【第一次イタリア遠征】フランス内部の情勢とナポレオンの意思
Situation inside France (1797)
アントレーグ伯の尋問

※アントレーグ伯爵
1797年アントレーグ伯(Emmanuel Henri Louis Alexandre de Launay, comte d'Antraigues)はロシアの駐ヴェネツィア大使の下で外交官として勤務していた。
5月にフランス軍がヴェネツィアを占領したことによりロシア大使とともにトリエステに逃れることを余儀なくされたが、トリエステで逮捕され家族とともにミラノに連行された。
ボナパルトはアントレーグ伯を尋問し、押収した書類を調査した。
その中に、現在の五百人評議会議長であり当時将軍だったピシュグリュがモンガイヤール伯に対してフランスを裏切るよう誘導しようした内容の手紙を発見した。
モンガイヤール伯がフランスを裏切ることは無かったが、この手紙の発見は王党派にとって致命的なものとなるだろうことが予想された。
アントレーグ伯は軟禁されていたが、なんとか家族とともにオーストリアに入国することができた。
ボナパルトと何らかの取引をして釈放されたとも言われている。
バラスからの要請
1797年3月~4月に行われた3回目の評議員選挙では、王党派が多数の議席を獲得し、最大勢力となり、総裁の1人をバルテルミーに交代させる事態となっていた。
そのため総裁政府は共和派(バラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエールの3総裁)と王党派(バルテルミー)の対立の構図ができつつあった。
もう1人の総裁であるカルノーは共和派であるがフランスを1つにまとめるために穏健派として王党派との和解を模索しており、王党派寄りの立場にあった。
イタリア方面作戦についても意見が分かれており、共和派の総裁達はオーストリアに対する戦争を直ちに再開するべきであり、交渉を長引かせることは許されないという意見だったが、穏健派カルノーと王党派バルテルミーはこれに反対していた。
フランス革命を経てもフランスに残った王党派議員達は、法の下での王制の復活(立憲君主制)を目指しており民衆に人気があり、前回の選挙で大多数の議席を獲得していたため、ボナパルトがオーストリアへ先制攻撃を行うことは難しい状況となっていた。
しかし軍内では共和派の方が人気があり、快進撃を続け宿敵オーストリア帝国を下したイタリア方面軍総司令官ナポレオン・ボナパルト将軍とその麾下の将軍達は民衆に絶大な人気を誇っていた。
そのためバラスはボナパルトに共和派を支援するためのイタリア方面軍の主要な将軍が書いた嘆願書の提出を要請した。
ボナパルトはバラスの要請に応じ、オージェロー、マッセナ、セリュリエ、ジュベール、ベルナドットの各将軍に嘆願書の提出を求めた。
オージュロー、マッセナ、セリュリエ、ジュベール将軍は求めに応じて嘆願書を提出したが、ベルナドット将軍は「このような事は法律に違反しており、秩序に反します。また、方面軍司令官にはこのような命令を出す権限はないでしょう。」と嘆願書の提出を拒んだ。
これに対してボナパルトは「共和国の敵はパリの外にもいると見做されるだろう。」と言ってベルナドットを脅迫した。
そのためベルナドットはしぶしぶ嘆願書を書いて直接フランス政府に送り、ボナパルトにはその写しを送った。
1797年7月27日、オージュローがパリに赴くこととなったため、ボナパルトはこの機会を利用してベルナドット以外の各将軍の書いた嘆願書の原本を持たせて送り出した。
恐らくこの時にアントレーグ伯から押収した「五百人評議会議長ピシュグリュの裏切りの手紙」もオージュローに持たせたのだろうと考えられる。
「オージュロー将軍のパリでの用事」とは「五百人評議会議長ピシュグリュの裏切りの手紙をバラスの元に届けること」だった可能性がある。
バラスはこのとき既に水面下で策動しており、クーデターにより王党派を引きずり下ろすことを視野に入れ、着々と準備を進めていた。
しかしボナパルトの副官であるラ・ヴァレッテ将軍もパリに派遣されており、オージュローは共和派の3人の総裁と、ラ・ヴァレッテは穏健派の総裁カルノーと会っており、どちらの派閥が勝利したとしてもイタリア方面軍や支配下にある姉妹共和国に影響が無いように計らっていた。
ベルナドット将軍のパリへの派遣
そのような情勢の中、ベルナドット将軍がパリへ派遣されることが決定された。
表向きの理由は「リヴォリの戦い後に21本の旗をオージュロー将軍に持たせて送ったが、実際送ったのは15本~16本であり、ペスキエーラ要塞に保管されている残りをベルナドット将軍に持たせて送ること」だった。
ベルナドット将軍は7月30日にウディネを発ち、ミラノに立ち寄ってボナパルトと会い、その後、トリノ、シャンベリー、リヨンを経由して8月20日までにパリに到着した。
ベルナドットがミラノでボナパルトと会った際、ベルナドットとともにライン川からイタリアに来た師団の指揮を再び任せることを約束したと言われている。
オージュロー将軍が再びパリに戻ることが決定された時の表向きの理由は「オージュロー将軍がパリに用事があるため」であり、今回のベルナドット将軍をパリに派遣する表向き理由は「忘れ去られていたリヴォリの戦い時に奪った残りのオーストリア軍旗をパリに送るため」であり、オーストリア軍が活発になりつつあるこの時期にそのような理由で師団長を2人もパリに送るのはあからさまだった。
恐らくバラスがクーデターの指揮官となってもらうために人気のあるベルナドット将軍を名指ししてパリに派遣するよう要請したか、ボナパルトの消去法的な人選で決められたのではないだろうか。
以前、ベルナドットはボナパルトにパリに帰還したい旨を伝えたことが一因の可能性もある。
そしてベルナドットはミラノでボナパルトから「イタリア方面軍に騎兵の増援を送ってもらえるよう根回しすること」、「パリやフランス内部の様子を報告すること」を求められたのだろう。
チロル方面でのオーストリア軍の不穏な動き
8月に入り、ボナパルトの元へオーストリア軍がガルダ湖で軍船を大幅に増加させているという報告があった。
フリウーリ州の周辺だけでなくチロル州においてもオーストリア軍は活発に活動し、フランス軍に対抗するような姿勢を見せていた。
8月4日、ボナパルトはアンドレオシー工兵将軍にペスキエーラ海軍の現在の戦力について報告するよう求めた。
8月9日、ボナパルトはベルナドット師団の指揮をフリアン(Louis Friant)少将に代行させ、ベルナドット師団をヴィクトール将軍指揮下に置いた。
パリのオージュロー将軍からの報告
8月10日、バラスはオージュローにクーデターの指揮を依頼した。
しかしオージュローは恐らく政治的な不確実性から、まだ準備ができていないと断った。
この時、共和派の3総裁は自分たちがいつ断頭台に送られるのか怯えており、ルーベルなどはパリを離れたいと常に思っていた。
オージュローはイタリアに戻りたいと語っており、バラスとラ・レヴェリエールはオージュローがイタリアに帰るのを思いとどまらせ、安心させるよう務めた。
8月15日、フランス政府はレオーベン条約を受け入れることを決定した。
しかし、この時点でボナパルトはオーストリアがイタリアに対するより有利な提案を主張するだろうと予想していた。
8月16日、最近になって第17師団(首都防衛と治安維持を任務とした軍)の司令官に任命されたオージュローはパリからボナパルトに報告書を送った。
そこには「ヘッセン=カッセル方伯が甥に対して皇帝は講和しないと書いていること」、「パリが2つの派閥に分断され、王党派が勢力を増していることが理由であること」が書かれていた。
この書簡の到来によりオーストリア軍は戦争を再開しようとしているという仮説が補強された。
もしこのまま王党派が政権を牛耳った場合、フランスには再び内戦が訪れるだろうと考えられ、もし内戦となった場合、築き上げた姉妹共和国の行方も危ういものになると考えられた。
ボナパルトとしてはオーストリア軍をおとなしくさせ、レオーベン条約を批准させるために内戦を避ける必要があった。
そのためバラスの要請に応じて共和派に力を貸したのである。
この時バラスはイタリア方面軍だけでなく、サンブル・エ・ムーズ軍からもオッシュ将軍と麾下の師団を呼び寄せていたがオッシュ将軍は8月10日までにサンブル・エ・ムーズ軍に戻っており、オッシュ将軍の軍の指揮はリシュパンス(Antoine Richepanse)将軍に委ねられていた。
その後、リシュパンス将軍は師団をベルサイユ(Versailles)、ムードン(Meudon)、ヴァンセンヌ(Vincennes)に配置した。
翌17日、カルノーはボナパルトに「あなたは何千もの計画が提案されているが、どれも次の計画より愚かだ。これほど素晴らしいことを成し遂げた男が、一般人として生きる決意をするなんて信じることはできない。しかし私はボナパルト将軍が再び素朴な市民になったときにのみ、ボナパルト将軍の偉大さをすべて示すことができると信じている。」
5人の総裁の中でイタリア方面軍の事情やボナパルトのことを最もよく知っているのはカルノーだった。
ボナパルトとカルノーは個人的に手紙のやり取りをする間柄であり、お互い友好的に思っていたためカルノーも率直な気持ちを伝えたのだろう。
恐らくこの書簡はカルノーがボナパルトの副官ラ・ヴァレッテと面会した時、ラ・ヴァレッテが「ボナパルト将軍は一般人として生きるつもりである」というような殊勝な態度を伝え、その返答として書いたものだろうと推測できる。
しかしボナパルトは一般人として生きるつもりは一切なく、この時すでにフランス共和国の首長となることを強く決意していた。
パリに到着したベルナドット将軍からの報告
8月21日、ベルナドットは2月にリヨンやシャンベリーを通過してイタリアに向かった時と比較して共和派は力を失い、王党派が勢力を伸ばしている気配を察知し、ボナパルトに書簡を送った。
そこには、「五百人評議会議長となったピシュグリュが王党派の期待を背負っていること」、「ピシュグリュは以前共和主義を捨てて王党派に鞍替えしたため政治基盤は薄く、原則よりも人を重視せざるを得ないこと」、「五百人評議会を警護する将軍の候補はクレベール将軍、ドゼー将軍、セリュリエ将軍の名が挙がっていること」、「現在のパリにはうんざりであり、ボナパルトの元に騎兵部隊を送ることができるよう総督であるバラスとルーベルと会うこと」が書かれていた。
その後、ベルナドットはバラスとルーベルと会い、その際バラスはクーデターの指揮を執って欲しいと伝えたが、ベルナドットはこれを断った。
オージュローにもクーデターの指揮を断られていたためバラスは途方に暮れたが、後にオージュローがクーデターの指揮を受け入れた。
ボナパルトはボナパルトでフランス政府に特に不足している胸甲騎兵を派遣するよう掛け合い、その後、ジョゼフィーヌとともにパッサリアーノ(Passariano)へ向かうためにミラノを旅立ち、24日までにパドヴァへ到着した。
ボナパルトがパッサリアーノへ向かったのは、前線をすぐに把握できる位置に居たかったためであり、ウディネに滞在しているメルヴェルト伯爵と和平交渉を行うためでもあった。
もしかしたら、ウィーンに迫ったあのナポレオン・ボナパルト将軍が前線に来たことをオーストリア軍に知らしめ、恐怖を思い起こさせるという理由もあったかもしれない。
パッサリアーノでの和平交渉

※ヴィラ・マニン
8月27日までにナポレオンとジョゼフィーヌはタリアメント川を渡ってパッサリアーノに到着し、最後のヴェネツィア総督ルドヴィゴ・マニンが所有していた別荘(Villa Manin)に滞在した。
8月末、ボナパルトとメルヴェルト伯爵はコドロイポから南東3㎞ほどのところに位置するパッサリアーノで会談を行なった。
この時メルヴェルト伯爵は、モンテベッロでの協議事項をオーストリアの外務大臣トゥーグトが反対したことを嘆いていたと言われている。
ボナパルトの目には、トゥーグトは交渉を引き延ばし、フランス内部で王党派の勢力が強まってからイゾンツォ川を越えてパルマノヴァ要塞を奪取することを意図しているとしか映っていなかった。
参考文献References
・Jacques Marquet de Norvins著「Geschichte des Kaisers Napoleon, Band 1」(1841)
・François Auguste Marie Alexis Mignet著「Geschichte der französischen Revolution: (1789 bis 1815)」(1848)
・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻
・その他
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