ロディ戦役 09:ミラノの占領 Lodi Campaign 09

ロディの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約17,500人 約500人
オーストリア 9,627人 約335人
捕虜:約1,701人

ロディの戦い直後のフランス軍の行動

 星がちりばめられた5月10日の夜、ダルマーニュの選抜部隊、オージュロー師団、騎兵隊はアッダ川左岸のフォンタナからトルモまでそれぞれ野営をした。

 マッセナは本営のあるロディ周辺で野営をした。

 同日、セリュリエ師団はピアチェンツァでポー河渡河の準備をしていた。

 この夜、フランス軍は疲れ果てているにも関わらず、それぞれの村や町で禁止されているはずの略奪を行った。

 秩序ある略奪防止措置を実施することができたのは翌11日以降のことだった。

 5月11日、ダルマーニュの選抜部隊はクレマを占領しセボッテンドルフを追跡した。

 フランス軍が中立国の町を尊重することは無かった。

 キルメイン率いる騎兵隊はメレニャーノからカッサーノ・ダッダに向けて出発し、ミラノへの道を占領した。

 オージュロー師団はアッダ川左岸にある橋の出口付近に留まった。

コッリ将軍の退却行とセボッテンドルフ師団のボーリュー本体への合流

 マッセナはジュベール旅団に2門の大砲を配備し、ムラッザーノに向かわせミラノ方面を警戒させた。

 コッリはクレモナでボーリューと合流することを容易にするためにミラノ周辺に部隊を残していたのである。

 しかしロディを占領されたことによりクレモナでの合流は不可能となり、コッリとボーリューは連絡が遮断された状況が続いた。

 コッリはクレモナでの合流を諦め、マントヴァ要塞の北西にあるリヴァルタ・スル・ミンチョで合流するためブレシア方面へ行軍を続けた。

 5月12日朝、セボッテンドルフ師団はクレモナ付近でボーリューと合流し、指揮下に入った。

 その後ボーリューはピッツィゲットーネに約250人の守備隊を残して後退した。

 シュビルツはアクアネラに移動し、その後、コッリ将軍はブレシアに到着した。

ピッツィゲットーネでの戦闘

 12日、マッセナ師団はロディ橋を渡り、クレマに部隊を集結させ、アッダ川左岸を行進してピッツィゲットーネへ向かった。

 そしてピアチェンツァでポー河を渡河したセリュリエ師団もピッツィゲットーネへ向かっていた。

 このマッセナ師団の動きはセリュリエ師団の動きと連動していた。

 ピッツィゲットーネ守備隊約250人はアッダ川右岸のメナード師団、セリュリエ師団、アッダ川左岸のマッセナ師団に包囲されたが、抵抗を続けていた。

 4~5時間の抵抗の後、メナード師団はついにアッダ川右岸にあるゲラ村を占領し、守備隊約250人を捕虜とした。

軍の再編成と各占領地における支配体制の強化

 ピッツィゲットーネの占領によりアッダ川流域を勢力下に置いたボナパルトは、ロディの戦いまでの間にラハープの死、メニエルの体調不良、ピエモンテやミラノの占領による防衛すべき地域の増加により軍の再編と増援の必要性を感じていた。

 そして、ペスキエーラ要塞、マントヴァ要塞攻略のためミラノ周辺一帯の支配体制を確立する必要があった。

 ペスキエーラ要塞は中立国であるヴェネツィア共和国の領土であるが、オーストリア軍がペスキエーラ要塞を利用する可能性が高かった。

 そのためフランス軍はペスキエーラ要塞攻略も視野に入れて計画を立てなければならなかった。

 ミラノの占領にあたり、ボナパルトは既存の軍を再編成し、メナード、オージュロー、マッセナ、セリュリエの4個師団とキルメイン騎兵旅団を形成した。

 メナードはカッサーノ・ダッダとマレーオ周辺、オージュローはパヴィアを担当したがロディに半旅団を駐屯させた。

 マッセナはミラノとロディ、セリュリエはピアチェンツァを担当した。

 オージュロー麾下の半旅団をロディに配置させた理由は、ミラノの包囲のためにマッセナ師団の大部分の兵力が割かれたための補強だろうと考えられる。

 後方ではマッカードはクネオ、フランス政府から派遣されてきたハッキン中将はケラスコ、メニエルはトルトナの防衛に当たった。

ミラノ占領Occupation of Milan

 5月13日、オーストリア軍はサン・ロレンツォ・デ・ピチェナルディにセボッテンドルフを残し、ボーリューはマントヴァ要塞への道を急いだ。

 同日、マッセナ師団はジュベール旅団を先頭に「共和国万歳!」の叫び声とともにミラノの街に入った。「自由万歳!暴君を倒せ!」と大勢の人々が発した。

 マッセナはミラノを占領するために門に大砲と砲兵を、城壁付近に騎兵隊を配置し、師団本体は騎兵隊から1㎞ほど離れた場所で宿営した。

 マッセナはミラノを占領した直後、自治体の長を召喚し、マッセナ師団のための食料を要求した。そして、貴族たちに都市の鍵をロディにいるボナパルトの元へ運んでもらい、ボナパルトのために宿泊施設を準備するよう促した。

 貴族たちの長であるメルッチ伯爵はロディに赴きボナパルトへの献身を訴え、その見返りに軍隊、宗教、住民、財産を尊重することを約束するよう願い出た。

 フランス政府はミラノ占領というイタリア方面軍の破竹の勢いに、喜ぶ半面危機感を募らせていた。

 イタリア方面軍を二分してボナパルトとケレルマンに任せ、ボナパルトにはリヴォルノ、ローマ、ナポリ方面に進出させて教皇庁から戦利品を獲得し破産寸前のフランス財政を潤させ、ケレルマンにはロンバルディア(ポー河流域)を確保させることを計画した。

 ボナパルトの力を弱めようと画策したのである。

 これに対してボナパルトは「指揮の統一」の重要性と現時点でのリヴォルノ、ローマ、ナポリへの進出計画について軍における戦略的無価値を説き、もし自分のの考え通りにできなければこれ以上成果を上げることを期待しないで欲しいという書簡を送った。

 この時、マッセナの目からは総司令官職を辞任するように見えたと言われている。

 このフランス政府の作戦案には重大な欠陥があった。

 オーストリアと相対しているにも関わらず兵力を二分し、尚且つ片方に防衛させ、もう片方にはオーストリアとは関係のない地域に進出させようとしていたのである。

 まともな軍事指揮官ならこのような計画は立案しない。

 おそらくフランス政府はオーストリア軍は負け続けているため侵攻する余力なしと見て、フランス財政の立て直しとボナパルトの発言力の低下を優先させたのだろうと考えられる。

 オージュローはパヴィアのすべての店舗で食料や弾薬を押収した。

 5月14日、リヴァルタ・スル・ミンチョでボーリューはコッリと合流を果たした。

 同日、マッセナ麾下のランポン旅団がミラノに到着し、マッセナはミラノの包囲を形成した。

ナポレオンのミラノ入城

 1796年5月15日、ボナパルトは歩兵を先行させ、騎兵隊に囲まれミラノに入城した。

 マッセナとジュベールはローマ門(Porta Romana)までボナパルトを迎えに出向き、ボナパルトがローマ門を通過するとミラノの都市警備隊は左右に列を形成し武器を掲げた。

 貴族達はボナパルトを歓待する準備が整っている大公邸への行進中ボナパルトを褒めちぎった。

 大公邸に入ると200席のディナーが用意されており、その後に華麗な舞踏会が続いた。

 総司令官ボナパルトを筆頭としてフランス軍はミラノにおいて盛大に迎え入れられた。

 ボナパルトにとっていくつかの不安要素があったにせよ、フランス軍はついにロンバルディア平原の最大の都市であるミラノを手中に収めたのである。