バッサーノの戦役 04:ロヴェレトの戦い
Battle of Bassano 04

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

戦いの前日

 1796年9月1日、ボナパルトはヴォーボワ師団約10,000人にストロからリーヴァ(Riva)、ナーゴ(Nago)、トルボレ(Torbole)、ロッピオ湖(Lago di Loppio)を経由してセッラヴァッレ(Serravalle)でマッセナ師団約13,000人と合流し、ヴルムサーがダヴィドウィッチと合流する前に共同でダヴィドウィッチ師団を攻撃するよう命じた。

 セッラヴァッレの付近は崖の幅が狭まり、崖下すぐのところにアディジェ川が流れているためマッセナ師団のみでは攻略は難しいと考えられた。

 そのためヴォーボワ師団に後方を突かせ、ヴルムサー本体が到着する前にこの重要地点(セッラヴァッレ周辺地域)を占領する必要があった。

◎イタリア方面軍の侵攻計画

 オージュロー師団約9,000人にはヴィチェンツァ、バッサーノ方面のオーストリア軍の監視を行うと同時にアディジェ川左岸を北上し、マッセナ師団とヴォーボワ師団の支援を行うよう命じた。

 同日、オーストリア軍側ではセボッテンドルフ師団約4,100人がトレントを出発し、その後にカスダノウィッチ師団約4,600人が続いた。

 ダヴィドウィッチ師団においては、ボルゲットからアラ周辺にビカソヴィッチ旅団を配置し、スポーク旅団はダヴィドウィッチとともにロヴェレトにおり、ロイス旅団はトレントとサルカ川、ナーゴ、ロッピオ湖に部隊を配置していた。

侵攻作戦の始まり

9月2日正午、中央のマッセナ師団は4日分の食糧を供給されポール橋でアディジェ川を渡り、ボルゲット(Borghetto)とアラ(Ala)を経由してトレントまで続く主要道路(アディジェ川左岸側)を行軍した。

 そして約400人の部隊と軽歩兵隊にアディジェ川右岸側の哨戒を同時に行わせ、リヴァルタ(Rivalta)とベッルーノ(Belluno)を経由しボルゲット橋で合流した。

 右翼のオージュローはヴィチェンツァ(Vicenza)とバッサーノ(Bassano)方面のオーストリア軍を監視しつつ、マッセナ師団の支援を行うためにルーゴ(Lugo)とロヴェレト(Rovereto)の間でアラの東に位置するモラレ(Molare)山に向かった。

◎フランス軍の機動

Battle of Rovereto

 モラレ山は標高2,000mを超え、ヴィチェンツァからロヴェレトを繋ぐ道を一望できる場所にある。

 そのため、オージュロー師団のこの動きは、ヴルムサーの左側面と、ヴィチェンツァやバッサーノにいるメサロス師団の後方を脅かす計画だったと考えられる。

 同日、左翼のヴォーボワ師団は11個大隊で出発した。

 サン・ティレール将軍が前衛を指揮し、リーヴァを占領し、サルカ川に架かる橋、ナーゴ、ロッピオ湖に設置されたロイス旅団の前哨基地を蹴散らし捕虜にした。

 サローにいるギウ旅団はヴォーボワと合流するために6個大隊を率い、ボートでトルボレ(Torbole)に向かった。

 もしオーストリア軍の抵抗などでトルボレに上陸できなかった場合、ガルダ湖東岸に位置するマルチェジネ(Malcesine)で上陸しマッセナ師団と合流する計画だったが、その後、ギウ旅団は無事トルボレに上陸し、師団本体と合流した。

アラでの戦闘

 9月3日午後2時頃、2個歩兵大隊と1個騎兵大隊で構成されるマッセナ師団の前衛部隊がボルゲットの前でビカソヴィッチ旅団の前哨基地を発見し攻撃を開始。マッセナ師団の前衛部隊はボルゲットを占領し、ビカソヴィッチはアラに後退した。

 アラは堅固な塹壕で覆われ、アラに繋がる道は狭まっており防衛に適した地点だった。

 そのためマッセナ師団の前衛部隊のみでは攻略は難しいと考えられた。

 マッセナ師団の前衛部隊はオーストリア軍を追撃したが、オーストリア軍は追撃部隊の数が少ないことに気づき、振り返って撃退しようとした。

 しかし、そこへ騎兵の分遣隊が到着。下馬して交戦し後続が到着する時間を稼いだ。

 後続が到着して数的優位を確保すると、マッセナはアラへの攻撃を開始し塹壕と村を占領した。

 オーストリア軍は無秩序に退却し、一部はヴォーボワ師団との合流予定地点であるセッラヴァッレに集結し、一部はマルコに移動した。

セッラヴァッレでの戦闘

 セッラヴァッレとマルコはアラよりもさらに防衛に適した地点だった。

 セッラヴァッレは切り立った崖に挟まれた地点にあり、その後方に位置するマルコへの道はアディジェ川が迫った崖下の狭い道のみだった。

 セッラヴァッレは狭い道の入り口側にあるため攻略できそうだが、狭い道の後方に位置するマルコを攻略するためにはヴォーボワ師団の到着が必要であると考えられた。

 マッセナはピジョン旅団にセッラヴァッレを占領するように命じた。

 ピジョンはオーストリア軍との激しい戦闘の後になんとか占領し、300人の捕虜を捕らえることができた。

 セッラヴァッレを防衛していたオーストリア軍はマルコに後退して行った。

 ボルゲットを占領したのは午後2時過ぎなので、このセッラヴァッレの戦闘は夜に行われたのではないかと考えられる。

◎セッラヴァッレでの戦闘

 ビカソヴィッチはロヴェレトのダヴィドウィッチの元に行き、フランス軍の侵攻作戦が始まった可能性があること、ボルゲット、アラ、セッラヴァッレなどの重要地点をフランス軍に奪われたことなどを報告しようとした。

 しかしダヴィドウィッチはトレントのヴルムサーに呼び出されており、その報告は遅れ、その後トレントでヴルムサーとダヴィドウィッチはその報告を受け取った。

 ダヴィドウィッチは即刻スポーク旅団とプロイセン騎兵大隊を連れてトレントを発ち、途中、カッシアーノにスポーク旅団の大部分を配置してピエトラ城で固く防衛するよう命じ、自身は旅団の一部とプロイセン騎兵隊を率いてビカソヴィッチの元に向かった。

 翌朝、ヴルムサーはトレントを発ちバッサーノへ向かった。

 トレントはチロルへ続く最重要地点であり、南からフランス軍が攻勢を仕掛けてくる中、作戦を続行するというのはかなりリスクの高い行動のように考えられる。

 恐らくヴルムサーは防衛側に有利なマルコとカッリアーノを占領しているダヴィドウィッチ師団を抜けるはずがない、もしくはダヴィドウィッチ師団が抜かれたとしてもだいぶ後になってからだと考えていたため作戦を続行したのだろうと考えられる。

 そして、もしだいぶ後になってトレントを占領されたとしても、その頃にはフリウーリ(Friuli)方面を経由する連絡線と補給路を構築してマントヴァ要塞を救出した後であり、ミンチョ川を北上してダヴィドウィッチ師団と挟撃すればいいと考えていたのではないだろうか。

マルコでの戦闘

 9月4日夜明け、ビカソヴィッチ旅団とヴィクトール旅団は隘路を挟んで向かい合っていた。

 ヴィクトール旅団はセッラヴァッレで隙を窺いながら攻撃の合図を待ち、ビカソヴィッチ旅団はマルコの前で隘路を防衛していた。

 昨夜報告を受けたダヴィドウィッチはトレントからスポーク旅団の一部とプロイセン騎兵大隊を引き連れて到着し、マルコの背後に配置した。

 マッセナはヴォーボワの合図を待った。

 この時ヴォーボワはロッピオに到達しており、マルコから見てアディジェ川の対岸に位置するモーリへの攻撃準備を行っていた。

 オージュローはヴァルアルサ(Valalsa)に接近した地点まで進出してマッセナ師団の右脇腹を覆い、ヴィチェンツァを脅かして支援を行っていた。

 そして遂にヴォーボワ師団の大砲が鳴り響きモーリへの攻撃が始まった。

 大砲の音を聞いたマッセナは歩兵を3つの旅団に分割して前進させた。

 最前列のヴィクトール旅団は2個大隊で細く狭まった列を形成して道を進み、ピジョン旅団は東の高地の奪取のために3個軽歩兵大隊で山を登った。

 ランポン旅団は1個大隊でそれらの支援を行った。

◎マルコでの戦闘

 激しい戦いが2時間続いた。

 しかし、右側面からはヴォーボワ師団が、正面からはヴィクトール旅団が、左側面では高地からピジョン旅団が迫ってきたことによりビカソヴィッチは退却を決断した。

 ビカソヴィッチはプロイセン騎兵大隊とともに秩序を保ち部隊を整然とトレント司教領内へ向けて退却した。

 ヴォーボワ師団はモーリのオーストリア軍を排除して占領すると、敗走していったオーストリア軍を追撃するために右岸側から北上した。

デュボア将軍の最後

 マッセナは谷と高所からビカソヴィッチの追撃を行った。

 マルコを占領されたロヴェレトの町は防衛が難しく、大きな兵力を擁するスポーク旅団とロイス旅団は後方のカッリアーノ(Calliano)とトレントにおり、狭隘な渓谷を通らなければならなかったためロヴェレトの町に駆け付けることは困難だった。

 そしてセボッテンドルフ師団及びカスダノウィッチ師団はバッサーノに向かってヴァルスガーナ(Valsugana)を通過しているところだった。

 ボナパルトはこの状況を見て副官であるレマロワ(Lemarrois)をデュボア(Dubois)将軍の元に送り、騎兵隊を指揮してオーストリア軍を追撃するよう命令した。

 デュボアは騎兵隊の先頭に立ちオーストリア軍に突撃を敢行した。

 このデュボアの突撃によってオーストリア軍の秩序ある後退は敗走に変わり、散り散りとなった。

 しかし指揮官であるデュボア将軍は戦闘中、3発の銃弾を受けて致命傷を負った。

 デュボア将軍は息も絶え絶えにナポレオンに「私は共和国のために死ぬ。勝利したかどうか知る時間はあるだろうか?」と問いかけた後に戦死したと言われている。

ロヴェレトでの戦闘

 ビカソヴィッチはロヴェレトに退却し、そこでダヴィドウィッチからカッリアーノのスポーク旅団の元に向かい態勢を立て直すよう命令を受けた。

 カッリアーノはロヴェレトとトレントの中間に位置する交通の要衝の1つであり、スポーク旅団が占領していた。

 ビカソヴィッチは旅団を立て直すために正午頃までロヴェレトに留まった。

 ビカソヴィッチがロヴェレトからの後退を始めた時、ランポン旅団がロヴェレトとアディジェ川の間のサッコ(Sacco)へ移動し、ヴィクトール旅団はロヴェレトの正面から突進して大通りに到達した。

 ビカソヴィッチは正面と右側面から圧迫されたため後退を急がせたが、その多くが後退できずに犠牲となった。

◎ロヴェレトでの戦闘

 オーストリア軍は打ち減らされつつも山岳部特有の地面の起伏や凹凸を利用してゆっくりと後退し、防衛側に有利な隘路では抵抗を行った。

 フランス軍はすべての地点で勝利したが、この戦闘でのオーストリア軍の損失は死傷者と捕虜合わせて約1,000人と3門の大砲のみだった。

 マッセナはロヴェレトの前に部隊を集結させて僅かな休息を与えた。

 ボナパルトは2個騎兵中隊でオーストリア軍の偵察を行った。

 ビカソヴィッチは大幅に弱体化したもののフランス軍の追撃を振り切りスポーク旅団と合流して集結を図ろうとしていた。

カッリアーノでの戦闘

 無傷のスポーク旅団はカッリアーノを中心として部隊を展開していた。

 スポーク旅団の前衛部隊を指揮するヴァイデンフェルト大佐は、アディジェ川と急な山々の間で狭くなっていきカッリアーノへ繋がっている幅約80mほどの渓谷の底で待ち受けていた。

 谷底にはオーストリア軍の戦列が防衛体制を整えており、渓谷の入り口の高地にはプロイセン騎兵大隊が配置されていた。

 すべての大砲が戦闘地点となるであろう隘路に向けられ、その隘路にはピエトラ城が立ちはだかっていた。

◎「ロヴェレトの戦い」

※1796年9月4日に行われたロヴェレトの戦いが描かれた絵画。
右上の城はピエトラ城だと考えられる。

 この地点は打ち減らされたビカソヴィッチ旅団がカッリアーノへ向かうために通ったばかりであり、ヴァイデンフェルトはこの地点を通すわけにはいかなかった。

 難攻不落の様相を見て取ったボナパルトは自ら指揮を執り、攻撃の準備を行った。

 ドマルタンに渓谷を斜めに取った位置に軽砲を設置させ、マッセナに攻撃命令を下した。

 ドマルタン砲兵隊による砲撃での支援がある中、ピジョン旅団はピエトラ城がそびえ立つ岩を登り、4番軽歩兵大隊約300人は正面から攻撃して一斉射撃を行い、3個半旅団を隘路に突撃させて侵入した。

 ドマルタンの砲撃とマッセナ師団の軽歩兵の大胆な攻撃に怯んだプロイセン騎兵大隊は、渓谷の入り口を放棄して後退した。

 このプロイセン騎兵大隊の後退の動きが呼び水となり、隘路を守る兵士達の士気が低下し後退を始めた。

◎カッリアーノでの戦闘

 この後退を見たレマロワ大尉は第1騎兵大隊から50騎を分離して全力疾走した。

 そしてオーストリア軍の列を突破してオーストリア軍の列の先頭に立ち、その後退を阻もうとした。

 しかし3方向から包まれるように攻撃され、レマロワは転倒し、逃亡者に踏みにじられて重傷を負った。

 レマロワ大尉はその後、運よく師団に拾われた。

 第1騎兵大隊もオーストリア軍の後退を見ると突撃し、将来の元帥であるべシェール(Bessieres)騎兵隊長が2門の大砲を解体したが、第1騎兵大隊を指揮する旅団長が戦死した。

 その日の夕方近く、フランス軍はカッリアーノに殺到した。

 ヴァイデンフェルトの部隊によって難攻不落の地点を守られていたためビカソヴィッチとスポークは油断していた。

 そのため対応が遅れ、カッリアーノを放棄して敗走した。

 オーストリア軍はトレントまで逃亡し、フランス軍はこのカッリアーノでの戦闘で捕虜約6,000人、大砲25門、弾薬ケース50個、軍旗7旗を獲得した。

トレント占領

 マッセナ師団とヴォーボワ師団は未だアディジェ川により分断されていた。

 しかし、リーヴァ周辺を占領しガルダ湖をフランス軍の勢力下に置いた今、オーストリア軍はマッセナ師団とヴォーボワ師団の合流点を脅かすことができなくなっていた。

 もし、リーヴァ周辺が失われていなければ、状況はもう少し違ったものになっただろう。

 1796年9月4日夜10時頃、副官のルクレール将軍を数人の護衛とともに偵察に送ったが、誰もルクレールが帰ってくるのを見かけることは無かった。

 ルクレールは偵察の途中、オーストリア騎兵隊によって捕らえられたのである。

 しかしその後、旅団長が暗闇を利用してオーストリア騎兵隊との戦いに勝利し、ルクレールとその部下を救出し、40人の捕虜を捕らえたという一幕があった。

 そしてヴォーボワ師団は深夜にアディジェ川を渡り、マッセナ師団と合流した。

 マッセナはすぐにトレントに向かった。

 5日未明、ダヴィドウィッチはマッセナ師団と数発の砲弾を交わした後、暗闇の中トレントを放棄しアヴィシオ川を越えてラヴィース(Lavis)に後退した。

 これによりダヴィドウィッチはヴルムサーと切り離されることとなった。

 9月5日午前8時頃、ダヴィドウィッチの後退に気づいたマッセナはトレントに入り、ヴォーボワも正午頃にトレントに到着した。