マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月) 06:スフォルツェスコ城の占領と教皇領での反乱 
Siege of Mantua ( July 1796 ) 06

マントヴァ要塞攻囲戦(1796年7月)

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約14,500人 不明
オーストリア 約14,000人 約500人以上

スフォルツェスコ城の占領Occupation of Milan Castle

 1796年6月26日未明、フランス軍はミラノでモルタル造りの2つの砲台と外国製の異なる口径の5つの砲台が完成し、スフォルツェスコ城を攻略するために合計24門の大砲で武装した。

 同日午前9時、スフォルツェスコ城への一斉砲撃が始まった。

 主に橋や建造物を目標にしスフォルツェスコ城でいくつかの火事を引き起こした。

 オーストリア守備隊は精力的に対応したが、フランス軍の砲撃により約50人が死亡し、砲台の一部が損傷した。

 フランス軍の砲撃は途切れることなく続いた。

 28日、26日に始まったミラノのスフォルツェスコ城への砲撃は間断なく続いていた。

 オーストリア守備隊の多くの部隊が散り散りになり、胸壁が酷く損傷した。

 ラミー大佐は損傷を土で修復し、健在な部隊と交代させ、粘り強く抵抗を続けた。

 29日の朝、ラミー大佐は未だ続くフランス軍の砲撃の停止を要求した。

 しかしデスピノイはこれを拒否。しばらく後、ラミー大佐率いるオーストリア守備隊はついに降伏した。

 デスピノイはすぐに4つの部隊を差し向け、スフォルツェスコ城と付随する砦を占領した。

 正門の付近を防衛していた守備隊はヴェルチェッリーナ砦の斜堤に沿って武器と荷物を持って行進し、堀に架かる橋で武装解除した。

 スフォルツェスコ城の占領により約2,000人を捕虜とし、152門の大砲、20万発分の火薬、5,000丁のマスケット銃や食料などを鹵獲した。

 これはミラノの平定と、マントヴァ要塞の攻囲のための装備・物資の調達という2重の幸運をフランス軍にもたらした。フランス軍はマントヴァ要塞の攻囲に必要な大砲や物資を送ることができるようになり、マントヴァ要塞を包囲しているセリュリエ師団は着々と強化されていった。

 スフォルツェスコ城の攻略成功の報を聞き、ボナパルトはスフォルツェスコ城攻囲の指揮官であるデスピノイ少将の師団長(中将)への昇格を上層部に求めた。

教皇領での反乱とオージュロー師団による徹底した報復

 1796年6月30日、チェゼーナ(Cesena)でフランス軍に対する暴動が発生した。

 この暴動はロマーニャ州とフェラーラの田園地帯に広がり、7月5日、ラヴェンナの西にあるルーゴ(Lugo)に人々が集まり教皇軍を結成した。

 ロマーニャ州とフェラーラ周辺の人口は約20,000人であり、そのすべてがフランス軍に敵対したように見えた。

 この時オージュロー師団は各地に散らばっており、2つの動ける部隊を組織化するのに数日かかった。

 またしてもオージュロー師団の担当地域での反乱である。恐らく散らばっていたというのはオージュローを筆頭に兵達が略奪のために散らばっていたため組織化するのに時間がかかったと考えられる。

 1つ目の部隊はベイランドによって指揮され、フォルリ(Forli)とイモラ(Imola)の教皇軍と対抗し、2つ目の部隊は大隊司令官ポウライリーによって指揮され、フェラーラ(Ferrara)の教皇軍の元へ向かった。

 イモラ(Imola)の司教であるキアラモンティ枢機卿(ナポレオンの戴冠式に呼ばれた将来の教皇ピウス7世)も最悪の事態を恐れて調停を提案した。しかし教皇軍を安心させ解散させることはできず、教皇軍はフランス軍に対して抵抗を続けた。

 7月7日、オージュローは1個大隊、100頭の馬、2つの砲兵隊でルーゴへ移動した。

 ルーゴに到着すると戦いはすぐに始まり、約300人の教皇軍と衝突した。

 オージュローは砲撃により教皇軍を打ち破り、教皇軍は降伏した。オージュローはその報復として1日かけてルーゴで略奪の限りを尽くした。

 政府の建物だけではなく、教会や民家も略奪の対象であり、建物の隅から隅まで金目の物は奪われた。

 さらに無抵抗な市民への暴行や強姦などもオージュローの承認の下で行われたと言われている。

 オージュローはこのルーゴでの略奪で多くの財産を築き上げた。

 これにより教皇領での反乱はすべて鎮圧され、オージュロー師団はレニャーゴ要塞へ戻り、ボナパルトもマントヴァ要塞攻略に向かった。

ヴルムサーの脅威Skirmish of Campione

 トレントにヴルムサーが到着して以降、続々とオーストリア軍がトレント周辺に到着し始めた。

 メラスはヴルムサーにイタリア陸軍の指揮権を引き継ぎ、ヴルムサーは兵力の再編成及び再配置を行った。

 トレント周辺の兵力の増加に伴いオーストリア軍は活発に動き始め、その前衛部隊はガルダ湖東側のフランス軍の勢力範囲を探りながら南下した。

 オーストリアの部隊がフランス軍が占領しているコロナの北に位置するボケッタ・ディ・カンピオーネを占領した。

 このボケッタ・ディ・カンピオーネの占領でオーストリア軍の勢力圏とフランス軍の勢力圏が重なり合うこととなった。

 マッセナはオーストリアの部隊が防衛態勢を整える時間を与えないために、即座にコロナに赴きボケッタ・ディ・カンピオーネへの攻撃を主導した。

 しかし、その時にはすでに前哨基地が設置されており防衛態勢を整え終えようとしていた。

◎カンピオーネの戦い

※ボケッタ・ディ・カンピオーネの位置は正確では無い。

 翌午前1時頃、ジュベール麾下の大隊長マーチャンドが指揮する約400人の前衛部隊がボケッタ・ディ・カンピオーネの前哨基地に夜襲を行った。前哨基地を防衛していた部隊はボケッタ・ディ・カンピオーネへ後退した。

 ボケッタ・ディ・カンピオーネはすでにかなり強化されており、オーストリアの部隊はフランス軍が攻撃してくる時のために、通行可能な場所に岩を積み上げ簡素な砦を築き上げていた。

 ボケッタ・ディ・カンピオーネを防衛していたラターマン(Latterman)とストラッソルド(Strasoldo)の部隊は激しい抵抗をした。

 銃撃戦の後、フランス軍は銃剣突撃を行いラターマンとストラッソルドの部隊を打倒し、ボケッタ・ディ・カンピオーネを占領した。

 このボケッタ・ディ・カンピオーネでの戦闘においてオーストリア軍は約200人の損害(死傷・捕虜)を出した。

 このマッセナの動きに合わせて右側ではプレアボッコ(Preabocco)とブレンティーノ(Brentino)で指揮を執る大隊長レッコ(Recco)は2個大隊、2個騎兵中隊の約800人でベッルーノ(Belluno)を防衛しているオーストリアの部隊に対し夜襲を行った。

 レッコは夜闇の中、静かにベッルーノに接近しベッルーノのオーストリアの部隊を撃破した。

 左側ではヴィクトール率いる約1,200人がガルダ湖に沿って、夜襲を行うためにマルチェジネ(Malcesine)へ向かった。このヴィクトールの部隊にサン・ゼーノ・ディ・モンターニャから出発した3つの部隊が加わった。

 しかし、道は険しく、夜が明ける前に到着できず朝を迎えることとなった。

 マルチェジネのオーストリアの部隊は朝日に照らされたヴィクトールの部隊を見て警戒態勢を取った。

 マルチェジネから激しい銃撃が始まり、5隻の砲艦からの砲撃に支援されたオーストリアの部隊の攻撃はヴィクトールに反撃すら許さないほど激しかった。

 ヴィクトールは形勢不利と見るや即座に後退した。

※このカンピオーネでの戦いは7月1日~15日の間に行われたと推測される。