【第一次イタリア遠征】フランス内部の情勢とアントレーグ伯の華麗なる逃亡劇 
The splendid escape of the Count of Entreigs (1797)

アントレーグ伯の逮捕

※アントレーグ伯爵

 1797年、アントレーグ伯(Emmanuel Henri Louis Alexandre de Launay, comte d'Antraigues)はロシア大使の下で書記官として勤務していた。

 5月にフランス軍がヴェネツィアを占領したことによりロシア大使とともにトリエステに逃れることを余儀なくされた。

 5月21日夕方、ロシア大使アレクサンドル・シメオノヴィチ・モルドヴィノフ一行はサンクトペテルブルクに戻るためにパスポートにスタンプを押してもらおうとトリエステの役所を訪れた。

 しかしそこへ、フランス兵達が現れ、ロシア大使一行の馬車は取り囲まれて師団本部に連行された。

 ベルナドット将軍がモルドヴィノフ達の前に現れると対話が始まった。

「ロシア大使を自称しているのはあなたですか?」とベルナドットが質問すると、モルドヴィノフは「その通りです、閣下。私のパスポートが示しているように、国際法を無視して受けた屈辱的な扱いに対して声を大にして抗議します。」と返答した。

 ベルナドットは続けて「あなたはフランス共和国と敵対する勢力の大使ですが、状況に応じてあらゆる配慮を尽くします。しかし、あなたの同行者の中には我々の探している容疑者がいるはずです。同行されている方々の名前を教えていただけますか?」と質問した。

 モルドヴィノフは「顧問官と公使館の書記官、私の任務に携わる紳士、総領事と少佐が同行しています。」と答えた。

 ベルナドットはアントレーグ伯を連れてきて、「この人の名前を教えてください。」と指を差した。

 モルドヴィノフは「もし私が私の使命に関係する人物の名前を隠したとしたら、私は法廷の尊厳を損なうことになると思います。その人はローネー・ダントレーグ伯爵であり、私は国際法が公的使命を帯びるすべてのメンバーに(国際法上の権利を)保証する配慮を要求します。」と答えた。

 ベルナドットは「しかし閣下、それ(国際法上の権利)はアントレーグ伯には適用されません。彼は我々の敵ルイ18世の大使であると言われています。」と言ってアントレーグ伯の逮捕を宣言した。

「私は繰り返し抗議します。そして、このことを皇帝陛下に知らせる義務があります。」

 モルドヴィノフはそう言うと尋問は終わり、ロシア大使一行はアントレーグ伯を除いて釈放され、ベルナドットが用意した宿泊施設に案内された。

アントレーグ伯のミラノへの連行

 アントレーグ伯は逮捕直後、数時間後にミラノに向けて出発することを知った。

 モルドヴィノフに別れを告げることを許されたアントレーグ伯は、自分はロシア人であり、ロシア皇帝に忠実ですと言い、愛人アントワネット・サン=ユベルティ(Antoinette Saint-Huberty)と4歳の息子ジュール(Pierre-Antoine-Emmanuel-Jules)にロシア大使一行について行くよう促した。

 しかし愛人と子はそれを拒み、アントレーグ伯についていく道を選んだ。

 モルドヴィノフは「彼らはあなたと別れたくないのです。そしてあなたと運命を共にしたいのです。」と言い、アントレーグ伯を説得した。

 このことに感動したアントレーグ伯はアントワネットを妻にすることを宣言し、アントワネットはアントレーグ伯爵夫人となった。

 その後、ベルナドットはミラノへの連行に関して妻と子への個人的な配慮を約束した。

アントレーグ伯の尋問

 ボナパルトはアントレーグ伯をスフォルツェスコ城の独房に閉じ込め、アントレーグ伯の妻アントワネットと息子ジュールはミラノ市内に宿泊した。

 6月1日、ボナパルトはアントレーグ伯をモンテベッロの本部に連れてこさせて尋問し、押収した書類を調査した。

 その中に、当時五百人評議会議長であり将軍だったピシュグリュがモンガイヤール伯に対してフランスを裏切るよう誘導しようした内容の手紙を発見した。

 モンガイヤール伯がフランスを裏切ることは無かったが、この手紙の発見は王党派にとって致命的なものとなるだろうことが予想された。

国際的オペラ歌手「アントワネット・サン=ユベルティ」による脅迫返し

 アントレーグ伯はミラノに到着して以来スフォルツェスコ城の第10独房でぞんざいな扱いを受けていたが、何らかの取引をしたのか、6月4日にはスフォルツェスコ城の部屋が与えられ、6月7日には監視付きではあるが家族とともに豪華絢爛なアンドレオーリ侯爵の宮殿で生活する許可が下りた。

 アントレーグ伯爵夫人アントワネットは国際的オペラ歌手だったことを利用してジョゼフィーヌの知己を得、ジョゼフィーヌと手紙のやり取りを開始し、ジョゼフィーヌの邸宅に出入りする間柄となっていた。

 しかし6月24日、アントレーグ伯がフランス下院(五百人評議会)の王党派議員ボワシー・ダングラス(Boissy d'Anglas)宛てにボナパルト将軍を告発する書簡を送ったことが発覚し、その2日後の26日にボナパルトの元にその書簡が届けられた。

 その後、アントレーグ伯爵夫人が息子とともにジョゼフィーヌのところに来訪したのを見たボナパルトは、アントレーグ伯爵夫人に1787年3月9日にストラスブールで行なわれた作曲家ニッコロ・ピッチンニによる3幕構成の悲劇抒情詩「ディド(Didon)」の特別公演を見たことがあり、深く感動したことを伝えた後、「おそらく明日の6時にあなたのご主人は刑務所から釈放されるでしょう。そして私は彼を10発の銃弾を腹に受けた状態で11時にあなたのところへ送ります。」と告げた。

※アントワネットは夫の身の安全と釈放のために国際的なオペラ歌手という名声を利用してジョゼフィーヌに近づいたのだが、その際、ジョゼフィーヌがサン=ユベルティのファンだったからジョゼフィーヌの知己を得ることができたという説も存在する。

※1787年3月はナポレオンはオーソンヌに行く前の長期休暇でコルシカ島に帰省していた頃であるため、ストラスブールに行けたかは疑問である。もし本当に見たのであれば、休暇中に海を渡ってフランス北東部にまで行っていたことになる。ストラスブールはライン川のほとりに位置している。

※ディド(Didon)はフェニキアの都市国家カルタゴを建国したと伝えられている伝説上の女王の名前。今回の場合、ディドを題材とした演劇作品。

 このままでは夫が殺されると思ったアントワネットは幼い息子ジュールをボナパルトに向かって押し倒し、「彼を父親とともに連れて行ってもらえないでしょうか?彼はこの殺戮の場に向かうのに機が熟していないのでしょうか?」と言った。

 ジュールはボナパルトのブーツにしがみつき、泣き叫んだ。

 そしてアントワネットは「私については、私を射殺することをお勧めします。もしそれをしない場合、可能な限りどこまででもあなたを追いかけて暗殺するでしょう。」と続けた。

 ジュールの叫び声にジョゼフィーヌが駆け付け、隣の部屋に連れて行き、キスをして落ち着かせようとした。

 アントワネットはジョゼフィーヌに何が起こったのかを話し、ボナパルトに逆に脅迫の言葉を投げかけた。

 「ロベスピエールは死んだと言っていましたね。奥様、彼はここに復活しました。彼(ナポレオン)は私達の血を渇望している、それを流してくれるのは良いことです、なぜなら私はパリに行き、そこで正義を得るからです。」

 アントワネットが本当にパリに行くかどうかは別として、ボナパルトの怒りはすでに静まっていた。

 この時点でフランス議会は王党派が大多数の議席を獲得しており、アントワネットがもしパリに行った場合、何を言うかもわからず、ボナパルトとしてはこのタイミングでの面倒ごとは避けたかった。

 ボナパルトとしては王党派議員ピチュグリュの裏切りの証拠を手に入れており、アントレーグ伯はすでに用済みだった。

 そしてボナパルトはアントワネットを拘束し、アントレーグ伯一家の手紙をすべて検閲することを命じた。

 アントレーグ伯は7月中を警察の監視の下、半監禁状態で過ごし、通信手段を失ったことで状況を悪化させることとなったが、アントレーグ伯も妻アントワネットも全く諦めていなかった。

 その後、アントレーグ伯は自分の部屋に閉じこもり、家族以外に気付かれないようひげを伸ばし始めた。

バラスからの要請

 1797年3月~4月に行われた3回目の評議員選挙では、王党派が多数の議席を獲得し、最大勢力となり、総裁の1人をバルテルミーに交代させる事態となっていた。

 そのため総裁政府は共和派(バラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエールの3総裁)と王党派(バルテルミー)の対立の構図ができつつあった。

 もう1人の総裁であるカルノーは共和派であるがフランスを1つにまとめるために穏健派として王党派との和解を模索しており、王党派寄りの立場にあった。

 この時、バラスはオッシュ将軍率いるサンブル・エ・ムーズ軍の一部である歩兵約6,000人、騎兵約3,000騎をアイルランド遠征のためと偽りパリに呼び寄せていた。

 イタリア方面作戦についても意見が分かれており、共和派の総裁達はオーストリアに対する戦争を直ちに再開するべきであり、交渉を長引かせることは許されないという意見だったが、穏健派カルノーと王党派バルテルミーはこれに反対していた。

 フランス革命を経てもフランスに残った王党派議員達は、法の下での王制の復活(立憲君主制)を目指しており民衆に人気があり、前回の選挙で大多数の議席を獲得していたため、ボナパルトがオーストリアへ先制攻撃を行うことは難しい状況となっていた。

 しかし軍内では共和派の方が人気があり、快進撃を続け宿敵オーストリア帝国を下したイタリア方面軍総司令官ナポレオン・ボナパルト将軍とその麾下の将軍達は民衆に絶大な人気を誇っていた。

 そのためバラスはボナパルトに共和派を支援するためのイタリア方面軍の主要な将軍が書いた嘆願書の提出を要請した。

 ボナパルトはバラスの要請に応じ、オージェロー、マッセナ、セリュリエ、ジュベール、ベルナドットなど各将軍に嘆願書の提出を求めた。

 オージュロー、マッセナ、セリュリエ、ジュベール将軍は求めに応じて嘆願書を提出したが、ベルナドット将軍は「このような事は法律に違反しており、秩序に反します。方面軍司令官にはこのような命令を出す権限はないでしょう。」と嘆願書の提出を拒んだ。

 これに対してボナパルトは「共和国の敵はパリの外にもいると見做されるだろう。」と言ってベルナドットを脅迫した。

 そのためベルナドットはしぶしぶ嘆願書を書いて直接フランス政府に送り、ボナパルトにはその写しを送った。

オッシュの解任とクーデター計画の頓挫

 軍の圧力が議会にも及んでいたことを憂慮した総裁の1人であるカルノーは「軍が憲法上の境界を越えている」とオッシュ将軍を非難した。

 バラスはオッシュとともにクーデターを実行しようとしていたが、この時、議会でオッシュを擁護せず、その結果、オッシュは戦争大臣を解任され、クーデター計画は袋小路に入ったかに見えた。

 共和派の議員たちはバラスが日和見を決め込んだことで不信感を募らせた。

オージュロー将軍のパリへの派遣

 1797年7月27日、オージュローがパリに赴くこととなったため、ボナパルトはこの機会を利用してベルナドット以外の各将軍の書いた嘆願書の原本を持たせて送り出した。

 恐らくこの時にアントレーグ伯から押収した「五百人評議会議長ピシュグリュの裏切りの手紙」もオージュローに持たせたのだろうと考えられる。

 「オージュロー将軍のパリでの用事」とは「五百人評議会議長ピシュグリュの裏切りの手紙をバラスの元に届けること」だった可能性がある。

 バラスはこのとき既に水面下で策動しており、クーデターにより王党派を引きずり下ろすことを視野に入れ、着々と準備を進めていた。

 しかしボナパルトの副官であるラ・ヴァレッテ将軍もパリに派遣されており、オージュローは共和派の3人の総裁と、ラ・ヴァレッテは穏健派の総裁カルノーと会っており、どちらの派閥が勝利したとしてもイタリア方面軍や支配下にある姉妹共和国に影響が無いように計らっていた。

ベルナドット将軍のパリへの派遣

 そのような情勢の中、ベルナドット将軍がパリへ派遣されることが決定された。

 表向きの理由は「リヴォリの戦い後に21本の旗をオージュロー将軍に持たせて送ったが、実際送ったのは15本~16本であり、ペスキエーラ要塞に保管されている残りをベルナドット将軍に持たせて送ること」だった。

 ベルナドット将軍は7月30日にウディネを発ち、ミラノに立ち寄ってボナパルトと会い、その後、トリノ、シャンベリー、リヨンを経由して8月20日までにパリに到着した。

 ベルナドットがミラノでボナパルトと会った際、ベルナドットとともにライン川からイタリアに来た師団の指揮を再び任せることを約束したと言われている。

 オージュロー将軍が再びパリに戻ることが決定された時の表向きの理由は「オージュロー将軍がパリに用事があるため」であり、今回のベルナドット将軍をパリに派遣する表向き理由は「忘れ去られていたリヴォリの戦い時に奪った残りのオーストリア軍旗をパリに送るため」であり、オーストリア軍が活発になりつつあるこの時期にそのような理由で師団長を2人もパリに送るのはあからさまだった。

 恐らくバラスがクーデターの指揮官となってもらうために人気のあるベルナドット将軍を名指ししてパリに派遣するよう要請したか、ボナパルトの消去法的な人選で決められたのではないだろうか。

 以前、ベルナドットはボナパルトにパリに帰還したい旨を伝えたことが一因の可能性もある。

 そしてベルナドットはミラノでボナパルトから「イタリア方面軍に騎兵の増援を送ってもらえるよう根回しすること」、「パリやフランス内部の様子を報告すること」を求められたのだろう。

チロル方面でのオーストリア軍の不穏な動き

 8月に入り、ボナパルトの元へオーストリア軍がガルダ湖で軍船を大幅に増加させているという報告があった。

 フリウーリ州の周辺だけでなくチロル州においてもオーストリア軍は活発に活動し、フランス軍に対抗するような姿勢を見せていた。

 8月4日、ボナパルトはアンドレオシー工兵将軍にペスキエーラ海軍の現在の戦力について報告するよう求めた。

 8月9日、ボナパルトはベルナドット師団の指揮をフリアン(Louis Friant)少将に代行させ、ベルナドット師団をヴィクトール将軍指揮下に置いた。

パリのオージュロー将軍からの報告

 バラスは8月8日にオージュローを第17師団(首都防衛と治安維持を任務とした軍)の司令官に任命し、8月10日にクーデターの指揮を依頼した。

 しかしオージュローは恐らく政治的な不確実性から、第17師団司令官に任命されたにもかかわらず、まだ準備ができていないと断った。

 この時、共和派の3総裁は自分たちがいつ断頭台に送られるのか怯えており、ルーベルなどはパリを離れたいと常に思っていた。

 オージュローはイタリアに戻りたいと語っており、バラスとラ・レヴェリエールはオージュローがイタリアに帰るのを思いとどまらせ、安心させるよう務めたと言われている。

 8月15日、フランス政府はレオーベン条約を受け入れることを決定した。

 しかし、この時点でボナパルトはオーストリアがイタリアに対するより有利な提案を主張するだろうと予想していた。

 8月16日、オージュローはパリからボナパルトに報告書を送った。

 そこには「ヘッセン=カッセル方伯が甥に対して皇帝は講和しないと書いていること」、「パリが2つの派閥に分断され、王党派が勢力を増していることが理由であること」が書かれていた。

 この書簡の到来によりオーストリア軍は戦争を再開しようとしているという仮説が補強された。

 もしこのまま王党派が政権を牛耳った場合、フランスには再び内戦が訪れるだろうと考えられ、もし内戦となった場合、築き上げた姉妹共和国の行方も危ういものになると考えられた。

 ボナパルトとしてはオーストリア軍をおとなしくさせ、レオーベン条約を批准させるために内戦を避ける必要があった。

 そのためバラスの要請に応じて共和派に力を貸したのである。

 この時バラスはイタリア方面軍だけでなく、サンブル・エ・ムーズ軍からもオッシュ将軍と麾下の師団を呼び寄せていたがオッシュ将軍は王党派の非難をバラスが擁護しなかったために議会を追放され、8月10日までにはサンブル・エ・ムーズ軍に戻っており、オッシュ将軍の軍の指揮はリシュパンス(Antoine Richepanse)将軍に委ねられていた。

 その後、リシュパンス将軍は師団をベルサイユ(Versailles)、ムードン(Meudon)、ヴァンセンヌ(Vincennes)に配置した。

 翌17日、カルノーはボナパルトに「あなたは何千もの計画が提案されているが、どれも次の計画より愚かだ。これほど素晴らしいことを成し遂げた男が、一般人として生きる決意をするなんて信じることはできない。しかし私はボナパルト将軍が再び素朴な市民になったときにのみ、ボナパルト将軍の偉大さをすべて示すことができると信じている。」

 5人の総裁の中でイタリア方面軍の事情やボナパルトのことを最もよく知っているのはカルノーだった。

 ボナパルトとカルノーは個人的に手紙のやり取りをする間柄であり、お互い友好的に思っていたためカルノーも率直な気持ちを伝えたのだろう。

 恐らくこの書簡はカルノーがボナパルトの副官ラ・ヴァレッテと面会した時、ラ・ヴァレッテが「ボナパルト将軍は一般人として生きるつもりである」というような殊勝な態度を伝え、その返答として書いたものだろうと推測できる。

 しかしボナパルトは一般人として生きるつもりは一切なく、この時すでにフランス共和国の首長となることを強く決意していた。

パリに到着したベルナドット将軍からの報告

 8月21日、ベルナドットは2月にリヨンやシャンベリーを通過してイタリアに向かった時と比較して共和派は力を失い、王党派が勢力を伸ばしている気配を察知し、ボナパルトに書簡を送った。

 そこには、「五百人評議会議長となったピシュグリュが王党派の期待を背負っていること」、「ピシュグリュは以前共和主義を捨てて王党派に鞍替えしたため政治基盤は薄く、原則よりも人を重視せざるを得ないこと」、「五百人評議会を警護する将軍の候補はクレベール将軍、ドゼー将軍、セリュリエ将軍の名が挙がっていること」、「現在のパリにはうんざりであり、ボナパルトの元に騎兵部隊を送ることができるよう総督であるバラスとルーベルと会うこと」が書かれていた。

 その後、ベルナドットはバラスとルーベルと会い、その際バラスはクーデターの指揮を執って欲しいと伝えたが、ベルナドットはこれを断った。

 オージュローにもクーデターの指揮を断られていたためバラスは途方に暮れたが、後にオージュローがクーデターの指揮を受け入れた。

 ボナパルトはボナパルトでフランス政府に特に不足している胸甲騎兵を派遣するよう掛け合い、その後、パッサリアーノ(Passariano)へ向かうためにミラノを旅立ち、24日までにパドヴァへ到着した。

 ボナパルトがパッサリアーノへ向かったのは、前線をすぐに把握できる位置に居たかったためであり、ウディネに滞在しているメルヴェルト伯爵と和平交渉を行うためでもあった。

 もしかしたら、ウィーンに迫ったあのナポレオン・ボナパルト将軍が前線に来たことをオーストリア軍に知らしめ、恐怖を思い起こさせるという理由もあったかもしれない。

パッサリアーノでの和平交渉

※ヴィラ・マニン

 8月27日までにナポレオンはタリアメント川を渡ってパッサリアーノに到着し、最後のヴェネツィア総督ルドヴィゴ・マニンが所有していた別荘(Villa Manin)に滞在した。

 8月末、ボナパルトとメルヴェルト伯爵はコドロイポから南東3㎞ほどのところに位置するパッサリアーノで会談を行なった。

 この時メルヴェルト伯爵は、モンテベッロでの協議事項をオーストリアの外務大臣トゥーグトが反対したことを嘆いていたと言われている。

 ボナパルトの目には、トゥーグトは交渉を引き延ばし、フランス内部で王党派の勢力が強まってからイゾンツォ川を越えてパルマノヴァ要塞を奪取することを意図しているとしか映っていなかった。

アントレーグ伯のミラノからの脱出劇

 8月29日の夜、アントレーグ伯は自分の部屋に閉じこもり、妻サン=ユベルティは女優としての過去の経験を活かして夫を変装させ、アントレーグ伯だと気付かれないようにした。

 アントレーグ伯は神父の平服であるカソックを着て、神父のようなかつらを被り、鼻には眼鏡を掛け、長いひげを生やし、顔を煤茶色に汚し、恐怖をにじませながら家族に別れを告げた。

 翌30日朝4時、アンドレオーリ侯爵の宮殿から誰にも気づかれないように出て、小さな庭のドアの前でアントレーグ伯の監視及び護衛をしていた警備兵の前を通り過ぎ、案内人が乗る馬車に乗った。

 警備兵は変装したアントレーグ伯を気付くことも見ることもなかった。

 しかしミラノの門は朝5時に開くため、その時間まで気付かれないように時間を過ごす必要があった。

 すると案内人が「朝の4時にミラノのサン・チェルソ(San Celso)という教会が開かれ、夜明けにそこでミサが捧げられる」ことを教えてくれた。

 その教会の告解室(信者が懺悔をして神の許しを得る部屋)で時間を潰し、教会の裏口で合流する計画だった。

 しかし教会に到着したものの告解室はまだ閉ざされており、開くのを待つ間、教会入り口のベンチに座って疑われないように顔を広場に向け、同時に緑色の眼鏡を鼻にかけ、ポケットから聖務日課を取り出し、非常に注意深く祈り始めた。

 アントレーグ伯は37分待つと告解室のドアが開き、そこへ駆け込んだ。

 その後、教会の裏手に案内人を見つけ、馬車に乗り込んだ。

 ミラノから北に40㎞ほどのところに位置するコモ(Como)でも、コモから50㎞ほどのところに位置するスイスのベッリンツォーナ(Bellinzona)でも追われることなく、脱出を成功させた。

 アントレーグ伯の脱出は誰にも気づかれることは無く、その後、妻と子との合流地点であるインスブルックへ向かった。

アントレーグ伯爵夫人アントワネットと息子ジュールのミラノからの脱出劇

 アントワネットは、アントレーグ伯を見かけないことを不審に思われないように、夫が病気で数日間姿を現せないと周囲に話していた。

 逃亡前日の朝(8月31日~9月3日の間のある朝)、警備兵に翌日にボナパルト夫人を訪問することを伝え、キルメイン将軍にはトリエステに行ってお金を取りに行くためという理由でパスポートを求めた。

 そして(トリエステに行くためと偽って)息子ジュールをミラノ郊外にいる元乳母の家に預けた。

 ジュールはその後、コモから15㎞ほど北西に位置するメンドリシオ(Mendrisio)を経由してインスブルックに送られる計画だった。

 翌日、アントワネットはボナパルト夫人の元に行くと言って外出した後、農民の格好に変装し、手にハーブの入ったバスケットを持ってミラノを去った。

 その数日後、ミラノからバラバラに逃亡したアントレーグ一家はインスブルックで再開することができた。

 この逃亡劇はオペラ歌手だったアントワネットの能力を存分に活かしたものであり、それが一家に救いをもたらした。

 そして9月4日、アントレーグ伯爵一家がミラノから逃亡したことが発覚した。

 この時、アントワネット40歳、アントレーグ伯43歳だった。

参考文献References

・Jacques Marquet de Norvins著「Geschichte des Kaisers Napoleon, Band 1」(1841)

・François Auguste Marie Alexis Mignet著「Geschichte der französischen Revolution: (1789 bis 1815)」(1848)

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Léonce Pingaud著「Un agent secret sous la Révolution et l'Empire: le comte d'Antraigues」

・その他