母レティツィアと妻ジョゼフィーヌの初顔合わせと妹エリザ及びポーリーヌの結婚式【第一次イタリア遠征】 
First meeting

※左ナポレオンの母レティツィア、右ナポレオンの妻ジョゼフィーヌ

北イタリアの情勢

 1797年5月~6月中旬にかけて、ナポレオンはレオーベン条約に基づいてオーストリア領から兵を引き上げると同時にフランスに反抗しているヴェネツィア共和国とジェノヴァ共和国を滅亡させ、フランスの衛星国に組み込みました。

 この時点でその他のイタリア諸国(サルディーニャ王国、ナポリ王国、教皇領、パルマ公国)は心中はどうであったとしても、大国であるオーストリア帝国に連戦連勝し大きな兵力を有するナポレオンに従わざるを得ない状況でした。

 しかし、ナポレオンが樹立したチスパダーナ共和国などの姉妹共和国内部では動乱の真っ最中でした。

 政治的にはジャコバン派と貴族支持層が対立し、姉妹共和国の発行する通過は下落の一途を辿っていました。

 6月5日にはボローニャで現地のジャコバン派が貴族の紋章を撤去するなど反貴族の波が押し寄せており、一方では6月11日に現地ジャコバン派がナポレオンが発布した通過価値下落抑止令に反対して反乱を起こし、衛兵と衝突していました。

 レッジョ周辺でも農民の反乱が発生し、「自由の保証」、「階級の廃止」、「借地人による事実上の奴隷制の廃止」を叫び、衛兵が農民に対抗することを拒否したことでレッジョ政府を恐怖に陥れていました。

ボナパルト家の集合

 しかし、ナポレオンのいるモンテベッロ周辺(ミラノ周辺)は平穏であり、ナポレオンは家族と妻ジョゼフィーヌにモンテベッロでナポレオンが滞在している別荘であるヴィラ・プステリア・クリヴェッリ・アルコナティ(Villa Pusterla-Crivelli-Arconati)に来るよう手紙を送りました。

 6月上旬には母レティツィア、長女エリザ、次女ポーリーヌ、妻ジョゼフィーヌがモンテベッロに到着していたことは判明していますが、その他の兄弟については不明です。

 この時、長男ジョセフは4月にリアモネ(コルシカ島)で議員となり駐ローマ大使に任命され、三男リュシアンは独自にポール・バラスの支援を受けてリアモネで議員になるために奔走していました。

 リュシアンは翌1798年に五百人評議会議員となりました。

 四男ルイは第一次イタリア遠征に随行し、第5軽騎兵連隊長(大尉)となっていました。

 三女キャロラインはオルタンスとともにサン・ジェルマン・アン・レー(Saint-Germain-en-Laye)に設立されたアンリエット・カンパン(Jeanne Louise Henriette Campan)の学校に通っていました。

※アンリエット・カンパンは教育者であり、悲劇の王妃マリー・アントワネットの侍女も務めていた人物です。

 五男ジェロームは12歳であり、ジュィリー大学(Collège de Juilly)に入学していました。

ボナパルト家とジョゼフィーヌとの初顔合わせ

 1797年6月ジョゼフィーヌはモンテベッロでナポレオンの母レティツィアと妹達と初めて顔を合わせました。

 この時、ナポレオンとジョゼフィーヌが1796年3月2日に結婚してからおよそ1年3ヶ月が経過していました。

 母レティツィアはナポレオンがジョゼフィーヌとの結婚について相談がなかったことに怒っており、ボナパルト家の面々は違いはあれどジョゼフィーヌに良い印象を持っていませんでした。

 特に母レティツィアは息子よりも6歳年上のジョゼフィーヌを「品行が悪く、金がかかり、冷淡な性格の女」と見做していました。

 レティツィアは子供達の仕事には口を出しませんでしたが、配偶者の選択には特に注意しており、ジョゼフィーヌはそのお眼鏡にかなわなかったのです。

 そしてレティツィアは「ジョゼフィーヌはナポレオンの子供を産むには年をとりすぎている」とも考えていました。

 レティシアの考えは正しい面が多く、イタリアへの出発前のジョゼフィーヌはナポレオンからの愛の手紙を友人に見せて笑いものにし、イッポリト・シャルル(Hippolyte Charles)という愛人をつくり、ナポレオンがイタリアにいる自分の元に来て欲しいと伝えてもすげなく断っていました。

 そしてフランス政府の要請で渋々イタリアに赴かなければならなくなったジョゼフィーヌは愛人イッポリト・シャルルとともにイタリアを観光気分で渡り歩き、散財していました。

※イッポリト・シャルルはフランス南部出身で、身長は低かったがとても端正な顔立ちをしており、浅黒い肌、黒く長い口ひげを持つ面白い男性だったと言われています。この頃は軽騎兵連隊所属の中尉でした。

 さらに、当時のジョゼフィーヌは既に子供を産めない体となっており、ナポレオンの子を宿すことはできない状態でした。(このことはジョゼフィーヌも含め、当時誰も知り得ないことでした。)

 しかし当時の貴族的な考えを持っている婦人にとって夫は真に愛する人でなくて良く、真に愛する人は別につくることは普通でした。

 そのためジョゼフィーヌにとって夫ナポレオンは財布であり、イッポリト・シャルルという愛人を別につくったのです。

 そして散財癖についてはナポレオンと結婚する数ヵ月前までバラスの愛人として散財しており、その延長でナポレオンと結婚しても散財していたのだろうと考えられます。

 しかし、ボナパルト家の印象とは裏腹に、ジョゼフィーヌが北イタリアに来てからもイタリア方面軍は勝ち続けていたため、本人の素行はどうあれフランス本国でもイタリア方面軍内でも「勝利をもたらす女性」として好ましく思われていたのでした。

長女エリザと次女ポーリーヌの結婚式

 6月14日、ナポレオンがモンテベッロの城と呼んでいたヴィラ・プステリア・クリヴェッリ・アルコナティ(Villa Pusterla-Crivelli-Arconati)のすぐ隣にあるサン・フランチェスコ礼拝堂(Oratorio di San Francesco)でエリザとポーリーヌのカトリック様式での宗教上の結婚式が行なわれました。

 ポーリーヌはナポレオンの腹心であるルクレール将軍と結婚し、エリザは1797年5月1日にすでにマルセイユでフェリックス・バチョッキと民事的に結婚していましたが、ここで宗教上の結婚を行なうこととなりました。

 エリザ20歳、ポーリーヌ16歳でした。

 この日はジェノヴァ共和国が滅亡し、新たにリグーリア共和国が樹立された日とも重なっていました。

※ナポレオンはエリザとフェリックスの結婚に反対していましたが、エリザは結婚を強行しました。1797年5月5日にエリザとフェリックスの結婚を知らされたナポレオンは激怒しましたが、既成事実を受け入れざるを得なかったと言われています。

※一方、ポーリーヌはナポレオンの妹達の中で最も美しいと言われており、様々な男が言い寄っていました。15歳の頃には当時佐官だったジュノーが、16歳の頃には議員フレロンがポーリーヌを狙っていましたが、ナポレオンとレティツィアはこれを跳ね除けています。その後、ベルナドット将軍と問題を起こしたデュポー将軍もポーリーヌに魅せられましたがナポレオンに諦めさせられ、代わりにデジレ・クラリーを紹介されました。ポーリーヌはその美貌から今後も言い寄られるだろうと予想されたためナポレオンは先手を打ち、腹心のルクレール将軍をポーリーヌと結婚させたのでした。