イングランド方面軍総司令官への任命とイタリアとの別れ 
Departing from Italy (1797)

ベルナドット将軍の不平への返信

 1797年10月21日、フランス政府はボナパルトからの抗議の書簡に対して返信した。

「あなたはベルナドット将軍の不在について不平を言っています。彼はすでにあなた方(イタリア方面軍)に復帰しており、単なる派遣よりも明確に総裁政府の真の意図をあなた方に伝えています。」

 さらに10月22日にはバラスの秘書がボナパルトに、「総司令官、あなたは政府の対応について誤解しています。おそらく政府は多くの過ちを犯しているでしょうし、おそらく政府は常にあなたほど物事に対して正しい見方をしているわけではありません。しかし、共和党はどのような寛容さであなたの意見を受け入れたのでしょうか? あなたはベルナドットの不平を言っている! 彼はすでにあなたとともにいるのです。」という内容の書簡を送っている。

 これらの内容から、ボナパルトはベルナドットの戦争大臣への任命に反対し、早くイタリアに帰ってこないことに苛立っていたことが見て取れる。

 これらの書簡がボナパルトの元に届く前にベルナドットはウディネに到着していたため、ボナパルトはこの書簡に気にも留めなかっただろう。

オーストリア軍の帰還

 カンポ・フォルミオ条約締結後も暫くは前線での緊張状態が続いた。

 10月後半、フランス軍に対抗する目的で11月1日に決められた配置につくためにオーストリア軍が宿営地を出発した時、当時リヒテンシュタイン公国の王子だったヨハン1世はウディネから和平締結の書簡を持って伝令としてカール大公軍本部に到着した。

 和平条約が締結されたことを知ったカール大公は軍をそれぞれの宿営地に戻した。

 カール大公率いるドイツ陸軍は、以前と同様にマインツ、エーレンブライトシュタイン、マンハイム、フィリップスブルク、ウルム、インゴルシュタット、ヴュルツブルクの要塞のすべてに守備隊を保持し、48個大隊、35個中隊、13個騎兵中隊を保有したが武器・弾薬の供給は停止され戦闘態勢は解かれた。

 そして新たな宿営地への移動は11月1日に開始された。

 ウィーン政府は11月1日の政令で国会に対し、和平交渉はラシュタットで開催される議会で議論されるべきであると宣言した。

 その後カール大公は重要な協議を行うためにウィーンに呼び出され、ドイツ陸軍の最高指揮権はラトゥール(Latour)将軍が引き継いだ。

 イタリア方面でも同様に、イタリア陸軍においても、更なる軍備の増強、トリエステとグラディスカでの要塞工事、塹壕陣地の構築は中止された。

 ハンガリーとクロアチアの反乱を鎮圧する命令が発令され、11月中旬にはこれらの軍に割り当てられていたより広大な冬季営地に移動した。

 ケルンテン軍及び右翼であるチロル軍は、便宜を図り、国を安心させ、防衛するために可能な限り遠くに展開した。

 一方、イゾンツォ川周辺に展開していたイタリア陸軍左翼は補給を容易にするために、オーストリア帝国内部にさらに移動させられ、カルニオーラ、シュタイアーマルク州、帝国東側全域を通ってウィーンに帰還した。

イングランド方面軍総司令官への任命

 10月26日、総裁ポール・バラスの提案によりフランス政府はイングランド侵攻を目的とした新たな軍を編成することを決定し、総司令官にナポレオン・ボナパルト将軍が任命された。

 ただ、ボナパルトはイタリア方面軍総司令官としてイングランド方面に送る軍とイタリアに残す軍の再編成を行いラシュタットでの会合に出席しなければならなかったため、ボナパルトが到着するまでの間、暫定的にドゼー将軍が新たに編成される軍の総司令官を務めることとなった。

 この軍はイングランド方面軍(Armée d'Angleterre)と名付けられ、元々イギリス方面の沿岸警備を任務としていた海洋沿岸方面軍(Armée des côtes de l'Océan)が母体となり、イタリア方面軍から約40,000人、ドイツ方面軍から約20,000人がイングランド方面軍への異動を命じられた。

 イングランド方面軍の担当地域はブレスト(Brest)からオーステンデ(Ostende)までの沿岸沿いであり、司令部は暫定的にパリに置かれることとなった。

 イングランドへの遠征はイギリス海峡を越えなければならず、大きな困難が待ち受けていることが予想された。

 バラスは徐々に発言力を増すボナパルト将軍を危険視し始めており、表面上バラスに従順だが実は裏では牙を研いでいると考えていた。

 ナポレオンの兄ジョゼフからもナポレオンには2面性があることを聞いていた。

 バラスとしてはボナパルトをこのままイタリアの支配者として君臨させ、力を付けさせるわけにはいかなかった。

 ボナパルトはこの時28歳であり、大臣にも総裁にもなれない年齢だったため、バラスはボナパルトに「野望を満たすための十分な活躍の場(敵)」を与える必要があると感じていた。

 そのためフランスの宿敵イングランドへの遠征を計画して、ボナパルトをイタリアから引き離すためにイングランド方面軍総司令官に任命したのである。

アンコーナ共和国の樹立とラシュタットへの旅立ち

 ボナパルトはパッサリアーノでの目的を果たすとトレヴィーゾを経由して11月2日までにミラノに戻り、イングランド遠征のための準備を開始した。

 ボナパルトの後のイタリア方面軍司令官はベルティエ将軍が指名された。

 11月9日、イタリア方面の情勢が安定した頃、ボナパルトはイングランド方面軍へ向かうために再編成を行い、各師団に移動命令を下した。

◎1797年11月9日の移動命令後の最終的な各師団の配置

 11月14日、パリにいるベルティエが北イタリアに到着するまでは暫定的にキルメインがイタリア方面軍総司令官を務めることとなり、キルメイン将軍の参謀長にはナポレオンの妹ポーリーヌの夫であるルクレール将軍が任命された。

 しかし実質的にイタリア方面軍はボナパルトの影響下にあり、キルメインもベルティエもボナパルトの指示通りに行動した。

 そしてボナパルトは教皇領であるがフランスの軍事基地のあるアンコーナをアンコーナ共和国とすることに言及した。

 同日、ローマにオーストリアのプロベラ将軍が到着して教皇軍の指揮を一任されたとの情報が駐ローマ大使であり兄であるジョゼフからナポレオンの元にもたらされた。

 ナポレオンはすぐにプロベラ将軍のローマ追放許可をジョゼフに出した。

 11月16日、ボナパルトはデソール将軍に対してアンコーナとその周辺地域を完全に掌握する命令を下し、ダルマーニュ将軍をミラノに戻した。

 翌11月17日、ボナパルトはミラノを発ち、トリノ、シャンベリー、ジュネーブ、ベルン(Bern)、ゾロトゥルン(Solothurn)、バーゼル(Basel)、ブライスガウ(Breisgau)地域を経由するルートでラシュタットへ向かった。

 ラシュタットへの道中、ボナパルトはパリから逃亡した元総裁カルノーと思われる人物をフランスから脱出させてジュネーブに連れてきたボンテムス(Bontems)という名の男をジュネーブで逮捕させている。

 11月19日、アンコーナ共和国の樹立が宣言された。

 11月25日、ボナパルトはラシュタットに到着し、翌26日にラシュタットへの到着の書簡とボンテムスの尋問内容をフランス政府に送った。

 11月30日、コベンツェル伯爵とメルヴェルト伯爵とカンポ・フォルミオ条約の批准書を交換し、翌12月1日に密約の執行について話し合い、その日の夜にパリへ旅立った。

参考文献References

・「Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 1-3」(1836)

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・その他