エジプト出征前のナポレオンの演説とネルソン戦隊のトゥーロン沖への到着 
Napoleon's speech before going to Egypt, and Nelson Squadron arrives off Toulon

エジプト出征前のナポレオンの演説

 1798年5月10日、ボナパルトはトゥーロン出航前に兵士達に演説を行った。

 

◎エジプト遠征前のナポレオンの演説

「兵士諸君!

 諸君らはイングランド方面軍の一翼を担っている。

 山で、平原で、包囲戦で戦ってきたが、諸君らにはまだ海上での戦いが残されている。

 諸君らも時々その真似をしたことがあり、未だ匹敵するものではないが、ローマ軍はこの同じ海とザマの平原でカルタゴと戦った。

 彼ら(ローマ軍)は常に勇敢で、疲労に耐え、規律正しく、団結していたため勝利に見放されることは無かった。

 兵士諸君、ヨーロッパが諸君らに注目している。

 諸君らには果たすべき偉大な運命が定められており、戦い、危険、疲労を乗り越えなければならない。

 国家の繁栄、人々の幸福、そして諸君らの栄光のために、これまで以上のことを成すだろう。

 兵士諸君、水兵、歩兵、砲兵、騎兵は団結せよ。

 戦いの日にはお互いが必要であるということを忘れぬように。

 水兵諸君、諸君らは今まで無視されてきた。

 今、共和国の最大の懸念は諸君らにある。

 諸君らは自分が所属する軍隊に相応しいものとなるだろう。

 自由が共和国を作り、共和国はその誕生以来ヨーロッパの裁定者である。

 そして自由は共和国が最も遠い海と国々の裁定者になることを望んでいる。」

 

 第一次イタリア遠征前の演説では「食糧、富、名誉を得る」ことが目的とされたが、エジプト遠征前の演説では「名誉とフランス革命思想の伝搬」が目的とされた。

 そしてエジプト遠征では苦難が待ち受けていることが予想され、団結を求める内容となっており、ボナパルトが海軍に懸念を持っていたことも同時に推察できる。

 エジプト遠征においての連絡線(兵站)は海路となるため、イギリス地中海艦隊がジブラルタルから地中海に侵入してきた時に撃退できる可能性が少しでも高まるよう激を飛ばしたのだろう。

補給所の整理とルールの設定

 5月11日、ボナパルトは補給所の利用に関する事項とルールを発表した。

 ドゼー師団はチヴィタヴェッキア、バラグアイ・ディリエール師団はジェノヴァ、メナード師団はイエール(Hyères)、クレベール師団はトゥーロン、レイニエ師団はボッセ(Beausset)、砲兵師団はトゥーロン、騎兵師団はトゥーロン北東に位置するソリエス(Solliès)の補給所を利用することが定められた。

 そして将校および兵士の妻は補給所に留まることができ、女性には、子供1人につき1.5食料の配給が与えられるよう手配された。

 マルタまでの中継地点はヴォーボワ師団の補給所のあるコルシカ島アジャクシオとされた。

 ボナパルトは補給の重要性を理解しており、各師団に地域を割り当てて兵站に関する管理責任を明確にし、輸送がスムーズに行われるよう手配したのである。

※当時の軍では家族を戦地に連れて行くことは普通だった。

ネルソン戦隊のトゥーロン沖への到着

 5月17日、ネルソンはトゥーロンのすぐ南西に位置するラ・セーヌ・シュル・メールのシシエ岬(Cap Sicié)沖で大砲6門を搭載し乗組員65人を乗せたフランスの小型コルベット艦「ラ・ピエール」を拿捕し、ネルソンは乗組員からボナパルトが先週の金曜日(5月9日)にトゥーロンに到着したことを聞き出した。

 ボナパルトがトゥーロンに到着してから1週間以上が経過しており、出港が差し迫っているのではないかと推測された。

 その他乗組員は詳しいことについては知らされてなかったため、フランス艦隊の目的地は依然として不明なままだった。

 ネルソンはその後もフランス艦隊の様子を観察し、「軍隊を乗せた船が頻繁にマルセイユから到着すること」、「約12,000人が乗船しているだろうこと」、「騎兵隊はトゥーロンに到着したが、まだ乗船している騎兵はいないこと」、「ある報道では数日以内に出航する予定とのことだが、2週間は航行しないという報道もあること」などが判明したが、結局のところやはり目的地は不明のままだった。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・その他