若かりし日のナポレオン

本記事ではナポレオン・ボナパルトの誕生から学生生活の終わりまでを紹介しています。

コルシカ島では勝気で喧嘩っ早い少年だったナポレオンは、フランス本土ではいじめられ、父シャルルの死によって極貧生活を強いられました。

そんな若かりし日のナポレオンのエピソードです。


ナポレオン誕生前のコルシカ島の情勢

1768年、ジェノヴァ共和国はコルシカ島を借金の返済のためにフランス王国に譲渡しました。(1768年のヴェルサイユ条約)

ジェノヴァ共和国としては借金返済の手段が他に無く、地中海での影響力を失うもののコルシカ独立運動という悩みの種のあるコルシカ島を厄介払いできた形となりました。

しかし独立の夢に燃えていたコルシカの英雄パスカル・パオリはこの条約の非を評議会で訴えて、喝采を受け、屈辱であるとしてフランスに宣戦布告し、全島に警戒態勢を取らせました。

同年5月下旬、フランス軍は独立に燃えるコルシカ島に侵攻を開始し、第一段階としてコルシカ島北東部の都市バスティアとサン=フロランを制圧しました。

その後、部隊を次々と上陸させて増強し、コルシカ全島を掌握する計画の第二段階を開始しました。

パオリは1769年5月9日に行われたポンテ・ノーヴォの戦いで敗れ、パオリはフランス軍に追われる身となりました。

1769年6月13日、パオリは付き従う300人とともに港町ポルト・ヴェッキオから貿易都市リヴォルノに向けてイギリス船に乗って出航し、コルシカ島からの脱出を成功させました。

その後、フランス軍は6月21日までにコルシカ島南部の都市アジャクシオも制圧し、コルシカ島全土はフランス軍の手に落ちました。

これ以降、コルシカ島北部はナルボンヌ・ペレット将軍、南部はマルブフ将軍の支配下に置かれフランスによる統治が開始されます。

ナルボンヌ・ペレット中将は暴力的な性格で、1772年にコルシカ島総督となるマルブフ中将は穏やかな性格であり、2人の将軍の仲はとても悪かったと言われています。

ナポレオンの誕生と幼少期

1769年8月15日、ナポレオンはイタリア半島西部に浮かぶコルシカ島南部の都市アジャクシオでフランス人として生まれました。

ホメロスの英雄が描かれたタペストリーが飾られた部屋で生まれたと言われています。

父シャルル・ボナパルトと母マリア・レティツィア・ラモリーノの4番目の子供でした。

1771年7月21日、ナポレオンが2歳になる前に近所にあるサンタ・マリア・アスンタ大聖堂(Cathedral Santa Maria Assunta)でカトリック教徒として洗礼を受けました。

洗礼名は、1767年にコルシカ島のコルテ(Corte)で勇敢に戦って亡くなった叔父の名を受け継ぎ、ナブリオーネ(Napoleone)と名付けられました。

ボナパルト家はアジャクシオのマレルバ通り(現在のサン=シャルル通り)にある4階建ての建物の2階に住んでいました。

上階にはいとこ一家が住んでおり、反目し合っていたと言われています。

父シャルルはコルシカ島の判事であり評議会メンバーに選出されている有力者でしたが、とても裕福とは言えない生活でした。

ナポレオンはすぐに頭に血が上る喧嘩っ早い乱暴な子供でしたが、厳しい母親によって律せられました。

1774年、ナポレオンが5歳の時、母方の親戚の支援によりアジャクシオにある修道女ベギン(Beguine)姉妹が運営する女子寄宿学校の幼年クラスに入学し、通学するようになります。

ナポレオンはペギン姉妹の用意するジャムが好きで学校に通う楽しみの1つでした。

ここでナポレオンの計算の才能が判明し、コルシカ語に加えてイタリア語も話せるようになりました。

イタリア語の習得が早かったのは、コルシカ島を訪れたイタリア商人との交流によるところが大きかったと言われています

父シャルルが部屋で仕事をしている傍ら、ナポレオンは数字で計算して遊んでいたというエピソードも残されています。

同時期に女子寄宿学校でジャコミネッタ(Giacominetta)という名の少女に淡い恋心を抱きますが、他の子に嫉妬されることを嫌がったジャコミネッタに嫌われ一瞬で打ち砕かれることになりました。

その2年後の1776年、聖職者であるアベ・レッコ(Abbé Recco)が子供たちの家庭教師となり読書を教え、これ以降ナポレオンは読書愛好家となりました。

おそらく、レッコ神父は読書を教えたというよりも、既存の本を教科書に読み聞かせを行ったり言葉やその内容を教えたりしたのだと考えられます。

この出来事によりアベ・レッコは後にナポレオンに感謝され、セントヘレナ島でナポレオンが死ぬ間際の1821年、ナポレオンの遺言書に「20,000フランをアベ・レッコに、もし死亡していた場合は彼の最も近い相続人に贈る」ことが書かれました。

幼少時のナポレオンは叔母のジェルトゥルーダ(Geltruda)に乗馬を習い、戦争ごっこと兵士が好きで母レティシアに太鼓と木の剣を与えてもらったと言われています。

戦争ごっこでは常に最前列に並び、壁に兵士の絵を描いて遊んでいました。

ある時、兵士好きのナポレオンを見た母レティシアがナポレオンを驚かせようと、柔らかい白パンを兵士に頼み兵士用の硬いパンと交換してナポレオンにプレゼントしました。

しかしナポレオンが「白パンのほうがいい」と言って白パンを求めると、レティシアは「あなたは兵士でもあるのだから、兵士用のパンに慣れなければいけません」と言ってナポレオンを叱ったというエピソードが残されています。

1777年、父シャルルは独立派から転向して親フランス派となり、コルシカ島の貴族の代理として選出されました。

そしてコルシカ島総督ルイ・ド・マルブフと親交を結び、フランス国王ルイ16世と2度の謁見を果たしました。



フランスへの上陸とブリエンヌ王立軍事学校への入学

1778年12月15日、父シャルルは長男ジョセフと次男ナポレオンを連れてコルシカ島を旅立ちフランス本土に上陸しました。

ジョセフ10歳、ナポレオン9歳の時でした。

シャルルがフランス本土に来たのは、長男ジョセフをオータンの神学校(Collège)に入れ、次男ナポレオンをブリエンヌ王立軍事学校に入れるためでした。

シャルルは友人であるコルシカ島総督ルイ・ド・マルブフの強い推薦を受け、気が強く計算が得意なナポレオンを軍人の道に、気の弱いジョセフには聖職者の道を歩ませようと考えていました。

ブリエンヌ王立軍事学校は条件を満たせば無料で教育を受けさせてくれる上に、軍人となった後の収入も安定したものとなることもこのように考えた理由の1つでした。

そしてルイ・ド・マルブフの甥がオータンの司教でありリヨンの大司教でもあったため、その伝手で長男ジョセフにはオータンの神学校への入学を取り付け、ナポレオンにはルイ・ド・マルブフとド・マルブフの甥のリヨン大司教がブリエンヌ王立軍事学校に入学できるよう特別な推薦をしました。

1779年1月1日、シャルル一行はオータンの神学校に到着し、シャルルはジョセフの神学校入学の手続きをしました。

ナポレオンをブリエンヌ王立軍事学校に入学させるためには4代にわたる貴族の家柄であることが求められたため、ナポレオンはオータンの神学校に一時的に預けられ、シャルルはその証明を貰いに旅立ちました。

シャルルは約3ヵ月かけて証明書を手に入れ、ナポレオンはブリエンヌ王立軍事学校への入学が認められました。

※もし父シャルルが証明書を手に入れることができなかった場合、ナポレオンは兄ジョセフとともにオータンの神学校に通うことになったでしょう。

その間、ナポレオンは兄ジョセフとともにフランス語を学んでいました。

この約3ヵ月の間にナポレオンはコルシカ訛りのフランス語を話せるようになりましたが、フランス語のスペルに至っては、誤字(スペルミス)が多く、単語を繋げて書く(スペースがない)癖があり、コルシカ語混じりの他人には判別不能なフランス語しか習得できなかったと言われています。

ナポレオンは自分の名前(Napoleone di Buonaparte)をコルシカ語で「ナブリオーネ・ディ・ブオナパルテ」と発音していましたが、オータンの神学校で「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ」と発音するように矯正されました。

そして1779年4月23日、ナポレオンは9歳でブリエンヌ・ル・シャトー(Brienne-le-Château)にあるブリエンヌ王立軍事学校に入学しました。


※ブリエンヌ王立陸軍士官学校もしくはブリエンヌ王立陸軍幼年学校という名前が一般的ですが、ブリエンヌの学校は士官候補生への道が確約された士官学校ではなく、陸軍専門の学校というわけでもなかったため、「軍事学校」と訳しています。


ブリエンヌ王立軍事学校のいじめられっ子

1779年5月15日、ブリエンヌ王立軍事学校で授業が開始されました。

ナポレオンはブリエンヌ王立軍事学校で、フランス語、ラテン語、数学、聖書における歴史、地理、絵画、音楽、ダンスなどを学んでいましたが、田舎者であり、貴族としての身分も低く、礼儀作法もなってなく、どもりがあり、コルシカ訛りのフランス語を喋るナポレオンは浮いた存在でした。

ナポレオンは「ラ・パーイユ・オーネ(La Paille au nez)」とあだ名され、同級生だけではなく一部の教師にも嘲笑されいじめられていました。

「ラ・パーイユ・オーネ」を日本語に訳すと「鼻についた藁屑」です。

フランス語への改名前のナポレオンは「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ」と名乗っていました。

そのため、「Na(ナ)」→「La(ラ)」、「pole(ポレ)」→「Paille(パーイユ)」、「one(オーネ)」→「au nez(オーネ)」と名前から引用してあだ名されたのだと考えられます。

「Paille」の部分はスペルに引っかけています。

この頃の孤独なナポレオンは読書と校庭にある小さな菜園の土いじりをして過ごしていました。

プルタルコスの「英雄伝」などを何度も読み返していたと言われています。

ブリエンヌ王立軍事学校では約5年間過ごしますが、ナポレオンはその間に自分の地位を少しづつ築き上げ、少ないながらも後のナポレオンの秘書官を務めるルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ(Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne)などの友人を得ました。


ブリエンヌ王立軍事学校での雪合戦

このブリエンヌ王立軍事学校時代のエピソードとして有名なのが「雪合戦」です。

1783年の終わりから1784年の始めまでのある冬の日、ブリエンヌ王立軍事学校の校庭には一面の大雪が降り積っていました。

この年のような大雪はフランスでは珍しいものでした。

しかし、生徒たちは慣れていない寒さに不平を言い、校庭を覆う雪により屋外で遊ぶことができなくなり、教室に閉じこもるしかありませんでした。

ナポレオンはうんざりし、級友達に提案しました。

「シャベルを手に入れて堡塁を作り、塹壕を掘り、城壁や砦などを作り上げれば、雪を楽しむことができます。私たちは自分たちをいくつかの部隊に分けて包囲陣を形成することができます。私は攻撃側(包囲側)を指揮することを約束します。」

級友達はナポレオンの提案を受け入れ、率先して堡塁や塹壕、城壁や砦作りの作業に取り掛かりました。

休み時間しか作業を行えなかったため、完成するまで数日かかったと言われています。

ルールは、少数の砦での防御側と多数の砦を包囲する攻撃側に分かれ、攻撃側が砦を占領したら次の試合は攻撃側の一部と防御側が入れ替わるというものでした。

この雪合戦はおよそ2週間にわたって続けられ、休み時間になると級友達が集まって戦いが繰り広げられました。

砦や城壁は修復されながら使用されました。

雪解けとともに雪が少なくなると雪玉に砂利や石が混じり始め、危険な戦いとなりました。

戦いは日を追うごとに激しくなり、雪玉は砂利や石に代わって投げつけられ、ブドウ弾のように降り注ぎました。

ナポレオンの友ブーリエンヌもこのブドウ弾の被害者となりました。

このような危険な戦いとなってもナポレオンは攻撃側の指揮官として何度も砦を占領し、ナポレオンが敗北することは無かったと言われています。

このエピソードは実際の出来事かどうかは不明ですが、もし実際の出来事だとしたらナポレオンにはこの頃から指揮官としての才能があったことになります。



ブリエンヌ王立軍事学校の卒業

1783年、14歳になったナポレオンは未だに嫌がらせや不平等は続いていたものの学友の中での立場を築きあげていました。

弟リュシアンもブリエンヌ王立軍事学校に入学してきました。

読書好きなナポレオンはゲーテの『若きウェルテルの悩み』やルソーの『人間不平等起源論』、『社会契約論』などを何度も読み返していたと言われています。

当時のヨーロッパで多数の自殺者を出して「精神的インフルエンザの病原体」と呼ばれた『若きウェルテルの悩み』は大人になっても遠征に携行していくなど、ナポレオンの生涯の愛読書になりました。

1783年当時の監察官の報告書には、数学の応用は常に抜群であること。歴史や地理に精通しているが絵画、音楽、ダンスなどの嗜み事やラテン語は苦手であること。優秀な海軍士官になると予想されること。そしてパリの高等士官学校への入学を許可するにふさわしいことなどが書かれています。

しかし、ブリエンヌ王立軍事学校校長であるベルトン(Berton)神父はラテン語が苦手であることを理由にパリの高等士官学校への入学に反対していたと言われています。

1784年9月22日、ナポレオンはパリの高等士官学校への入学試験を受け、見事合格しました。

ブーリエンヌは軍人の道に進まず、ブリエンヌ王立軍事学校で別れることになりました。

1784年10月17日、15歳のナポレオンはブリエンヌ王立軍事学校を去り、パリに出発しました。


パリの高等士官学校入学と父の死

1784年10月22日、ナポレオンはパリの高等士官学校に入学し、士官候補生となりました。

高等士官学校では、ブリエンヌ王立軍事学校でも学んでいた数学、歴史、地理、ダンスに加え、ドイツ語、剣術、築城術を学んだと言われています。

ちっぽけな田舎の貴族であるナポレオンはここでも不平等に苦しめられましたが、1歳年長で州立大学からの転校生アレクサンドル・デ・マジ(Alexandore Des Mazis)という友人ができたことにより学校生活は少し明るいものになりました。

ナポレオンの生涯に渡る友人となるデ・マジは、今年の卒業試験に合格することができず、翌年に卒業することを目指していました。

1784年の終わり頃、父シャルルは嘔吐と腹痛に苦しみ、食事を減らすことを余儀なくされました。

その後シャルルは有名な大学病院のあるモンペリエに行き治療を受けましたが、1785年2月24日、モンペリエの自宅で息を引き取りました。

胃癌だったと言われています。

※モンペリエはアヴィニョンから南西約80㎞のところに位置しています。モンペリエ大学を中心とした学園都市で医学部が特に有名です。ブリュメール18日のクーデターにより実権を失ったポール・バラスが隠遁生活を送っていた場所であり、ルネサンス期の医師・予言者であるノストラダムスがモンペリエ大学で医学を学んでいた場所でもあります。このことから、ナポレオンの父シャルルは当時としては最も優れた場所で治療していたことが分かります。

太平洋探検への志願

1785年3月23日、ナポレオンは父シャルルが亡くなったことを知りました。

家長である父の死によりボナパルト一家の収入は激減し、ナポレオンは極貧生活を強いられました。

シャルルが土地や多少の財産を残したのに加え、母レティシアは引き続きリヨンの繊維工場に供給するために所有している土地で蚕を繁殖させて絹の生産を行い生計を立てようとしましたが、家計は非常に苦しいものでした。

ナポレオンは食事を抑え、日に日に痩せこけていったと言われています。

ナポレオンの窮状を見かねた学校側がナポレオンを救済するために早期に軍で働き収入を得ることができるように計らったかどうかは定かではありませんが、ナポレオンの教育課程は短縮されました。

※ナポレオンが優秀だったからという説もありますが、個人的には父の死とともに教育課程が短縮されているように見えるため、極貧生活からの救済説が有力なのではないかと思います。

この極貧生活をできる限り早く解消するためなのか自身の知的探求心によるものなのかは定かではありませんが、ナポレオンはガロー(Jean François de Galaup)提督が太平洋探検の乗組員を募集していることを知り、それに志願しました。

ガロー提督の太平洋探検はフランス西部にあるブレスト港を出航し、南アメリカ大陸最南端に位置するホーン岬を通って太平洋に出て北アメリカ大陸西岸やアラスカを探索し、太平洋を横断してハワイに寄港し、日本近海を探検した後にオーストラリアに向かい、フランスに帰還するというものでした。

ナポレオンの名前は補欠リストに加えられましたが、ナポレオンが呼ばれることはありませんでした。

この出来事からナポレオン自身の将来の選択肢として海軍も含まれていたことがわかります。

海軍では数学ができ、大砲を扱えることが必須でした。

もしこの航海にナポレオンが選ばれていたとしたら、英雄ナポレオンは存在すること無く、日本とオーストラリアを訪れた後、海の藻屑となっていたでしょう。

そしてナポレオン無きフランス共和国はライン方面とイタリア方面で敗北を続け窮地に立たされたのではないかと考えられます。

太平洋探検への出航は8月、卒業試験は9月ということを考えると、高等士官学校の卒業を諦めてでもなるべく早く稼ぐことができるように考えた結果だったのだと推測できます。



高等士官学校の卒業

ナポレオンは太平洋探検には選ばれませんでしたがやはり数学に秀でており、通常3年をかけて習うものを卒業試験までのわずか10ヵ月ほどで習得したと言われています。

デ・マジもナポレオンの歩兵訓練を指導し、ナポレオンが卒業できるように支援しました。

1785年9月、16歳になったナポレオンは、「ラプラスの悪魔」で有名なピエール=シモン・ラプラスの質問を乗り越え、卒業試験に合格しました 。

137人が卒業試験を受け58人が合格した中でナポレオンの卒業試験の成績は42位でした。

しっかりと教育課程をすべて修了した者が136人中57人合格し、教育課程を短縮されたナポレオンは卒業試験合格者58人中42位だったのですから優秀な成績だったと言えるでしょう。

デ・マジも同時に合格し、ともにお互いの合格を喜び合いました。

9月27日、将来の元帥であるルイ・ニコラ・ダヴーが入学してきます。

この時点では廊下ですれ違うことはあったかもしれませんが、ナポレオンとダヴーはまだ知り合ってはいませんでした。

ダヴーはこの後パリの高等士官学校で3年を過ごします。