バッサーノの戦役 09:サン・ジョルジュの戦い
Battle of Bassano 09

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ロヴェレトの戦い:約32,000人
第一次バッサーノの戦い:約22,000人
ロヴェレトの戦い:数百人
第一次バッサーノの戦い:約400人
オーストリア ロヴェレトの戦い:約14,000人
第一次バッサーノの戦い:約8,100人
ロヴェレトの戦い:7,000人以上(死傷者と捕虜)、大砲28門、軍旗7旗
第一次バッサーノの戦い:死傷者約600人、捕虜約3,000人、大砲35門、軍旗5旗

オーストリア軍による籠城準備とフランス軍の配置

 1796年9月15日夜明け頃、マントヴァ要塞駐屯軍は、フランス軍に完全に包囲される前に飼料を手に入れるために全体的に出撃した。

 ほぼ同時にカステルベルフォルテの前衛旅団と騎兵隊は撤退した。

※オーストリアのカステルベルフォルテの前衛旅団の動きについては、「戦闘が(15日の)夜明けまで続いた。」という記述のみであり、その後カステルベルフォルテの前衛旅団に関する記述は無い。
しかし、カステルベルフォルテの前衛旅団がいないかのように戦いの経過が進んでいるため、おそらく夜明けとともに撤退したのだろうと考えられる。

 ヴルムサー率いる救援軍は要塞駐屯軍の採餌活動を保護した。

 カステル・ダーリオからレニャーゴへの道を右翼が、マントヴァ要塞からヴェローナへの道を左翼が保護した。

◎オーストリア軍の出撃とフランス軍の配置

 この時、フランス軍右翼ソーゲ師団はロヴェルベッラからチッタデッラ要塞までの道をマントヴァ要塞を包囲するように配置されていた。

 中央マッセナ師団はカステルベルフォルテの後ろに位置していたが、運河と地形の起伏などによりマントヴァ要塞側からは見えなかった。

 そのためヴルムサーはカステルベルフォルテの前衛部隊と戦っていたフランス部隊は気にするほどでもなく、大兵力がカステルベルフォルテ周辺にいるとは思わなかった。

 ボン将軍率いるオージュロー師団はゴヴェルノロで左翼を形成し、ミンチョ川左岸側沿いを遡ってサン・ジョルジュに向かって進軍していた。

ソーゲ師団による攻撃の開始

 マントヴァ要塞から出撃してくるオーストリア軍を見たソーゲ将軍は、ラ・ファヴォリータを攻撃し、マントヴァ要塞に立て籠もっていたオーストリア軍を封じ込めるよう命令した。

 ソーゲはマントヴァ要塞からロヴェルベッラへの道でオーストリア軍左翼オット旅団に対抗した。

 しかし、2個大隊と騎兵の分遣隊がたて続けにオット旅団に加わり、ソーゲの攻撃は撃退され、ドラッソ(Drasso)までの後退を余儀なくされた。

 ソーゲ師団は教会やいくつかの石造りの家を防壁として抵抗を続けた。

 そこへ砲兵隊が到着して砲撃が始まると、オーストリア騎兵隊はドラッソ村から退却を始めた。

 しかしフランス砲兵隊はオーストリア騎兵隊にかなりの損失を被らせることができた。

 オット将軍はその後、焼夷弾を放ち、ソーゲ師団の大部分が前進したとき、ラ・ファヴォリータに退却した。

 オットはラ・ファヴォリータで旅団を結集させ、中央のヴルムサー本体からの増援を加えて持ちこたえた。

オージュロー師団の到着とマッセナ師団の投入

 ボン将軍率いるオージュロー師団はゴヴェルノロからミンチョ川を遡ってマントヴァに向かって移動を続けていた。

 そして午後2時頃、ボン将軍はボルゴ・カステレット(Borgo Castelletto)にあるオーストリア軍の前哨基地を攻撃した。

 ヴルムサーはオージュロー師団に対抗するためにコルテ・テンカ(Corte Tenca)方面に右翼と中央の一部を向かわせた。

 これを見たボナパルトはマッセナに師団の大部分でサン・ジョルジュを攻撃するよう命じた。

 この時、ヴルムサーは中央からラ・ファヴォリータとコルテ・テンカに部隊を派遣して左翼と右翼を補強していたため、中央の兵力が減少していた。

◎ボナパルトの計画

 ヴルムサー本体の兵力が少なくなっているこの瞬間を利用して、サン・ジョルジュを占領してオーストリア軍右翼を包囲殲滅し、その後、チッタデッラ要塞の斜堤前にいるヴルムサー本体及びラ・ファヴォリータにいるオット旅団をマントヴァ要塞内に封じ込めるのである。

 マッセナは師団を3つに分割した。

 ピジョン旅団とベルティン(Bertin)旅団はラ・ファヴォリータへの攻撃を担当し、ヴィクトール旅団はマッセナの副官であるシャブラン(Chabran)を伴ってサン・ジョルジュへの攻撃を担当した。

 ランポン旅団はマッセナとともにあり、予備を形成した。

 ピジョンとベルティンはヴィッラノーヴァ・マイアルディナ(Villanova Maiardina)を通過した後、平原を右に曲がり、ラ・ファヴォリータとチッタデッラ要塞の間の連絡を遮断しようとした。

 同時にソーゲはラ・サルセッテ将軍にラ・ファヴォリータとチッタデッラ要塞の間を素早く移動するよう命じた。

 ヴルムサーは左翼のオット旅団が切り離されようとしているのを見て、さらに中央から増援部隊を派遣した。

サン・ジョルジュの占領とオーストリア軍右翼の後退

 午後2時半頃、ヴィクトールとシャブランは散兵を先頭にしてサン・ジョルジュの正面から接近し、塹壕で覆われているサン・ジョルジュへの攻撃を開始した。

 そして大砲の支援と強固な塹壕に守られたサン・ジョルジュ守備隊と激しい戦いを繰り広げた。

 ヴィクトールは戦闘で2ヵ所に重傷を負ったにも関わらず、包帯を巻かれた後、指揮を再開した。

 シャブランは歩兵の先頭に立って戦い、ルクレールとマルモンが到着するまで耐え、その後、サン・ジョルジュを占領した。

 この時、マルモンが騎兵突撃によって戦果を上げている。

 マッセナの右にあるチッタデッラ要塞の方向に約7,000人の兵士の列を配置していたヴルムサーは、サン・ジョルジュが奪われようとしているのを見て、マッセナ師団の一部を振り向かせるために部隊を差し向けた。

 マッセナはすぐさまランポンにこの部分に移動するよう命じた。

 マッセナ師団によるサン・ジョルジュへの攻撃が始まった頃、オーストリア軍右翼はボン将軍率いるオージュロー師団に対して優勢に戦いを進めていた。

 しかし、サン・ジョルジュの方向からの大砲の音により退路を遮断されることを懸念してサン・ジョルジュへ後退した。

 ボン将軍はオーストリア軍右翼を追撃しつつ前進し、午後4時にサン・ジョルジュに到着した。

◎フランス軍によるサン・ジョルジュの占領時の状況

 オーストリア軍右翼はサン・ジョルジュがフランス軍の勢力下に置かれているのを見ると、サン・ジョルジュの前を通り過ぎ、オージュロー師団と交互に銃弾を交わしながら追い立てられ、チッタデッラ要塞に向かって後退した。

ランポンの奮戦

 オーストリア軍中央からの増援部隊は右翼と合流した後、ランポン旅団に攻撃され足を止めて戦っていた。

 オーストリア軍右翼と中央からの増援部隊はメッツォ湖を背後にしてオージュロー師団とランポン旅団に挟まれ、必死の抵抗を試みた。

 オーストリア軍右翼と中央からの増援部隊はチッタデッラ要塞方面を突破しようとしていたため、ランポン旅団の負担が大きかった。

◎オーストリア軍右翼の壊滅とラ・ファヴォリータの占領

 そこにマッセナ師団本体が加わり、3時間の戦いの末、一部は武器を置いて降伏した。

 降伏しなかった者は湖に押し込まれ、チッタデッラ要塞に向かって無秩序に泳いで逃亡した。

 逃亡者は夜にチッタデッラ要塞に泳ぎ着き、救助された。

 この戦闘でオーストリア軍右翼と中央の一部は約300人~400人が溺死し、多くが捕虜となり、8門の大砲を失った。

ラ・ファヴォリータの占領

 マッセナがオーストリア軍右翼とオーストリア軍中央からの増援部隊と戦っているとき、マッセナ師団右翼のピジョン将軍とベルティン将軍はラ・ファヴォリータで戦っていた。

 オーストリア軍左翼であるオット旅団の抵抗は強く、チッタデッラ要塞から放たれた砲弾が降り注いでいたにも関わらず、ボナパルトの命令によりソーゲ師団はラ・ファヴォリータでの戦闘に加わることができなかった。

 しかしピジョンとベルティンは奮戦し、オット旅団はラ・ファヴォリータからの退却を余儀なくされた。

※マッセナはサン・ジョルジュの戦いの後、「ソーゲ師団にラ・ファヴォリータを攻撃させなかったからチッタデッラ要塞とサン・ジョルジュの間にオーストリア軍の大部隊が派遣された」とボナパルトに主張している。


 サン・ジョルジュ戦いでオーストリア軍は2,500人の兵士と25門の大砲を失い、マッセナ師団は1,500人が死傷、または捕虜になり、ヴィクトール将軍、ベルティン将軍、サン・ティレール将軍、メイヤー将軍が重傷を負った。

バッサーノ戦役の終わり

 フランス軍がようやく休息をとることができるようになると、ボナパルトはマッセナにロヴェルベッラ近郊で宿営し、師団の再編成を行うよう命じた。

 ヴィクトール指揮下の18番半旅団だけは隷下の11番大隊が戦っており、サン・ジョルジュに一時的に残った。

 ロヴェルベッラは収穫期と猛暑の真っ只中にあり、傷つき弱ったマッセナ師団にとっては非常に悪い場所だった。

 マッセナはこのロヴェルベッラで過酷な8日間を過ごすことになる。

 その後ボナパルトは、マントヴァ要塞を包囲する師団の指揮をキルメイン中将に一任し、ボン将軍率いるオージュロー師団をゴヴェルノロ周辺に駐留させキルメインの指揮下に置いた。

 一方オーストリア軍側では、ヴルムサーはマントヴァ要塞内に避難しプスターラ門前のティーと呼ばれる防衛施設とチェレセ門前のミリアレットの塹壕の間に宿営した。

 ダヴィドウィッチはチロルに13,600人、カスダノウィッチはイゾンツォ(Isonzo)川に2,000人、シュビルツはポンテッバ(Pontebba)と(タルヴィス)Tarvisに1,600人、3,600人は伯爵領のフォアアールベルク(Vorarlberg)にいた。

 戦役が始まる前にヴルムサーが有していた約40,000人の軍勢は20,800人にまで打ち減らされたのである。

 かくしてオーストリア軍による2回目のマントヴァ要塞救出作戦は失敗し、バッサーノ戦役は終わった。

 しかしオーストリア軍は未だマントヴァ要塞を諦めておらず、チロルとフリウーリに兵力を集結させていた。