【第一次イタリア遠征】ナポレオンによる北イタリア支配の強化とオーストリアの策動 
Napoleon's strengthening of control over northern Italy (1797)

北イタリアの再編

※「1797年7月9日、ミラノでチザルピーナ共和国を宣言するボナパルト将軍」。ルイ・ラフィット(Louis Lafitte)画(1806年)

 ボナパルトは1797年6月14日にリグーリア共和国を樹立してからも北イタリアの再編に乗り出した。

 未だリグーリア共和国とサルディーニャ王国の近くに残るオーストリア帝国領をリグーリア共和国領もしくはサルディーニャ王国領とするために画策し、6月29日にはチザルピーナ共和国の建国宣言を行い独自の憲法を発布した。

 それにともないトランスパダーナ共和国はチザルピーナ共和国へ併合された。

 そして7月9日、ボナパルトはモンテベッロからミラノに移り、チスパダーナ共和国のチザルピーナ共和国への併合を決定した。

 その間、6月20日までにオーストリア軍はイストリアとダルマチアを占領した。

 ボナパルトはチザルピーナ共和国の最高指導者を自身とし、姉妹共和国とは言えフランス共和国の内政干渉を許さないつもりだった。

 7月14日には革命記念日をミラノで祝い、モンドヴィ平原で戦死したスティンゲル騎兵将軍、フォンビオで戦死したラハープ将軍、ロヴェレトの戦いで戦死したデュボワ将軍の栄誉を称えた。

 そしてその後も規律の強化やサルディーニャ王国との調整、コルシカ島の師団の再編成をし、内政強化を行なっていた。

不穏な気配

 7月22日、ボナパルトはイゾンツォ川左岸側のオーストリア軍が増強され、あたかも戦争中であるかのように大砲を配置していることを知った。

 オーストリア側としては、フリウーリ州は未だフランス軍の手中にあるがオーストリアの領土を取り戻しており、フランス軍が首都ウィーンに迫った恐怖はすでに過去のものとなっていた。

 さらにフランス共和国内部では王党派が勢力を大きく伸ばしており、現政権の足元はグラついていた。

 そのためカール大公指揮下で強化され再編成を行なった軍を再び戦闘配置につかせ、最終的な和平が締結されなければレオーベン条約は無効となるため、戦争をいつ再開してもいいように着々と準備を行なっていたのである。

 ボナパルトはフリウーリ州を担当しているベルナドット将軍に偵察して警戒を怠らないよう命じ、ヴィクトール師団に約2,500人の第58半旅団を向かわせたこと、もしオーストリア軍が少しでも動いた場合、ドゥガ騎兵師団を即座に派遣することを伝えた。

 バッサーノのジュベール将軍にもプリモラーノからトレントまでのオーストリア軍の状況をスパイを潜入させて調査するよう命じた。

 そしてパルマノヴァ要塞に赴いて要塞を強化するための工事の進捗状況、火薬と兵糧の量を確認してオーストリア軍が侵攻してきた場合に備え、カルニオーラとケルンテンにスパイを送ってオーストリア軍が占領している陣地や部隊、そして塹壕線の位置を報告するよう要求した。

 さらにヴィクトール将軍にはオソッポ要塞の強化を、アンドレオシー工兵将軍にはイゾンツォ川への橋の建設を、マッセナ将軍とミオリス将軍には、マントヴァからパドヴァまでの道路の修復を、ベルティエ将軍にはレニャーゴ要塞とペスキエーラ要塞の強化工事の再開をするよう命じ、チザルピーナ軍をイゾンツォ川に向かわせベルナドット師団を支援させた。

オーストリアとの戦争準備

 オーストリア軍の不穏な動きにボナパルトは思考を巡らせていた。

 戦争が9月に開始された場合、オーストリア軍を屈服させ、皇帝からレオーベン条約よりも有利な条件を引き出すためには2ヶ月半~3ヶ月かかるだろうと予想した。

 オーストリア領に侵入するにはアルプス山脈を通過する必要があり、アルプス山脈は10月から雪が降り積もり始めることから、もし9月が交渉に費やされた場合、10月以降になるとフランス側から攻撃することが難しくなるだろうことが考えられた。

 もし9月に戦争が開始された場合であっても、ボナパルトは1ヵ月以内にはグラーツを占領できているだろうと考えていた。

 しかしイタリア方面軍には騎兵が足りなかったため、フランス政府に新たに3,000騎~4,000騎、騎馬砲兵3個中隊を派遣するよう要請した。

 7月の時点で派遣命令を出していれば、8月末にはミラノに到着できると予測していた。

 さらにリグーリア共和国とチザルピーナ共和国との間で条約を締結し、リグーリア共和国から2,000人~3,000人の兵力を確保することを考えていた。

 前回のオーストリアとの戦役ではサルディーニャ王国は約10,000人の兵力をフランス軍を支援するために派遣していたが、ここ数ヵ月でサルディーニャ王国の通過は信用を失って暴落し、その影響で国家財政が悪化して暴動が起こり、以前のように軍を派遣できないだろうことが考えられた。

 9月から開始される可能性がある戦役のために、ボナパルトは弾薬も潤沢に用意するよう命じており、砲兵司令官レスピナス将軍に対し、ヴェローナでは30万、ヴィチェンツァでは30万、パドヴァでは30万、トレヴィーゾでは30万、ウーディネで30万、ジェモナで30万、パルマノヴァで100万発、キウーサもしくはポンテッバにも100万発を、足りない分は調達して倉庫に保管するよう命じた。

オーストリア帝国の態度の変化

※「Johann Amadeus Franz von Thugut」。作者不明。1853年以前の作。

 ナポリ公使ガロ侯爵がウィーンでモンテベッロでの協議事項をオーストリア皇帝へ批准を求めた時、当時のオーストリアの外務大臣トゥーグト(Johann Amadeus Franz von Thugut)はカール大公の反対にもかかわらず署名を拒否した。

 オーストリアの大使であるメルヴェルト伯爵は全権をはく奪されてウディネへ行き、レオーベン条約ですでに決定されたことさえも8月に再度協議したい旨をクラーク中将に伝えた。

 これらのことを知ったボナパルトは「オーストリアは(恐らく戦争を開始するために)交渉を引き延ばそうとしている。」と考えた。

 ボナパルトはフランスには戦う用意があることを見せつける必要を感じており、オーストリア軍との前線を強化した。

 しかし、オーストリアが戦争を求めているというのはあくまでもその兆候があるというだけであり、ボナパルトは同時にレオーベン条約を遵守するための行動を行なった。

 ボナパルトはオーストリア軍に圧力をかけるために、イオニア諸島を占領している艦隊に「本艦隊の目的はダルマチア征服である」旨を通達させた。

 そして7月28日、ボナパルトはウディネでの交渉状況とオーストリア軍の動向に自身の考えを加えてフランス政府に報告した。