証言しました。

頭の傷が拳銃によるものかどうかは不明です。

この事件を受けて警察は疑問を抱き、カスパー・ハウザーについて再度調査をすることにりました。

1830年4月8日付のバイエルン法務省への報告書の中で、フォイエルバッハはカスパー・ハウザー王子説を「実際の法的な証拠のないロマンチックな伝説」と評価しました。

◎トゥーヘル男爵の肖像画

この事件の後からビーベルバッハ市議会議員一家との関係は悪化し、1830年5月、カスパーは後見人となったゴットリーブ・フォン・トゥーヘル(Gottlieb von Tucher)男爵の家に移されました。

ビーベルバッハ夫人はカスパーの「恐ろしい欺瞞性」と「偽装の芸術」について証言し、カスパーに向かって「虚栄心と悪意に満ちている」と言いました。

トゥーヘル男爵の元からスタンホープ伯爵の元へ

◎1825年頃のスタンホープ伯爵の銅板画

カスパーはトゥーヘル男爵邸で厳格に保護され、特に好奇心旺盛な人物の来訪は制限されました。

英国貴族フィリップ・ヘンリー・スタンホープ伯は「ヨーロッパの孤児」の謎に包まれた生い立ちに興味を持っており、カスパーに面会するのは困難であるにも関わらず知己を得ました。

スタンホープ伯は法学者フォイエルバッハの意見を信じ、カスパーの後見人となるために経済的援助を行いました。

1831年12月、ビンダー市長はトゥーヘル男爵と話し合い、後見権を得てスタンホープ伯を後見人としました。

スタンホープ伯は、今までニュルンベルク市が負担していたカスパー・ハウザーにかかる費用をすべて負担するという条件で後見人の地位を得たのでした。

スタンホープ伯はフォイエルバッハにカスパーの教育と養育を任せ、フォイエルバッハの提案に従いアンスバッハ(Ansbach)の教師ヨハン・ゲオルグ・マイヤー(Johann Georg Meyer)の家庭にカスパーを預けました。

捜査資料閲覧権限のある憲兵隊中尉ヨーゼフ・ヒッケルが「特別保佐人」に任命されました。

スタンホープ伯による調査

スタンホープ伯はカスパーの出自を明らかにするために多額の資金を投じました。

カスパーはハンガリー語やスラブ語の単語をいくつか知っており、以前、カスパーがハンガリーのメイセニー伯爵夫人(Countess Maytheny)が自分の母親であると言っていたこともあり、スタンホープ伯はカスパーの記憶を呼び起こすためにハンガリーへの旅費を提供しました。

ハンガリーへは2度訪問しましたが、結局何の成果も得られませんでした。

1832年1月、カスパーをイギリスに連れて行く約束をしていましたが、スタンホープ伯はアンスバッハを去りカスパーの元に戻ってくることはありませんでした。

僅か2ヶ月でカスパーへの興味を失ったスタンホープ伯はそれでもカスパーの生活費を払い続け、フォイエルバッハにすべてを任せ、引き続きマイヤー氏に保護させました。

フォイエルバッハのカスパー・ハウザーについての研究の公表

この著書の内容はカスパー・ハウザーに寄り添ったものでした。

そしてフォイエルバッハはこの時点でカスパーがバーデン大公家の子だろうと推測していました。

1832年の初めに前バーデン大公カール・ルートヴィヒの姉で前バイエルン王マクシミリアン1世の2番目の妻であるカロリーヌ王太后に送った秘密の回想録の中には、フォイエルバッハは王子説を支持する立場を明確にしたものの、自分の説は「いかなる法廷の席においても決定的な重要性をもたないでしょう」と書かれています。

カロリーヌ王太后はこのことを継子であるバイエルン王ルートヴィヒ1世に伝えました。

フォイエルバッハはこの時、カスパーをカロリーヌ王太后に保護して欲しいと願ったが、カロリーヌ王太后はカスパーを危険に晒したくなかったため保護しなかったと言われています。

そして同年、フォイエルバッハは「カスパー・ハウザー:人間の魂に対する犯罪の例(Kaspar Hauser, Beispiel eines Verbrechens am Seelenleben des Menschen)」という本を発表しました。

◎「カスパー・ハウザー:人間の魂に対する犯罪の例」

ナポレオンの養女ステファニー・ド・ボアルネの末娘であるマリー・アマリエは、自分に似ていたと言われるカスパー・ハウザーを、「1812年に生まれ、おそらく数日後に亡くなったとされる弟である」と発言しました。

◎バーデン王女「マリー・アマリエ」 1843年頃

マリー・アマリエは当時のことを周囲の話でしか知らない人物でしたが、この発言はカスパー・ハウザー王子説を支持する人達を強く後押ししました。

アンスバッハでの生活

◎マイヤー夫妻の肖像画

マイヤー氏は厳格な教師であり、カスパーの明らかな嘘や言い訳を嫌い、厳しく接しました。

カスパーはマイヤー氏に感謝していましたが、息が詰まる生活でした。

アンスバッハでのカスパーは最高の社交界に頻繁に出入りしており、魅力的な性格を持ち、情熱的なダンサーとして人気があったそうです。

スタンホープ伯は、フォイエルバッハに宛てた1832年10月5日付の書簡の中で、カスパーの信頼性に対する疑念を明確に伝えました。

スタンホープ伯からの支援がいつ途絶えるか分からない状況で、フォイエルバッハはカスパーが自立できる道を模索しました。

マイヤー氏は、カスパーは高度な知的訓練を必要とする仕事には向いていないことをフォイエルバッハに伝えると、1832年末頃、フォイエルバッハは法廷の書記兼写本家の仕事を与えました。

しかしカスパーはスタンホープがイギリスに連れて行ってくれることを期待しており、自分の状況に不満を抱いているようでした。

そしてファーマン牧師にカスパーの魂の治療を依頼し、1833年5月20日、ファーマン牧師はカスパーの堅信を行いました。

フォイエルバッハの死

1833年5月29日、アンゼルム・フォン・フォイエルバッハが亡くなりました。

卒中によって亡くなったと言われていますが、この死は唐突だったため不審でした。

前年にカスパーについての著作を発表し、王子説を周囲に話していたため、毒殺されたのではないかとささやかれることもありました。

ですが、フォイエルバッハの遺品を整理していると「カスパー・ハウザーは賢くて、狡猾な変わり者で、ならず者で、何の役にも立たない人物で、死刑にすべきだ。フォイエルバッハが生涯の終わりまでK.ハウザーを信じていたという見解のために。」と記したメモが見つかりました。

フォイエルバッハはそれまでカスパーを擁護している立場だったため、このメモは不可解なものと考えられました。

フォイエルバッハは実はカスパーをこのように思っており、カスパーを擁護するような行動や言動は、初めは半野生人だったカスパーをこのような人間にしてしまったことへの贖罪か良心によるものであるとしたら説明はつきます。

重要な後援者を失ったカスパーを取り巻く状況はさらに悪化しました。

1833年夏(おそらく8月後半)、ニュルンベルクで行われた民俗祭でカスパーは約3週間1人で歩き回っていたのが目撃されています。

スタンホープ伯によると、1833年12月9日にカスパーとマイヤー氏は口論し、関係は深刻なものとなり、マイヤー氏は「カスパーにどう接したらいいかわからない」と苦悩していたと言われています。

2度目の襲撃事件

◎カスパー・ハウザーの暗殺

1833年12月14日、カスパーは左胸に深い傷を負い、血を流して帰宅しました。

カスパーの話によると、見知らぬ宮廷庭師の使いがアンスバッハ宮廷庭園の堀り抜き井戸に来るように言われ、そこに向かいました。

しかし誰もいなかったため、1825年に建てられた詩人ヨハン・ペーター・ウズ(Johann Peter Uz)の記念碑の方向に向かいました。

◎ヨハン・ペーター・ウズ(Johann Peter Uz)の記念碑

ここで髭を生やした男がカスパーに近づき、バッグを手渡そうとし、カスパーがバッグに手を伸ばしたとき、刺されたとのことでした。

警察官ヘルラインが宮廷庭園を捜索したとき、鏡文字で書かれた鉛筆書きのメモが入った小さな紫色の女性用バッグを発見しました。

鏡文字のメモの内容

◎鏡文字のメモ

メモにはドイツ語で次のように書かれていました。

「ハウザーなら、私がどのような外見をしているのか、どこの出身なのかを正確に教えてくれるでしょう。

ハウザーの手間を省くために、私がどこから来たのかを自分で話します _ _ _

バイエルン州の国境から来ました _ _

川沿いです _ _ _ _ _

あなたが知りたい名前:M.L.Ö。」

カスパー・ハウザーの死

※「カスパー・ハウザーの死」19世紀頃 作者不明

死の直前、カスパーはフールマン牧師に「私は何もされていないのに、なぜ人に対して怒りや憎しみ、恨みを抱かなければならないのでしょう。」と言いました。

1833年12月17日午後10時頃、多くの謎を残し、カスパー・ハウザーは刺し傷が原因で死亡しました。

法医学検査に携わった医師らは、その傷が自傷行為によるものなのか、それとも他人によるものなのかについては意見が一致しませんでした。

その刺し傷は深く、自傷行為で可能だとは考えられなかったからです。

バイエルン王ルートヴィヒ1世はカスパーが殺害されたと確信し、犯人の逮捕に当時としては異例の高額1万ギルダーを報酬として提示しましたが、何の成果も得られませんでした。

2度目の襲撃事件の捜査結果

マイヤー氏の証言によると、紫色の女性用バッグはカスパーのものであり、「鏡文字のメモ」に残された文章の書き方や構文、スペルミスなどがカスパーの文章の特徴そのままであるとのことでした。

カスパーはいつも手紙を三角形に折っていましたが、「鏡文字のメモ」も同様に三角形に折られていました。

マイヤー夫人はカスパーと友好的な関係を築いていたため、三角形に折られたメモを見て非常に驚いたと言われています。

尚且つ「鏡文字のメモ」の内容はカスパーが生き残ることを前提として書かれているため、状況的に襲撃されたのでは無く自傷した可能性が濃厚となりました。

そして殺害現場となったアンスバッハ宮廷庭園の詩人ヨハン・ペーター・ウズの記念碑周辺には雪が降り積もっており、足跡が残されていましたが、カスパーのものしか確認できなかったそうです。

住民達から「犯人を見た」という情報提供がありましたが、どれも信頼に足るものではありませんでした。

これらの情報はバイエルン王の報奨金目当ての可能性もありました。

アンスバッハの判事の最終報告書の草案には、「ハウザーが他人によって殺害されたのではなく、犯罪が犯されなかったのではないかという疑惑を払拭することはできない」とあり、殺害ではなく自傷と結論付けられました。

はっきりと自傷であると書かれなかったのは、バイエルン王ルートヴィヒ1世が殺害説を強く信じていたからだと言われています。

カスパー・ハウザーの埋葬

※アンスバッハにあるカスパー・ハウザーの墓

1833年12月20日、カスパー・ハウザーは、住民の大きな同情を受けて、アンスバッハ市の墓地に埋葬されました。

墓石にはラテン語で「ここにカスパー・ハウザーが眠る。時代の謎、出自不明、1833年の謎の死。」と碑文が刻まれました。

アンスバッハ宮廷庭園のウズの記念碑からそれほど遠くない中庭にはカスパー・ハウザーの記念碑が建てられ、同じくラテン語で「1833年12月14日、ここで謎の男が謎の死を遂げた。」と碑文が刻まれました。

1833年時点でカスパー・ハウザーの死を願っていたかもしれない人物

1812年時点でバーデン大公家を狙っていた勢力としてバイエルン王家とホッホベルク家を挙げましたが、1833年時点でバイエルン王家はバーデン大公家を相続することはできず、ホッホベルク家も周辺国の賛同を得て長男レオポルトがすでにバーデン大公となっていたため、両家ともカスパーの死を願ってはいませんでした。

バイエルン王ルートヴィヒ1世はカスパーが自傷ではなく何者かによって殺害されたと信じており、自ら懸賞金も出していますし、もしホッホベルク家が1812年当時カスパーを取り替えたとしても、1833年時点でバーデン大公の地位はカスパーに脅かされることは無く、カスパーを殺害して騒ぎを大きくするメリットはありません。どちらかというと1812年当時の関係者を殺害した方がメリットが大きいと考えられます。

そのため両家がカスパー・ハウザーを襲撃することはないでしょう。

もし死を願っている人物がいるとすれば、それはスタンホープ伯でしょう。

スタンホープ伯はカスパーが詐欺師だと思っており、カスパーを厄介者だと考えていました。

そして後見人としてカスパーの養育費を今後も支払い続けていかなければならないため、彼の死を願っていても不思議ではありません。

ただ状況から見て自傷説の方が可能性が高そうです。

死後の発見

凶器の発見

カスパーの死から数年後、ウズの記念碑の東にある中庭でゴミを拾っていた作業員が刃渡り14cm全長30cmほどの両刃の短剣を発見しました。

この短剣とカスパーの刺し傷は完全に一致したため、この短剣がカスパーの左胸に刺されたものであると特定されました。

そして1926年、この短剣はフランス製であることが判明しました。

ピルザッハ城

※ピルザッハ城・・・出典:Wikipedia

ピルザッハ城(Schloss Pilsach)はノイマルクトから北東約6㎞のところにある掘りのある城です。

1808年、ピルザッハ城の所有者であるマグダレーナ・カロリーヌ・フライン・デュ・プレル(Magdalena Caroline Freiin du Prel)はカール・グリーセンベック・フォン・グリーセンバッハ(Karl Grießenbeck von Grießenbach)騎兵中尉と結婚し、それ以降1863年まで所有していました。

グリーセンバッハはカスパー・ハウザーがニュルンベルクで発見された1828年当時、ミュンヘンでバイエルン国王の近衛少佐を務めており、以前は騎兵大尉としてレーゲンスブルク第3憲兵隊に配属していたことがある人物です。

その後ピルザッハ城は所有者を転々とします。

そして1924年の改修工事中、中2階の部屋が発見され、その部屋の大きさがカスパーが言っていた部屋の大きさとほぼ一致したため、カスパー・ハウザーはこの部屋で幼少期を過ごしていたと考えられ話題になりました。

その後1981年から1982年にかけて、半分朽ち果てた衣服の残骸と、わずかに損傷しただけの木馬が城の中から発見されました。

年輪による年代測定によると木馬は1820年頃に作られたものであることが判明しました。

この部屋が何の目的で作られたのかなどの謎はありますが、カスパーが証言した部屋の大きさと後に発見された木馬以外の証拠が無いため、カスパー・ハウザーがこの部屋に住んでいたという説は今のところ否定されています。

ですが、カスパーは隠されて育てられており、カスパーが持っていた手紙には「ノイマルクトへの道を教えた」とあるため、カスパーが回想録で部屋について語ったことが真実であるなら、カスパーがピルザッハ城の秘密の部屋に閉じ込められていた可能性は大いにあるのではないでしょうか。

もしカスパーがピルザッハ城の秘密の部屋に閉じ込められていたとしたら、ピルザッハ城の当時の所有者であるグリーセンバッハ氏とその家族が事件に大きくかかわっているでしょう。

ボイゲン城

※ボイゲン城・・・出典:Wikipedia

ボイゲン城(Schloss Beuggen)はライン川上流域の当時のバーデン大公領ラインフェルデン(Rheinfelden)にある城です。

カスパーがダウマー教授の元にいる頃に昔のことを思い出して書くよう言われ、紋章の絵を描きました。

◎カスパー・ハウザーが描いた紋章の絵

カスパーが描いた紋章が当時のボイゲン城司令官の紋章と似ており、ボイゲン城には赤いチョークの馬が描かれている箇所があったため、カスパー・ハウザーは幼い頃(推測によると1815年~1816年の間頃)ボイゲン城にいたと考えられました。

ですが紋章と馬の絵以外にカスパーがボイゲン城にいたという証拠や痕跡が全く無いため、噂の域を出ていません。

DNA検査

1996年の最初の検査

アンスバッハのカスパー・ハウザー博物館に収蔵されているカスパーが致命傷を負ったときに着用していたと言われるズボンの腰帯から血液サンプルが採取されました。

汚損や環境変化による影響を最小限に抑えるために、二重層の生地の内側からサンプルを採取しました。

ミュンヘン大学法医学研究所とバーミンガム法医学州立研究所は協同でカスパーの遺伝物質がステファニー・ド・ボアルネ大公妃の子孫の女性と一致するかどうかを検査しました。

その結果、カスパー・ハウザーのミトコンドリアDNAはステファニー・ド・ボアルネのものと一致しないとの結論に達しました。

しかし、カスパー・ハウザー王子説を支持する人達はこの検査結果に納得せず、新たな検査を遺伝子調査を提案しました。

2002年の2回目の検査

番組制作会社が公共国営テレビ番組のために「カスパー・ハウザー殺人事件」の番組制作を行うこととなり、独自に遺伝子分析を行うためにいくつかの組織サンプルがミュンスター大学法医学研究所に渡されました。

組織サンプルは3房の毛髪束、カスパーが事件当日に履いていたズボンの血痕、カスパーが被っていたとされる帽子の汗の染みから採取されました。

毛髪束の1房はアンスバッハのカスパー・ハウザー博物館から、残りの2房はフォイエルバッハの遺品の中から提供されました。

カスパーのものとされる毛髪は、ステファニー・ド・ボアルネの直系の女系子孫であるアストリッド・フォン・メディンガース(Astrid von Medingers)の毛髪サンプルと比較されました。

その結果、重要な位置でのミトコンドリアDNAの相違は1ヵ所だけであり、それは一般的に起こり得ることでした。

ただDNAは完全に一致していないため、ベルント・ブリンクマン博士の言葉によれば、「現在までの時点では、カスパー・ハウザーがバーデン家の生物学的な近親者でないという結論を出してしまうのは無責任だろう」と結論付けられました。

3回目の検査の提案

2012年、とあるカールスルーエ(Karlsruher)の法制史家が、19世紀半ばまでバーデン辺境伯や大公、その近親者はプフォルツハイム(Pforzheim)にあるザンクト・ミヒャエル(St. Michael)城及び教会に埋葬されており、そこに埋葬されているカスパー・ハウザーと交換されたとされる早世した子の遺体からサンプルを採取してDNA検査を行うことを提案しました。

これらの所有権はバーデン=ヴュルテンベルク州(Land Baden-Württemberg)が有していますが、「カスパー・ハウザー出生の謎の解明」と「現在も続くバーデン家の墓所を暴いてはならないという倫理」を天秤にかけなければならず、州はバーデン家の意思に従ってこれを拒否しています。

未だ残る謎

カスパー・ハウザーがニュルンベルクで保護されて以降の人生は記録として残されています。

ですがカスパー・ハウザーの出自は?、幼少期にどのような場所で生活しどのように生きてきた?、1829年と1833年の襲撃事件は自作自演だったのか?など未だ多くの謎に包まれています。

そしてカスパーは取り替えられた王子だったのか?についてもDNA検査を行なったにも関わらず決着はついていません。

バーデン家もこの件に関して非協力的であり、そのことがさらに王子説を主張する人達を補強しているように感じます。

カスパー・ハウザーはフォイエルバッハが主張していたように王子だったのでしょうか?それともスタンホープ伯が主張しているように詐欺師だったのでしょうか?

あなたは何を信じますか?

参考資料

・「Kaspar Hauser, Beispiel eines Verbrechens am Seelenleben des Menschen (Ansbach 1832)」Paul Johann Anselm von Feuerbach

・「Kaspar Hausers Tod: Anmerkungen zu einem neuerschienenen Buch」Walther Schreibmüller

・その他