ジェノヴァ共和国の滅亡 02:ジェノヴァ共和国の滅亡とリグーリア共和国の誕生 
Fall of the Republic of Genoa

ジェノヴァ共和国の崩壊の始まり

 1797年5月21日、ジェノヴァ共和国内のフランス人とジェノヴァ国内のジャコバン派はドゥカーレ宮殿を取り囲み、ジェノヴァ政府に対する抗議活動を行なった。

 事の発端はジェノヴァの関税制度への不満であり、それが対立となってフランス人の逮捕に発展したのである。

 フランス人は同胞の逮捕に抗議し、解放を求めていた。

 これに対し、ジェノヴァ政府は「逮捕に至ったのには十分な理由があり、法律を遵守すべきである。正義には当然の方向性があるだろう。あなたたちが撤退するか、解散するかしなければ、武力を行使するだろう。」と宣言した。

 フランス人はこの脅迫的な言葉に激怒し、ドゥカーレ宮殿に突入しようとさえした。

 この時、フランスの全権公使であるファイポール(Faipoult)はフランスと友好国の政治問題に干渉しないことを世界に示すために体裁を守るよう政府から命令を受けていたため、公使館へ支援を求めに来たフランス人を積極的に援助するわけにはいかなかった。

ジェノヴァでの暴動とフランス人の殺害

※ファイポールの肖像画

 夕方になると、フランス人の抗議活動は、広場などに拠点を作ってたむろし、周囲を威圧して小競り合いを起こす暴動となっていた。

 ジェノヴァ政府はファイポールの元に2人の判事を派遣し、暴動を鎮めるために何らかの行動をするよう求めた。

 しかしファイポールはジェノヴァ政府がこの暴動に対し武力介入する瞬間を待っていた。

 ファイポールは和平調停者のふりをしてこの問題に介入したかったのである。

 そして5月22日、遂にその瞬間が訪れた。

 フランス人はマラパガ刑務所を襲ってそこに拘留されていたフランス人達を解放し、その他の犯罪者にも自由と武器を与え、ジェノヴァ政府を打倒するための殺し合いに発展させたのである。

 これに対してジェノヴァ政府は武力での鎮圧に乗り出さざるを得なくなった。

 ファイポールは大きな兵力を有するイタリア方面軍総司令官ボナパルトと連絡を取り合っており、「ジェノヴァ政府が最初の一歩を踏み出した。」との書簡をすぐに送った。

 そしてジェノヴァ政府に対し「ジェノヴァでもヴェネツィアのような根本的な改革が本当に時代と状況によって必要ではないかどうかを確認するために集まって協議する。」とボナパルトの介入をほのめかして牽制した。

 それにも関わらず、ジェノヴァ政府は暴動を鎮圧するために武力を行使し、多くのフランス人を殺害、逮捕して暴動を鎮圧した。

暴動の鎮圧と北イタリアを支配するナポレオンへの書簡

 5月23日夜、ジェノヴァ兵達は威圧的に立ち、敗北したフランス人達は散り散りになり、報復と法律、そしてジェノヴァの民衆を恐れていた。

 ジェノヴァ政府はこのまま暴動が完全に鎮圧することを協議しており、ファイポールの元に特使を派遣し、総督であるジローラモ・ルイージ・ドゥラッツォ(Girolamo Luigi Durazzo)からボナパルトに事件の遺憾の意と政府の潔白を証明する書簡を送ることを決定した。

 これに対して事件を間近で見ていたファイポールはジェノヴァ政府にフランス人たちの自由を求め、時代の要請に応え改革を勧めた。

 そしてボナパルトに「フランス人が虐殺され、不当に逮捕された」と書簡を送った。

 この時、ジェノヴァ総督は北イタリアの大部分を支配するボナパルトがこの事件をどのように捉え判断するかについて大きな不安を感じていたと言われている。

モンテベッロ会議の始まり

 1797年5月24日、オーストリア帝国とフランス共和国との最終的な和平が翌25日にモンテベッロで協議されることが決定した。

 レオーベン条約と同様に、オーストリア帝国の全権大使はメルヴェルト伯爵、デゲルマン男爵、フランス共和国の代表者はボナパルトとクラーク中将であり、ナポリ公使ガロ侯爵が仲介することとなった。

 そして神聖ローマ帝国とフランス共和国との最終的な和平についての協議は7月1日にラシュタット(Rastadt)で開催されることも同時に決められた。

 小さな町であるモンテベッロにオーストリア全権大使、ナポリ公使はもちろん、サルディーニャ王国、教皇領、ジェノヴァ共和国、ヴェネツィア共和国臨時政府、パルマ公国の公使、スイスやドイツ諸州の王子などが滞在し、モンテベッロの城(ヴィラ・プステリア・クリヴェッリ・アルコナティ(Villa Pusterla-Crivelli-Arconati)のこと)はまるで王宮のようだったと言われている。

 5月25日、予定通りモンテベッロにてオーストリアの全権大使との最終的な和平についての交渉が行なわれ、レオーベン条約の批准書を交換した。

 メルヴェルト伯爵はオーストリア領からの完全な撤退を優先し、イストリアとダルマチアをオーストリア領とすることを主張したが、ボナパルトはそれに対して何の対抗意見も主張せず、イストリアとダルマチアがオーストリア領となることを容認した。

 ボナパルトはオーストリアに対しベルンでの会議開催の提案を放棄し、個別の和平についての交渉に同意するよう要求しただけだった。

 ガロ侯爵はこれに同意し、ボナパルトとクラーク中将は個別の和平についての基礎的な事項を相談するために、この日の協議を一旦持ち帰り、後にガロ侯爵を通じてその回答を伝えることとした。

 メルヴェルト伯爵もこの協議内容を皇帝に報告するためにウィーンへ持ち帰った。

ジェノヴァ共和国への威圧

 5月25日、ボナパルトはジェノヴァ共和国での事件を知ると、ノヴァラ(Novare)にいるピエモンテ軍(サルディーニャ王国軍)司令官サン=マルサン(Antoine Marie Philippe Asinari de Saint-Marsan)へ協力を仰いだ。

 これに対し、サルディーニャ王国政府はフランスに協力することを確約した。

 フランスとオーストリアが和平を締結し、ヴェネツィア共和国が滅亡したことを知ったサルディーニャ国王は、フランスはこれから反抗するイタリアの小国を順番に滅ぼしていくと考えられ、フランスに対して従順な態度を見せたのである。

 5月27日、ボナパルトは副官であるラ・ヴァレッテ将軍に書簡を持たせてジェノヴァ共和国の総督(ドージェ)の元へ派遣した。

 ラ・ヴァレッテは5月29日にジェノヴァに到着し、24時間以内のフランス人の解放とフランスに対して扇動したジェノヴァの民衆達の逮捕を要求した。

 そして、もし要求が受け入れられない場合、ジェノヴァ政府を打倒することを暗に示唆し、イタリアに10万の兵がいると脅迫した。

 ボナパルトの意図を知ったファイポールは方針を変更し、交渉によりボナパルトを支援した。

ジェノヴァ共和国への進軍

 5月28日、ランヌ旅団を全速力でパヴィアへ向かわせ、ヴァド港に停泊しているフランス艦隊にその場に留まり、可能なら軽艦を派遣するよう命じた。

 その間、ジェノヴァ政府とボナパルトとの間を行き来しているラ・ヴァレッテ将軍は、ジェノヴァの状況を詳細に偵察し、6月3日までにジェノヴァ国内の世論が分裂していることをボナパルトに伝えた。

 この時、ボナパルトはファイポールから何の連絡も届いていなかったためセリュリエ師団を本格的に動かすことを躊躇していた。

 しびれを切らしたボナパルトは4,000人~5,000人の兵力をポー河南岸に位置するアレーナ(Arena)への移動命令を出すのと同時に、ファイポールに対して報告を促した。

 5月29日ボナパルトはファイポールの報告を受け取り、次のように返信した。

「ジェノヴァに武装する時間を与えれば、オーストリアとの交渉が失敗し、皇帝がジェノヴァの混乱に巻き込まれた場合には当然のこととして、我々は重大な当惑を経験することになるだろう。」

 この時ファイポールはジェノヴァ政府と交渉を継続し、ボナパルトの要求通り、逮捕されたフランス人の解放、フランス人と対立した集団の武装解除、フランス人を弾圧した議員や首謀者の逮捕、賠償金の支払いを行わせることに成功しており、ジェノヴァの武器庫に4,000挺のライフル銃が戻されていた。

 そしてボナパルトの恐怖に屈したジェノヴァ政府は、国民に対して「国の健全はフランスによってもたらされるものであるため、フランス人と融和するように」と布告を出した。

 この言葉は、ジェノヴァ共和国の安全がどの方向に求められるかを知っていた国民を大いに不快にさせ、ジェノヴァ国内のフランス人やジャコバン派に力を与えた。

 そのためリグーリアの海岸沿いの各都市(サヴォナ、フィナーレ、ポルト・マウリツィオなど)でジャコバン派が反乱を起こし、ジェノヴァ兵を圧倒した。

 そしてフランス艦隊がジェノヴァの水域に現れて河口付近に陣取り、ルスカ将軍麾下の最初の分隊が現れてポルチェヴェラ(Polcevera)川に展開し、少しずつ首都に近づいていた。

 さらにセリュリエ師団がルスカを支援するためにその後を追ってトルトナに入ったという噂もジェノヴァ政府の元にもたらされた。

 そのためジェノヴァ政府の議員に逃亡者が相次ぎ、フランスの要求を受け入れるかどうかを決議するために開催された大評議会は欠席者が多かったといわれている。

最終的な和平に関するナポレオンの提案

 5月25日の数日後、ボナパルトとクラークは、最終的な和平交渉の基礎的な事項ついてガロ侯爵と会談を行ない、ガロ侯爵はこれに同意した。

 

◎ナポレオンが提案した最終的な和平に関する基礎的な事項

1、フランスがライン辺境を獲得する。

2、ヴェネツィアを皇帝に引き渡し、西の国境をアディジェ川までとする。

3、チザルピーナ共和国 (まだ創設予定) は東の国境をアディジェ川をとし、マントヴァ要塞もチザルピーナ共和国に併合される。

 

 ガロ侯爵はこれらの提案を持ってウィーンへ旅立った。

 ボナパルトはこのクラーク中将との話し合いを経て国境をアディジェ川と定め、ヴェネツィア(イストリアとダルマチアを含む)をオーストリアに割譲する代わりにマントヴァ要塞を得ようとしたのである。

ジェノヴァ共和国の滅亡とリグーリア共和国の建国

 6月6日、ジェノヴァ共和国はついにフランス軍の圧力に屈し、ボナパルトの本部のあるモンテベッロでフランス共和国との秘密条約を締結することを余儀なくされた。

 秘密条約(モンテベッロの和約)では、ジェノヴァ政府は解散し、新たにリグーリア共和国臨時政府を樹立すること、臨時政府は6月14日に設置されること、カトリックの宗教に反することをしないように注意し、統合債務を保証し、ジェノヴァ市の自由港やサン・ジョルジュ銀行を維持し、そして現在存在する貧しい貴族の生活を資力の許す限り賄えるよう措置を講じることなどが決められた。

 そして新たな臨時政府の議長には、現総督が就任することとなった。

 リグーリア共和国の新たな元首の就任式が6月13日に行なわれ、その後、ジェノヴァ貴族の黄金の書がアックアベルデ広場(Piazza Acquaverde)で燃やされた。

※黄金の書とは「貴族リスト」のこと。

 1005年の建国から792年後の6月14日、ジェノヴァ共和国はナポレオンによって滅ぼされ、新たにリグーリア共和国が建国された。

 これにより「最も穏やかな共和国」と呼ばれる国はルッカ共和国、サン・マリノ共和国のみとなった。