バッサーノの戦役 08:ヴルムサーの封じ込め
Battle of Bassano 08

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

フランス軍によるレニャーゴの占領

 1796年9月12日朝、マッセナはミュラを先頭にヴルムサーの後方を追跡し、ヴィクトール旅団をレニャーゴに派遣し西側を包囲した。

 そしてヴルムサーを追跡している途中、カステル・ダーリオでの戦闘についての報告を受けた。

 レニャーゴではオージュロー師団が朝から東側を封鎖していた。

 レニャーゴ守備隊の指揮官はマッセナ師団とオージュロー師団の両師団から降伏勧告を受けた。

 レニャーゴ守備隊の指揮官は降伏を24時間遅らせて翌13日に降伏した。

 守備隊は1,621人おり、その内約800人が武装していた。

 レニャーゴからオージュローの前に出てきて武器を置き、捕虜交換前にフランスとの戦争に参加しないことを条件に解放されトリエステ(Trieste)に向かった。

オージュローの戦線離脱とラ・ファヴォリータでの最初の戦闘

 ヴルムサーはチッタデッラ要塞の斜堤の東側に本体を配置していた。

 フランス軍としてはマントヴァ要塞の外にいるヴルムサーの救援軍をマントヴァ要塞内に封じ込め、早急に飼料を手に入れる手段を奪う必要があった。

 飼料不足によって馬を殺し、マントヴァ要塞駐屯軍及びヴルムサー率いる救援軍の活動範囲を狭めるのである。

 ボナパルトは各師団に行軍を早めるように命じた。

 オージュローは疲れの蓄積により深刻な病気となり戦線離脱した。

 オージュローは師団の指揮をボン(Bon)将軍に一任した。

 ボン将軍は9月13日にレニャーゴを出発し、マントヴァ要塞の南東に位置するゴヴェルノロ(Gpvernolo)に向かった。

 マッセナはカステル・ダーリオに向かって進軍し、ソーゲはオーストリア軍の前哨基地があるラ・ファヴォリータ(La Favorite)に向かって進軍した。

◎ラ・ファヴォリータでの最初の戦闘

 ソーゲはラ・ファヴォリータに到着するとすぐに攻撃を開始した。

 ラ・ファヴォリータはチッタデッラ要塞の大砲の射程内にある大きな宮殿であり、オーストリア軍が前哨基地として利用していた。

 戦闘が始まった当初、ソーゲはオーストリア軍を蹴散らし、3門の大砲を鹵獲した。

 しかし、オーストリア軍は援軍を受けて、ソーゲの後方を脅かした。

 包囲される危険を察知したソーゲは鹵獲した大砲を放棄して後退した。

カステルベルフォルテでの戦闘

 1796年9月14日夜明け頃、マッセナはカステル・ダーリオからマントヴァまでカステルベルフォルテを経由して進軍した。

 マッセナ師団がカステルベルフォルテに入ると、オーストリアの歩兵はスープを作り、騎兵隊は広場で飼料を配っていた。

 オーストリア前衛旅団は前線であるにも関わらず警戒を怠っていたのである。

 オーストリア旅団は不意を突かれ、混乱しながらも急いで数個の大隊を形成して戦闘態勢を整えた。

 この時、マッセナ師団は分散していたためまとまって戦うことができず、オーストリア前衛旅団の反撃は師団の行進を止めた。

 激しい戦いがカステルベルフォルテで行われ、この場所での戦闘の連絡がマントヴァに届いた。

 オット将軍は騎兵隊にカステルベルフォルテに進出したフランス軍を排除するよう命じ、騎兵隊はチッタデッラを出発し、ラ・ファヴォリータを経由して最前線に赴いた。

◎カステルベルフォルテでの戦闘

 数の暴力によってカステルベルフォルテのフランス部隊は敗退した。

 しかし、フランス部隊は粘り強く応戦し、師団の砲兵を指揮する大隊長カッレーレ(Carrere)が12門中2門を有利な位置に配置し、ブドウ弾をオーストリア騎兵隊に向けて砲撃を行った。

 同時にキルメインが20番竜騎兵隊とともに到着し、突撃によってオーストリア騎兵隊を止め、敗走するフランス部隊が野営地の後ろで立て直す時間を稼いだ。

 32番半旅団の保護の下、立て直したフランス部隊は抗戦を続けた。

 夜、マッセナはカステルベルフォルテの後ろに身を置き、ヴルムサー率いる救援軍はマントヴァ要塞には入らずチッタデッラ要塞周辺に布陣したままだった。

 オーストリア軍前衛旅団とマッセナ師団のカステルベルフォルテでの戦闘は夜明けまで続いた。

ダヴィドウィッチ師団の強化

 ダヴィドウィッチ師団はヴルムサー本体と切り離されたためヴルムサーから直接情報を得ることができなかった。

 そのため、目の前のヴォーボワ師団を突破できるように師団の強化に努めた。

 ダヴィドウィッチ師団は9月中旬に向かって約13,600人までになっていた。

 バッサーノの戦いの前にヴォーボワ師団を突破し、ヴルムサーを追うよう命令を受けていたが強化が間に合わず、バッサーノの戦いでの敗北と、ヴルムサーがマントヴァ要塞に向かったという噂を耳にした。

 バッサーノからの逃亡者はアドリア海の海岸とケルンテン州のの防衛のためにフリウーリ州に入り、そこから約4,000人のフランス兵がプステリア峡谷(Val Pusterthal)に向かっていることをダヴィドウィッチに伝えた。

 ダヴィドウィッチはその対策としてミトロフスキー旅団約1,000人をコルティナ・ダンペッツォ(Cortina d'Ampezzo)に移動させ、リーエンツ(Lienz)の倉庫を守った。

◎ダヴィドウィッチ師団の勢力範囲

 その結果、ダヴィドウィッチ師団はグロレンツァ(Glurns)からコルティナ・ダンペッツォまで広域に広がることとなり、ヴォーボワ師団を攻撃する態勢では無くなっていた。

 ダヴィドウィッチはチロルの防衛に専念した。