イングランド遠征の中止と東洋軍総司令官への任命【ナポレオン】 
Appointed General-in-Chief of the Armée d'Orient

イングランド遠征の中止

 1798年2月24日、ボナパルトはパリに到着した。

 そしてバラス達にイングランド遠征の現状と見通しを説明した。

 地中海から太平洋への出入口にあるジブラルタルがイギリス領であるため、地中海側の海軍から太平洋側の海軍に艦船を移動させることができず、尚且つ連携も取れないこと。

 大西洋側の海軍はぼろぼろであり、これら海軍でイギリス海峡やドーバー海峡周辺の制海権をイギリスから奪取することは不可能であること。

 船舶の建造を急がせているが、船員が足りないこと。

 各港の船の収容数を増加させるために港の改修、改善を行なっていること。

 そして大西洋側の海軍をイングランド遠征が可能になるくらいにまで強化するにはあらゆる措置とさらに莫大な資金が必要であり、もしすべての要求が遅滞なく満たされたなら来年にはイングランド遠征が可能となるだろうことを説明した。

 しかし、フランスにはそのような莫大な資金を捻出する余力はなかった。

 バラスやルーベルは第一次イタリア遠征のようにフランスの財源の範囲内で【ボナパルトの卓越した戦略】によってイングランド遠征を成功させることを考えていたが、イギリスとの間には狭い地点でも幅40㎞ほどの海峡が横たわっており、陸戦のようなわけにはいかなかった。

 アレクサンドロス大王でさえ、かつて島であり精強な海軍を有したテュロスを攻略するために海を埋め立てて半島としてから征服している。

 もしイギリス海峡やドーバー海峡周辺海域の制海権を奪取すること無くイングランド遠征を実行した場合、運よく多くの物資を持ってイギリス本島に上陸できたとしても後方連絡線は遮断され、食糧や弾薬の継続的な供給を得ることができないためすべて現地調達を余儀なくされ、陸と海からの攻撃にさらされ、敗北しなくても戦いが長引けばイギリス本島で包囲され、最終的に戦死するか捕虜となるかしかないだろうと考えられた。

 イングランド遠征が現状不可能であることを理解したバラスは方針を変更しイギリスを脅かすことが最善であると考えた。

 イングランド遠征を行ないたかったルーベルもそれに同意し、ボナパルトも「イングランド方面軍にとって最も良いことは、私がその総司令官であることだ。」と言った。

 つまりオーストリア軍を打ち破ったあのボナパルト将軍がイングランド方面軍総司令官であることによってイギリス軍は沿岸部をより強く警戒しなければならなくなり、それに伴って他の部分が手薄になるだろうということである。

ヘルヴェティック共和国

ヘルヴェティック共和国国旗

 1797年、ボナパルトが北イタリアを征服しオーストリア帝国とカンポ・フォルミオの和約を結んだことによりスイス連邦の領土はフランスに取り囲まれることとなり、その影響でスイスの一部の州で革命が起こり、フランスがスイスに樹立した姉妹共和国であるヘルヴェティック共和国(République Helvétique)の構成州となっていた。

 それを足掛かりとしてフランスは軍を進めた。

 1798年2月28日、ボナパルトは、スイス国境にモニエ少将を派遣し、1月に自発的にヘルヴェティック共和国の構成州となったジュネーヴの北に位置するヴォー州の人々と協力して反政府運動を奨励し、支援するようチザルピーナ共和国政府に命じた。

 この時点でベルン(Bern)、ウーリ(Uri)、シュヴィーツ(Schwyz)、ニトヴァルデン(Nidwalden)、ツーク(Zug)、グラールス(Glaris)州などはフランスの脅威に抵抗する意思をみせており、兵力をベルンに集結させていた。

 フランスは教皇領だけでなくスイス連邦をも飲み込もうとしていたのである。

外務大臣タレーランによる総裁政府へのエジプト遠征の提案

 2月、タレーランは議会でフランスとエジプトとの関係を述べた後、エジプト遠征の提案書を総裁政府に提出した。

 フランスがスエズ地峡を制圧しイギリスとインドとの貿易を遮断すれば、インドにおけるイギリスの力を弱めることができ、その結果、ヨーロッパにおけるイギリスの立場を弱めることができるという内容だった。

 タレーランはエジプトへの遠征について第一次イタリア遠征中からボナパルトと書簡のやり取りをして計画し、ボナパルトへの援護射撃を行ったのである。

エジプト遠征の決定

 2月下旬、ボナパルトは今後の方針についてバラス等と協議を重ね、エジプトへの遠征を提案した。

 ジブラルタルはイギリス海軍が自由に航行できるもののコルシカ島はフランスの支配下にあり、ヴェネツィアとジェノヴァから奪った艦船で増強されたフランス地中海艦隊を利用したエジプト遠征はボロボロの大西洋艦隊を利用したイングランド遠征よりも明らかに現実味を帯びていた。

 ボナパルトは「エジプトを征服したらすぐにインドの藩王国と関係を築き、(インドで)彼らとともにイギリスを攻撃するだろう。」と言った。

 しかしバラスの考えは違った。

 イギリスが海の覇者であり続ける限りフランスはイギリスを攻撃できないだろうと考えていた。

 エジプトを占領した後、砂漠を越え、オスマン帝国、ガージャール朝ペルシア、ムガル帝国を通り、陸路でイギリスの影響力の強い藩王国と接触するつもりだとしたら馬鹿馬鹿しいとも考えていた。

 もしそうならアレクサンドロス大王以来の大遠征である。

 バラスはこれらの理由から、ルーベルはイングランド遠征の夢のため、ボナパルトが提案したエジプト遠征に反対した。

 バラスとしては可能ならばボナパルトが忘れ去られるまで大西洋沿岸でイギリスと対峙することを願っていたが、ボナパルトはそれで満足できるような人物では無かった。

 28歳のボナパルトは恐らく5人の総裁の1人になることを望んでいたが、年齢制限により総裁になることはできず、大臣にすらなることはできなかった。

 イングランド遠征が頓挫したボナパルトとしては、総裁になるために移り変わりやすい人々の記憶に残るようにしなければならなかった。

 そのためボナパルトは何度か議論されていたエジプトに対する遠征を実行するようフランス政府に日に日に強く要請した。

 そしてバラスとルーベルが首を縦に振ろうとしないのを見ると、他の3総裁(ルヴェリエール、メルラン、ヌフシャトー)に接触し、エジプト遠征を売り込んだ。

 ルヴェリエールは理神論者であり、新しい宗教団体(神慈善主義を広めるためのカルト団体)を設立してフランスからキリスト教を排除し、ヨーロッパ各国に広めようと計画していた。

 ボナパルトはそのことを利用して神慈善主義をアフリカやアジアに広めることができると説得した。

 さらに、メルラン(Merlin)とヌフシャトー(Neufchâteau)には、「もし戦争が無くなれば軍の現政権への支持は薄れ、再び王党派が勢力を盛り返かえすか、現政権に批判的な共和派議員が勢力を伸ばすだろう。現政権は市民に人気が無く、選挙で敗北する。その時に軍の支持が無ければクーデターすら起こすことができない。」との内容のことを伝えて脅した。

 この時、フランスと敵対している列強国はイギリスのみであり、陸における大規模な軍事作戦は無くなっていた。

 メルランとヌフシャトーはフリュクティドール18日のクーデターによって共和派議員は生き延びることができたことをその身をもって知っており、そのためエジプト遠征に同意した。

 メルランとヌフシャトーが感じた恐怖をルーベルも共感できたため、最終的にルーベルもエジプト遠征に同意した。

 総裁達には「絶大な人気を誇るボナパルト将軍を権力(パリ)から遠ざける」という一致した目的もあったと言われている。

 ボナパルトがイタリア方面軍総司令官に任命されてから2周年目にあたる共和歴Ⅵ年ヴァントーズ(風月)15日(1798年3月5日)、フランス政府は遂にエジプトへの遠征を決定し、新設される軍は東洋軍(Armée d'Orient)と名付けられた。

 東洋軍総司令官にはナポレオン・ボナパルト将軍が任命され、トゥーロンに30,000人の軍隊を編成し、遠征隊の輸送と安全のために艦隊を編成するためのすべての権限、武器、資金が与えられた。

 そして、海側からボナパルトのイタリアでの快進撃を支えてきたブリュイ(Brueys)提督が海軍司令官に任命された。

 1775年に締結されたマムルーク朝エジプトとイギリス東インド会社との通商条約の利点を奪うことが第一の目標だった。

※エジプト遠征については「ナポレオンを葬るために決定した。」との説があるが、この説はエジプト遠征が失敗に終わることを前提としており、エジプト遠征が決定された当時は成功するかしないかは分からなかった。ナポレオンは1797年の段階からエジプト遠征についてフランス政府に打診しており、タレーランなどとも意見交換をしている。そして当時のナポレオンの置かれた状況から、ナポレオンが総裁達を説得し、総裁達も軍の支持を失うことを恐れ、同時にナポレオンを遠ざけるためにエジプト遠征が実現したという説の方が現実味がある。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・その他