【詳細解説】ナポレオンとフリュクティドール18日のクーデター【第一次イタリア遠征】


本記事ではジェノヴァ共和国滅亡後からフリュクティドール18日のクーデターまでの状況を時系列に沿って経過をまとめまています。

レオーベン条約の後、オーストリア帝国はナポレオンの脅威が去ったこと、フランス国内で王党派が台頭したことにより、交渉で有利な立場に立つために強気のの姿勢を取りました。

実際、ライン方面からオッシュ将軍率いる軍約10,000人がパリに送られ、フランスの対オーストリア戦線は薄くなっていました。

イタリアでは、フランスはヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国などを滅ぼして姉妹共和国を樹立し、それを見たオーストリアはイストリアやダルマチアを占領し、あたかも戦争中であるかのような態度を示しました。

フランス内部では共和派と王党派の対立は深まり、議席数に劣る共和派が窮地に立たされたことにより、遂にバラスはパリの周囲に配置していた軍を動かすことを決意したのでした。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側、王党派の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでフリュクティドール18日のクーデターやこの期間のナポレオン及びイタリア方面軍を取り巻く状況について詳しく知りたい人、戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

フリュクティドール18日のクーデター 01 ナポレオンによる北イタリア支配の強化とオーストリアの策動

1797年6月29日、ナポレオンはチザルピーナ共和国の建国宣言を行い独自の憲法を発布し、同時にトランスパダーナ共和国併合しました。

その10日後の7月9日、チスパダーナ共和国も併合したことにより、ロンバルディア、マントヴァ、ボローニャ周辺にまたがる共和国となり、ナポレオン王国のようなものを形成しました。

しかし、オーストリア軍はイストリアとダルマチアを占領し、イゾンツォ川周辺ではあたかも戦争中であるかのように大砲を配置し、フランス軍に対抗する姿勢を見せていました。

この時、ナポレオンが首都ウィーンに迫った恐怖はすでに過去のものとなっており、さらにフランス共和国内部では王党派が勢力を大きく伸ばしており、現政権の足元はグラついていました。

そのためウィーン政府は、フランス内部で王党派が完全に権力を掌握することができれば、フランス軍内部が分裂するか、フランス本国に兵力を割かなければならなくなるだろう、そしてもし和平となったとしてもより有利な条件を突き付けることができるだろうと考えていました。

オーストリアの大使であるメルヴェルト伯爵は全権をはく奪されてウディネへ行き、レオーベン条約ですでに決定されたことさえも8月に再度協議したい旨をクラーク中将に伝えました。

このことを知ったナポレオンは「オーストリアは(恐らく戦争を開始するために)交渉を引き延ばそうとしている。」と考えました。

レオーベン条約に准じた最終的な和平を締結するため、そしていざとなった時に戦うためには人気の無い現政権が権力を掌握し続けることが必要でしたが、前回の選挙で現政権の議席数は王党派に大きく奪われていました。

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フリュクティドール18日のクーデター 02 フランス内部の情勢とアントレーグ伯の華麗なる逃亡劇

フランス内部では共和派(バラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエールの3総裁)と王党派(バルテルミー)の対立の構図が鮮明になっていました。

もう1人の総裁であるカルノーは共和派でしたがフランスを1つにまとめるために穏健派として王党派との和解を模索しており、王党派寄りの立場を取っていました。

王党派は他国からの支援を受けており、共和派は王党派の裏切りの証拠をいくつか得ていました。

しかし議席数で圧倒的に不利な共和派は、それを議会で公表したとしてもこの状況を覆すことができないと考えていました。

イタリア方面作戦についても意見が分かれており、共和派の総裁達はオーストリアに対する戦争を直ちに再開するべきであり、交渉を長引かせることは許されないという意見でしたが、穏健派カルノーと王党派バルテルミーはこれに反対していました。

そのためナポレオンがオーストリアへ先制攻撃を行うことも難しい状況となっていました。

共和派はオッシュ将軍が率いる軍を使ってクーデターを起こそうとしましたが、カルノーによって先手を打たれ、バラスが日和見をしたためクーデター計画は頓挫してしまいました。

7月末頃、ナポレオンはバラスの要請に応じ、オージュロー将軍とベルナドット将軍を次々とパリへ帰還させ、その裏で副官ラ・ヴァレッテをカルノーの元に派遣しました。

もしこのまま王党派が政権を牛耳った場合、フランスには再び内戦が訪れるだろうと考えられ、もし内戦となった場合、ナポレオンが築き上げた姉妹共和国の行方も危ういものになると考えられました。

ナポレオンとしてはオーストリア軍をおとなしくさせ、レオーベン条約を批准させるために内戦を避ける必要がありました。

8月27日、オーストリア軍はイゾンツォ川を越えてパルマノヴァ要塞を奪取するつもりであると考えたナポレオンは、前線に近いフリウーリ州のパッサリアーノへ移動して指揮を執り、戦いの準備を開始しました。

一方、パリでは秘密裡にクーデター計画が進行しており、オージュローがクーデター軍の指揮を引き受けていました。

詳細記事ではベルナドット将軍に捕まりミラノに送られたアントレーグ伯の華麗なる逃亡劇についても記載しています。

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フリュクティドール18日のクーデター 03 フリュクティドール18日のクーデター

1797年9月1日、クーデターの決行日時はまだ決まっていませんでしたが、軍の動きから間近にまで迫っているように思えました。

共和派が軍を動かし王党派に圧力を加えており、軍による圧力は日に日に増加し、カルノーとバルテルミーは不穏な気配を察していましたが、それがいつ起こるのかはわかりませんでした。

バラスとオージュローは長い間計画されていたクーデターの実行のための準備を本当にすべて整えていました。

9月3日に射撃をともなった軍事訓練の実施が予定されており、前日にはオッシュ将軍が連れてきた軍も訓練という名目で憲法上の境界線の周囲に整列し、それを越えて数時間以内にパリに向かう準備ができていました。

ルーベルとラ・ルヴェリエールの2人の共和派の総裁でさえ実行時期については知らされていませんでした。

9月3日の評議会で国家警備隊の編成が可決され、翌朝にはオッシュ将軍が連れてきた軍はパリ周辺から撤退しなければならないことが決定されました。

これにより9月4日朝までにクーデターを実行に移さなければクーデター計画は計画のままで終わり、共和派議員は処刑される運命が定められました。

9月4日午前0時、遂にクーデター計画が実行に移され、気付けのためにシャンパーニュを少し飲んだオージュローは12,000人の軍を遂に動かしパリに引き入れました。

クーデターは1滴の血も流すことなく共和派が勝利を収めましたが、パリを完全に包囲したにも関わらず総裁カルノーだけは取り逃しました。

クーデターのより詳しい経過やカルノーがどのようにして逃れたかが気になる方は詳細記事を参照してください。

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番外編 海将ネルソンが右腕を失った「サンタ・クルスの戦い(1797)」

ナポレオンがジェノヴァ共和国を滅亡させてからフリュクティドール18日のクーデターが起こるまでの間、イギリスの海将ネルソンは戦いに敗北し、右腕を失っていました。

1797年7月初旬、イギリス地中海艦隊はスペインのカディス港を攻撃し、スペイン艦隊を港内に封じ込めていました。

地中海艦隊司令官ジャービス提督はスペイン艦隊を封じ込めている間にカナリア諸島のテネリフェ島を占領しようと考え、ネルソン将軍に命じて分遣隊を派遣しました。

テネリフェ島は守りやすく攻めづらい気候と地形でしたが、大部隊で上陸すれば守備隊はすぐに降伏するだろうと考えられました。

しかし7月21日夜~未明にかけて実行された1度目の攻撃も、7月22日午後9時頃から開始された2度目の攻撃も失敗に終わり、7月24日夜10時半頃、ネルソンは遂にサンタ・クルス港への上陸作戦を実行に移しました。

しかしスペイン守備隊の司令官グティエレス将軍はこの攻撃を予測しており、サンタ・クルスのサン・クリストバル城に兵力を集結させていました。

真夜中の作戦だったにもかかわらずスペイン守備隊はイギリス兵の上陸に気付き持ち場につきました。

ネルソンが剣を抜いてボートから降りようとしたその時、砲撃が石の階段に命中し、砲弾そのものかもしくは階段の破片がネルソンの肘に当たりました。

完全に無力となったネルソンは義理の息子であるジョサイア・ニスベット少尉に支えられ、船員によりボートに引き戻されました。

ジョサイアはすぐに止血帯の代わりにスカーフでネルソンの右腕から流れ出る大量の血を止めようと必死に処置をおこない、ネルソンの命を繋ぎ止めました。

ネルソン無きイギリス軍はそれでも上陸作戦を続行しましたが、サンタ・クルス港正面から上陸した部隊は全滅し、南側に漂着した部隊も交渉の末、船に帰還することとなりました。

戦いの後、グティエレス将軍は戦いを終わらせるために船に帰還するイギリス兵たちにビスケットとワインの配給を与え、そして負傷したイギリス兵を病院に収容するよう指示したと言われています。

その後、ネルソンはフリゲート艦「シーホース」でイギリス本国に戻り、11月には傷は完全に治りましたが右腕を失い、隻眼、隻腕となりました。

サンタ・クルスの戦いの詳しい経過については詳細記事を参照してください。

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参考文献References

・Jacques Marquet de Norvins著「Geschichte des Kaisers Napoleon, Band 1」(1841)

・François Auguste Marie Alexis Mignet著「Geschichte der französischen Revolution: (1789 bis 1815)」(1848)

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・J. Wright著「History of the Revolution of the 18th Fructidor (September 4th, 1797) and of the Deportations to Guiana, in Consequence of that Revolution,第3巻:Replay of L.M.N.Carnot」(1800)

・Edward Pelham Brenton著「The Naval History of Great Britain: From the Year MDCCLXXXIII to MDCCCXXII.」(1823)

・William James著「The Naval History of Great Britain: From The Declaration of War by France in 1793, to the accession of George IV.,第2巻」(1837)

・その他