トゥーロン攻囲戦 03 マルグレイブ要塞の建設とラポワプ将軍の失敗 - Siege of Toulon 03

トゥーロン攻囲戦
勢力 | 戦力 | 損害 |
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フランス共和国 | 約32,000人 | 約1,700人 |
フランス王党派 グレートブリテン王国 スペイン王国 ナポリ王国 シチリア王国 サルディーニャ王国 |
約17,000人 | 約2,100人 |
さらなる困難Further difficulty
レギエット砦とバラキエ砦が狙われていると考えた同盟軍は即座に大規模な兵力をケールの丘の防衛に派遣、ケールの丘の頂に巨大な要塞を建造した。総司令官の名前に因み、マルグレイブ要塞と名付けられた。マルグレイブ要塞は星形要塞であり、20門の重火砲と4門の臼砲を配備していた。さらにサン・フィリップ(Saint-Phillipe)、サン・コーム(Saint-Côme)、サン・チャールズ(Saint-Charles)と呼ばれる3つの小さな砦によって支援されていた。

※レギエット砦とバラキエ砦の西にあるケールの丘にマルグレイブ要塞は建造された。
マルグレイブ要塞は明らかに難攻不落であった。フランス人からは小ジブラルタルとあだ名されるほどであった。
ファロン要塞攻略戦Attack on Fort Faron
10月1日、軍上層部の意見がまとまらない中、業を煮やしたラポワプ将軍は「ファロン山を攻略すべし」という自らの考えを実践するために、ラポワプ師団のみでファロン要塞を攻撃した。この時、ファロン山を攻撃した兵力は1,200~1,500名と言われている。

他部隊の支援も無く、さらにラポワプ師団は大砲すら持たず、一部の兵士はマスケット銃さえ持っていなかった。弾薬すらも不足している状況だった。明らかに時期尚早の準備不足の攻撃であった。
幾度となく突撃が繰り返されたが、すべて撃退された。ラポワプ師団は甚大な被害を被った。
ラポワプによれば、この時の攻撃で一時的に要塞を占領したが、カルトーに要請した援軍が届かず、イギリス部隊の反撃により退却を余儀なくされたとのことであった。
もしラポワプが要塞を完全に占領できていたとしたら、トゥーロン陥落は早かっただろう。
兵力、装備、物資が不足している状況の中、ラポワプ師団単体でのファロン要塞攻略は無謀である。しかし、何の策も無く決断もせず攻めあぐねているように見えるカルトーを見て、自分が動けばカルトーもそれに乗らざるを得ないと思ったのかもしれない。
同日、ダンベール男爵はルイ17世のフランス王位継承を宣言。王党派の旗である「フルール・ド・リス(fleur de lys)」を掲げ、トゥーロンをイギリス海軍に委ねた。
ブラン岬要塞攻略戦Attack on Fort Cap Brun
10月15日、ラポワプはトゥーロン最東にあるブラン岬要塞(Fort Cap Brun)に攻撃を仕掛けた。

ラポワプがいままで固執していたファロン山ではではなく、トゥーロンから離れた海沿いのブラン岬要塞へ攻撃した理由であるが、可能性として考えられるのは、ラポワプ師団の連絡線の安全確保とブラン岬を占拠することによりトゥーロン東の船の航行の阻害である。
連絡線の安全確保は前線を支えている兵力の維持増強をするのに必要である。トゥーロン東の船の航行を阻害することは、レギエット岬を占領してトゥーロン完全包囲を目指したボナパルトと似た構想である。もし、トゥーロン東の船の航行を阻害することが目的でブラン岬要塞を攻撃したとしたら、この時点でラポワプはボナパルトの考えに同調したと考えられる。
しかし、この攻撃もラマルグ要塞からの援軍により撃退されることとなる。
ラポワプはファロン山・ブラン岬と2回の攻撃に失敗している。カルトーはこれを材料にラポワプを解任した。ラポワプは10月23日まで包囲に戻らなかった。