【詳細解説】イングランド方面軍総司令官への任命とローマ共和国の樹立【ナポレオン】


本記事ではカンポ・フォルミオ条約締結後からローマ共和国の樹立までの状況を時系列に沿って経過をまとめまています。

ナポレオンはカンポ・フォルミオ条約締結後、イングランド遠征を行なうための軍を指揮する立場となりました。

ぼろぼろのフランス海軍を使い、ナポレオンの卓越した戦略によって海によって隔てられたイギリスを征服することをフランス政府は望んでいました。

しかしナポレオンはパリでライバルや自身に敵対する者を蹴落として影響力を拡大し、権力を握ることを考えており、イングランド方面軍総司令官となってもイタリア方面軍の手綱を手放すことはありませんでした。

そして1797年12月、ローマにいる兄ジョゼフ・ボナパルトの目の前で事件が起こります。

カンポ・フォルミオ条約締結後からエジプト遠征までを繋ぐエピソードです。

フランス側だけではなく、オーストリア側の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでカンポ・フォルミオ条約締結後からのナポレオンの状況及びローマ占領について詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

ローマ共和国の樹立 01 イングランド方面軍総司令官への任命とイタリアとの別れ

1797年10月26日、総裁ポール・バラスの提案によりフランス政府はイングランド侵攻を目的とした新たな軍を編成することを決定し、総司令官にナポレオン・ボナパルト将軍が任命されました。

フランス政府の目的はイングランド遠征を成功させることの他に、ナポレオンの地盤であるイタリアからナポレオンを引き離すことでした。

ナポレオンの後任は参謀長だったベルティエ将軍が選ばれました。

11月17日、イタリア方面軍の再編成を終えたナポレオンは遂にミラノを発ち、ラシュタットへ向かいました。

11月30日、ナポレオンはコベンツェル伯爵とメルヴェルト伯爵とカンポ・フォルミオ条約の批准書を交換し、翌12月1日に密約の執行について話し合い、その日の夜にパリへと旅立ちました。

ナポレオンがパリに到着するまではドゼー将軍がイングランド方面軍の総司令官代理として指揮を執ることとなっていました。

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ローマ共和国の樹立 02 ドイツ方面軍の分割とイングランド遠征の実情

1797年12月、ナポレオンはパリに到着しましたが、イングランド遠征は事実上不可能な状況でした。

大西洋側の艦船は頻繁に来訪するイギリス海軍によって打ち減らされ、艦船を操舵する熟練した船員も不足していました。

もしイングランド遠征を実行する場合、艦船の建造、船員の教育、道路の整備などを行うための莫大な資金と時間が必要であると考えられました。

一方、オージュローはドイツ方面軍総司令官となったものの増長し、その結果、ドイツ方面軍は2つに分割されることが決定されました。

2つに分割されたドイツ方面軍の片割れであるライン方面軍総司令官となったオージュローはフランス政府に対して従順になりましたが、それまでの間にナポレオンと敵対するような行動を取っていたため、大使としてコンスタンティノープルに送られることが議論され始めました。

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ローマ共和国の樹立 03 デュポー将軍の死

恐らく12月28日0時過ぎ頃、ローマの警備兵達は別の武装した人々の群衆と遭遇し、解散を要求しましたが、群衆は警備兵を嘲笑い、脅迫しました。

乱闘に発展し、共和派の群衆に死傷者が出てしまいました。

ダンスパーティを楽しんでいたジョゼフは騒ぎのことを知ると自らの邸宅であるコルシーニ宮殿に向かいました。

ローマ政府は治安を回復するために歩兵と騎兵隊を派遣し、抵抗する革命者達へマスケット銃を発砲しすると群衆は散り散りとなって逃亡しました。

逮捕されなかった者はコルシー二宮殿に逃げ込み、中庭、アトリウム、階段を埋め尽くしました。

コルシー二宮殿はフランス大使の公邸であり、ローマの兵士達は法的に手が出せないでいましたが、ローマ兵の指揮官達は、階段の最上段に現れたフランス駐ローマ大使ジョゼフに、反政府勢力へ制止と解散を勧告するよう要請しました。

ジョゼフは制止も解散も言い渡すことはありませんでした。

逃げ込んだ者達は大使公邸が安全であることを利用して、ローマの兵士たちを言葉と身振りで侮辱し激怒させました。

しかし、そこへ騒動を収めるために派遣されたローマの竜騎兵連隊が到着しました。

竜騎兵連隊は大使公邸から発せられる侮辱に耐えることができず、コルシーニ宮殿の中庭になだれ込み、すぐに武器を放棄して立ち去らない者は殺すと脅しました。

ジョゼフは遂に騒ぎを止めようと動き出し、話し合いのためにローマ兵の指揮官を呼びましたが、騒動を止めることはできませんでした。

若く血の気の多いデュポーは、剣を抜いて階段を駆け下り、共和派に加わってローマ兵達を中庭から追い出すよう煽り立てました。

そこへローマ竜騎兵が攻撃を仕掛け、デュポーはそこにいた数人とともに死亡してしまいました。

この日、デュポーはデジレ・クラリーと結婚する日だったが、28歳の若さで人生を終えることとなりました。

その後、群衆のほとんどは逃亡し、共和主義者による騒動は鎮圧されました。

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ローマ共和国の樹立 04 ローマ共和国の樹立

フランス政府とナポレオンの目論み通りローマでフランス人が死亡すると、イタリア方面軍総司令官ベルティエ将軍にローマへの侵攻を開始するよう命じました。

ベルティエはすぐにローマへの遠征軍を編成し、マッセナ将軍に指揮を任せ、まずはアンコーナへ出発しました。

1月29日、アンコーナに到着し、軍を集結させたベルティエはローマへの進軍を宣言しました。

これに対し教皇は諦め、軍の指揮官達に抵抗せずフランス軍の進軍速度に合わせて後退するよう命じました。

2月10日、ローマは戦うことなくフランス軍を受け入れ、フランス軍はローマの重要施設を占領しました。

2月15日、ベルティエはカンピドーリオの丘に登り、ローマ共和国の成立を宣言し、教皇領は滅亡しました。

ローマ遠征についてや教皇ピウス6世のその後について知りたい方は詳細記事を参照してください。

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参考文献References

・「Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 1-3」(1836)

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・Carlo Botta著「Storia d'Italia (1534-1814):1789-1814, 第3巻」

・その他