【詳細解説】マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)【第一次イタリア遠征】
Siege of Mantua ( July 1796 ) 11

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

本記事では第一次イタリア遠征におけるボルゲットの戦い後からガルダ湖畔の戦いが始まるまでの間の出来事である「トルトナの反乱」、「スフォルツェスコ城の攻略」、「教皇領侵攻」、「マントヴァ要塞攻囲戦」について詳しく解説しています。

ナポレオンはこの期間に奔走し、後方の大きな問題のほとんどを解決しましたが、難攻不落の大要塞であるマントヴァ要塞だけは占領できませんでした。

フランス軍側だけでなく、オーストリア軍側の資料も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでロディ戦役とガルダ湖畔の戦いを繋ぐ期間について詳しく知りたい人や、ナポレオンや戦術好き、歴史好きな人は是非ご覧ください。

マントヴァ要塞攻囲戦 01 マントヴァ要塞の包囲

1796年6月初め、5月30日のボルゲットの戦いに敗北したボーリュー率いるオーストリア軍はミンチョ川流域からトレント方面へ逃れ再起をはかっていました。

フランス軍が接近して来るのをみたマントヴァ要塞司令官カント・ディール大将は再配置を行い防備を固めました。

一方、フランス軍側では6月4日にマントヴァ要塞を完全に包囲しました。

チッタデッラ要塞はセリュリエ将軍、サン・ジョルジョはダルマーニュ将軍、要塞南側はオージュロー将軍が担当しました。

マントヴァ要塞は周囲を4つの湖に囲まれた難攻不落の大要塞であり、この時期は疫病が蔓延する夏の季節でした。

そしてマントヴァには多くの武器や弾薬があり、およそ3ヶ月分の食料備蓄があると考えられていました。

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マントヴァ要塞攻囲戦 02 対オーストリア軍防衛計画とブレシアの休戦

1796年6月4日、セリュリエ師団、オージュロー師団、キルメイン騎兵隊でマントヴァ要塞の本格的な包囲に入ったフランス軍でしたが、マントヴァ要塞の包囲の他、トレント方面へ逃れたオーストリア軍、ミラノのスフォルツェスコ城の攻略、後方(主にトルトナ方面)の反乱地帯の安全確保、支配地域が隣接した教皇領への対応を行わなければなりませんでした。

ナポレオンはマッセナ将軍に対オーストリア軍の総指揮を執らせ、セリュリエにマントヴァ包囲を指揮させ、自身は反乱地域の平定、そしてオージュロー師団とともに教皇領への遠征を行い、同時にデスピノイにミラノのスフォルツェスコ城を攻略させ、その後、マントヴァ要塞を陥落させる計画を考えていました。

6月5日、ナポレオンはナポリ王国と休戦協定(ブレシアの休戦)を締結しました。

これにより第一次対仏大同盟からナポリ王国が脱落しました。

詳細記事では対オーストリアの前線を防衛するマッセナ師団の計画などについても記載しています。

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マントヴァ要塞攻囲戦 03 マントヴァ要塞攻撃計画の延期

ナポレオンはオージュローとセリュリエに命じマントヴァ要塞へさらなる攻撃を行おうとしましたが、6月上旬に降った大雨によってマントヴァの河川が氾濫し近づくことさえできませんでした。

そのため、フランス軍は「攻囲」から「封鎖」に方針を変更しました。

マントヴァ要塞駐屯軍はこれにより休息の時間が得られ、要塞の防御を修復・強化するための武装に費やしました。

1796年6月12日、オージュロー師団はナポレオンの命令によりマントヴァの南側の包囲をダルマーニュ将軍と交代し、レニャーゴ要塞へ向かいました。

オージュロー師団約6,000人がマントヴァの包囲から抜けたことにより、セリュリエ師団約7,000人、ダルマーニュ旅団約3,000人、合計約10,000人の兵力で約14,000人のオーストリア軍が立て籠もるマントヴァ要塞を包囲することを余儀なくされたセリュリエでしたが、セリュリエはマントヴァ要塞を陥落させることを考えており、マントヴァ要塞を陥落させる計画をボナパルトに提案しました。

しかし、この時点でマントヴァ要塞の攻略、反乱地域の平定、スフォルツェスコ城の攻略、対オーストリア軍の防衛、教皇領への遠征のすべてを同時に行うには、兵員、装備、物資が明らかに不足しており、この時点ではセリュリエの作戦案をあきらめざるを得ませんでした。

そのためセリュリエはマントヴァ要塞を柵や逆茂木で囲み、封鎖を主軸とした包囲作戦を展開しました。

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マントヴァ要塞攻囲戦 04 オーストリア軍総司令官の交替とジェノヴァの陰謀

オーストリア軍総司令官ボーリューは1796年5月31日にロヴェレトへ逃れた後、6月初旬までロヴェレトを中心に軍を集結させました。

しかしボーリューは敗北による重圧で積極的に動くことができず、アディジェ渓谷(ロヴェレト周辺)で防備を固めました。

そして6月中旬、ボーリューはイタリア陸軍総司令官を解任され、本国に呼び戻されました。

次の司令官が着任するまでの間、メラス中将が暫定的に指揮を執り、トレントに本営を移して再編成を行いました。

オーストリア本国ではボロボロな状態となり果てた旧ボーリュー軍を補強するために総力を挙げていました。

6月末、イタリア陸軍総司令官としてヴルムサー元帥が任命され、総勢約25,000人を率いメラス中将と合流すべくトレントに向かいました。

一方、フランス軍側では、トルトナの反乱を鎮圧し、これらの反乱はジェノヴァの陰謀であることを露見させていました。

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マントヴァ要塞攻囲戦 05 スフォルツェスコ城攻囲戦の始まりと教皇領侵攻

1796年6月15日、ミラノにトルトナからの砲兵と物資が到着し、本格的なスフォルツェスコ城の攻略が始まりました。

ミラノ占領以降、ずっと封鎖されたままの状態でしたが、ボーリューが敗走したことにより砲兵に余裕ができたのです。

フランス軍はスフォルツェスコ城の北西側にいくつもの砲台の建設を開始しました。

オーストリア守備隊は砲台の建設を阻止するべく砲撃を行いました。

フランス側では6月19日、オージュロー師団はボローニャを、ヴォーボワ旅団はモデナを占領し、ナポレオンはヴォーボワ旅団と合流しました。

そしてモデナの東に位置するウルバノ要塞を抵抗なく占領しました。

6月20日未明、ナポレオンはボローニャに到着し、オージュロー師団と合流しました。

ナポレオンはオージュロー師団を前進させ、22日にイモラを占領しました。

6月23日、教皇ピウス6世は戦うことなくフランス軍の圧力に屈し、スペイン王国の大使である騎士アザラの仲介を通じてボローニャで休戦協定(ボローニャの休戦)に署名しました。

その後、ヴォーボワ師団はトスカーナ大公国に入り、これを勢力下に置きました。

トスカーナ大公国の首都リヴォルノにはイギリス海軍の地中海での重要な活動拠点があったのです。

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マントヴァ要塞攻囲戦 06 スフォルツェスコ城の占領と教皇領での反乱

1796年6月26日未明、スフォルツェスコ城の北西側に建設していたそれぞれ3門~4門の大砲が配備された7砲台が完成し、デスピノイ少将は午前9時に一斉砲撃を開始しました。

スフォルツェスコ城を守るラミー大佐は損傷を土で修復し、損耗した部隊を健在な部隊と交代させ、粘り強く抵抗を続けました。

しかし6月29日朝、ラミー大佐率いるオーストリア守備隊は遂に降伏しました。

一方、教皇領方面では6月末~7月初旬にかけて暴動が発生して急速に各地に広まり、7月5日、ラヴェンナの西にあるルーゴに人々が集まり教皇軍を結成しました。

7月7日、オージュローは各地に散らばった部隊を結集し、反乱を鎮圧しました。

オージュローの報復は凄まじく、略奪の限りを尽くしたと言われています。

その後、オージュロー師団はレニャーゴ要塞へ戻り、ナポレオンはマントヴァ要塞攻略に向かいました。

詳細記事ではヴルムサー元帥の到着とマッセナ師団とオーストリア軍の衝突についても記載しています。

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マントヴァ要塞攻囲戦 07 オーストリア軍による飼料調達のための出撃とセリュリエ将軍による反攻作戦

包囲されてから1ヵ月以上が経過し、マントヴァ要塞の食糧や飼料の不足はより深刻になっていました。

マントヴァ要塞司令官カント・ディール(Canto d'Irles)はこの食糧や飼料不足を緩和するために、フランス軍が防衛線を構築しているであろう要塞外に出て食べられるものや飼料を入手することを命じました。

マントヴァ要塞駐屯軍は当初フランス軍を前哨基地から後退させましたが、フランス軍に押し返され、荷車26台分の飼料を持って後退することを余儀なくされました。

マントヴァ要塞駐屯軍の出撃に対し、セリュリエ将軍は反攻作戦を実行に移しました。

フランス軍はミリアレットの塹壕を占領し、要塞の斜堤のふもとまで到達して前哨基地を建設しました。

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マントヴァ要塞攻囲戦 08 オーストリア軍の食糧調達のための再出撃とミリアレット塹壕再奪取作戦の中断

マントヴァ要塞駐屯軍にとって喫緊の課題は食糧や飼料の調達でした。

しかしフランス軍が斜堤の至近まで迫り塹壕での防衛線を構築していたため、まずはフランス軍の塹壕を破壊する必要がありました。

1796年7月16日午前3時頃、カント・ディールは塹壕の破壊と同時に食糧調達を行うために一斉攻撃を行う計画を実行に移しました。

オーストリア軍の作戦は当初予定通りに進み、ルカヴィナ旅団はミリアレットの塹壕を奪還し、その先に部隊を差し向けました。

しかしフランス軍の素早い対応により形勢不利となり、ミリアレットの塹壕まで押し戻されました。

出撃した各旅団が要塞に戻ると、カント・ディールは捕虜交換を提案し、ナポレオンはこれを受け入れました。

捕虜交換する日の前日である7月17日、ナポレオンは要塞の至近に再度迫るためにミリアレットの塹壕の再占領を計画していました。

ですが作戦が実行に移されようとしたとき、ピエトレの舟橋が破壊され、続けて部隊の乗船が妨げられました。

さらにインフェリオーレ湖が急に減水したため、この計画は実行に移すことができなくなってしまいました。

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マントヴァ要塞攻囲戦 09 ミリアレット塹壕再奪取作戦

1796年7月18日、両軍の捕虜交換が行われ、フランス軍は前日に実行するはずだった作戦計画を修正し、再び攻撃の準備を整えました。

7月18日夜11時頃、フランス軍は作戦を開始しました。

しかし、この夜のあらゆる方向からの攻撃にも関わらず、ミリアレットの塹壕とその防衛部隊は未だ健在でした。

フランス軍は赤魂焼夷弾によって要塞内に火災を発生させました。

7月20日、午前、フランス軍はマントヴァ要塞司令官に降伏勧告を行いましたが、カント・ディールはこれを拒否しました。

カント・ディールはヴルムサーが近づいてきていることを察知しており、戦い抜く決意を見せたのです。

その後も砲撃は22日まで中断することなく続きました。

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マントヴァ要塞攻囲戦 10 マントヴァ要塞への本格的な攻撃の開始とマントヴァ要塞の解囲

ナポレオンは1796年7月18日から続けられている攻撃にも関わらず戦う姿勢を崩さないマントヴァ要塞駐屯軍を見て、より強力な攻撃が必要と感じ、全方向からの同時攻撃を行うために準備を始めました。

フランス軍は砲台を増設し、損傷した砲台を修復し、7月29日、ついにフランス軍のすべての砲台の発砲準備が整いました。

セリュリエが砲撃開始の命令を下すと一瞬にしてマントヴァ要塞全体が炎上し、教会も全焼しました。

8時間以内に600個の砲弾と500個の榴弾が市内に落下し、3日間燃え続けたと言われています。

フランス軍の砲撃はマントヴァ要塞の防衛施設に大きな損傷を与え、跳弾と火災により周囲にも被害を及ぼし、少数の狙撃兵以外の要塞外で戦っているすべての部隊を要塞内に戻しました。

しかし、翌30日、セリュリエ将軍の元に総司令官から撤退準備をするよう命じる書簡が届きました。

マントヴァ要塞陥落まで後一歩でしたが、北ではヴルムサー率いるオーストリア軍がマッセナ師団を破り、大軍を率いて南下していました。

31日、セリュリエ将軍は撤退準備を整えるとナポレオンの指示通りに動き、砲撃を続けつつマントヴァ要塞駐屯軍に悟られないようマルカリアへ撤退しました。

翌朝、マントヴァ要塞駐屯軍は包囲していたフランス軍が忽然と消えたことを知ることになります。

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コラム

将来の宿敵となるアーサー・ウェルズリー(将来のウェリントン公爵)は年功序列により1796年5月3日に大佐に昇進し、6月にインド征服戦争の指揮官に任命され、カルカッタへ向けて出港しました。

当時のイギリスには階級を購入することができる慣習があり、アーサー・ウェルズリーは1793年に少佐と中佐の階級を購入しています。

27歳で大佐に昇進したアーサー・ウェルズリーはこのインド征服戦争以降、才能を開花させていくことになります。

参考文献References

André Masséna著 「Mémoires de Masséna 第二巻」
デイヴィッド・ジェフリー・チャンドラー著 「ナポレオン戦争 第一巻」
アンドレ・マルロー編、小宮正弘訳 「ナポレオン自伝」
その他