ロデ戦役 07:ロディの戦い<前哨戦> Lodi Campaign 07

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

ロディ橋への到達

 1796年5月10日午前9時頃、サンタンジェロ・ロディジャーノからロディに後退している途中のオーストリアの部隊を攻撃するようにゾルレスコにいるダルマーニュが命令を受け、追跡を開始した。

 セボッテンドルフは、ニコレッティ大佐麾下3個大隊、2個騎兵中隊約1,958人をコルテ・パラージオに派遣してフォルミガーラに宿営しているボーリューとの連絡を確立し、ナポリ軽騎兵隊含む8個騎兵中隊約1,092人をロディから30分ほど東にあるフォンタナに配置した。

 ダルマーニュはビカソヴィッチ旅団を捕捉し、攻撃を加えた。

 ビカソヴィッチはダルマーニュの前衛部隊を振り払い、何とか無事にロディへたどり着き、門を通過した。(この門はパヴィア門もしくはクレモナ門両方とも可能性がある)

 午前11時~11時半頃、ロッセルミニの部隊はビカソヴィッチ旅団の後退支援の任務を終えると、ダルマーニュの前衛部隊がロディの町へ近づくにつれて町の中へ後退し、アッダ川左岸に配置された砲兵の支援の下で急いで橋を渡った。(資料では午後11時頃となっているが、午前の間違いだと考えられる)

 ダルマーニュの前衛部隊はオーストリアの支援砲火をかいくぐりながらロッセルミニの部隊を追ってロディ橋に到達すると、すぐにオーストリア軍のさらに強力な砲撃が左岸から始まった。

 ビカソヴィッチ旅団、ロッセルミニの部隊はともに左岸の防衛部隊に加わった。

セボッテンドルフの計画

 セボッテンドルフはフランス軍がすぐそこまで接近しているのを見て、日中明るい内に後退するのではなくフランス軍の渡河を妨害し、日が暮れて暗くなってから後退すべきだと考えた。

 この時、ビカソヴィッチ旅団を含むセボッテンドルフ師団は強行軍により疲れ切っていたため日中に後退した場合、フランス軍に追いつかれる可能性が高い。

 日中明るい内はフランス軍の渡河を妨害しつつ兵を休ませ、日が暮れて暗くなってから後退することを考えたのだろう。

 セボッテンドルフ麾下の兵力8個大隊、6個騎兵中隊6,577人(ビカソヴィッチ旅団、ロディの町にいたロッセルミニの部隊含む)の内、フランス軍の渡河を妨害する部隊としてアッダ川左岸に3個大隊(約2,000~約2,500人)と14の大砲を配置し、後方に5個大隊と6個騎兵中隊(約4,100~約4,600人)で予備を形成した。

 セボッテンドルフ視点では、アッダ川という障害があれば14個の大砲と3個大隊でフランス軍の渡河は妨害できると考え、今後の後退のために予備(休憩する部隊)を多めに後方に配置したと考えられる。

 恐らく、水面下の浅瀬が陸地部分から約60mほどあることを知らなかったため、このような判断をしたのだろう。

 もし知っていたとすれば更なる強行軍を敢行して後退したか、前衛部隊の数を増やす等、何らかの対策をしただろうと推測できる。

 ボナパルトはダルマーニュの選抜部隊のみでは橋を渡ることは難しいと考え、建物の背後に避難して応戦しつつ後続のマッセナ師団、オージュロー師団を待つことにした。

 ボルゲット・ロディジャーノにいたオージュローは戦場に駆け付けるためにロディへ向かった。

砲撃の応酬

 午後12時頃、フランス軍の大砲がロディに到着した。

 ボナパルトはサグニー少将に命じ、砲兵隊を川沿いに配置させた。

 サグニーは入り口の傍に後続の部隊を配置し支援させ、橋の左右の両端に大砲を配置し、隣へ隣へ大砲を配置していくことにより火線を徐々に延ばしていった。最終的に30の大砲をオーストリア軍の14の大砲に対抗させた。

 この砲撃の応酬は数時間続いた。

 大砲の数的にフランス軍の方が倍以上多く、オーストリア軍の砲兵は劣勢だった。

 そのためオーストリア軍は前線を若干後退させた。

 この大砲の数や応酬の経過については他説もあるが、正午頃から橋への突撃が始まるまでの数時間、この砲撃の応酬によって橋を破壊されなかったことは確かだろう。

 そして、この砲撃の応酬の時にナポレオンが配置場所や照準に関して直接砲兵に指示をし、その後兵士達がナポレオンを「le petit caporal(小伍長)」と呼び始めたという伝説がある。

 ボナパルトはボーモント騎兵少将をアッダ川沿いに北上させ、左岸にあるモッザーニカへの浅瀬を探索させた。

 そしてサンコロンバーノ・アル・ランブロとサンタンジェロ・ロディジャーノにいたキルメイン麾下の予備の騎兵隊にもカッサーノ・ダッダ方面への浅瀬の探索を命令した。

 このボーモントへの命令は、セボッテンドルフの右側面を突くと同時に、コッリとの連絡を遮断することが目的だった。