サオルジォの戦い 07 サオルジオの戦い 終盤 Battle of Saorgio 07


サオルジオの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 約20,000人 約1,500人
サルディーニャ王国
オーストリア
約8,000人 約2,800人
※この数字には、セルヴォニの部隊、ムーレット師団、アルジャントー旅団、オネリア守備隊は含まれていない。あくまでサオルジォ近郊で戦った部隊の数字である。

サオルジォの戦い(終盤 01)Battle of Saorgio

 マッセナはマルタで抵抗を続けているピエモンテ部隊が徐々に後退していることに気付くと、すぐにピジョン大佐の部隊を送りピエモンテ部隊を追跡させた。マッセナは旧ブルスレ部隊を立て直すとハンメルをマルタ周辺の防衛のために残し、ピジョン大佐の支援に向かった。

 ベルガルド少将は未だアルデンテとサッカレロの拠点を維持していた。

 ピジョンは戦闘を行いながらピエモンテの部隊を追い、リネール方面に前進した。ピエモンテの部隊は負けつつあったため疲れ果てていた。

 マッセナはピジョンの部隊と合流し、リネールに駐留した。

 マッカードはサオルジォを攻撃したが、大砲が無かったため攻略できなかった。ピエモンテ軍ヴィターレ少将は後方の橋を破壊されることを警戒して後退を始めた。

 マッセナはロイヤ川の向こう側の状況が分からなかったが、デュメルビオンに報告を送った。マッセナの部隊はピエモンテ軍のただ中にあり、兵力も少なかった。そのためマッセナはピエモンテ軍にマッセナ軍の実情を知られることを恐れていた。この日の戦いは終わり、夜を迎えることになる。

作戦図④・・・サオルジォの戦い(終盤 01)

 ここでマッセナはサン・ダルマスにあるタンドに続く橋を破壊し、修道院の前の小丘に2個大隊を配置したと主張しているが、深夜には橋を落とされることを警戒してピエモンテのヴィターレ軍が撤退をしている。もし橋を破壊していてその後ヴィターレが後退したのであれば、マッカード軍と対峙していたヴィターレ軍とヴィターレ軍後方のサン・ダルマス付近の高台にいたマッセナ軍はかち合うはずである。ところがかち合っていない。そして、橋を破壊したことによるピエモンテ軍の撤退遅延も起こっていないのである。

 そのため、マッセナは橋を破壊しなかったか、もしくは、ヴィターレの撤退に気付かずにヴィターレ撤退後に橋を破壊したと考えられる。どちらにせよ、27日の時点で橋は破壊されていないと見るべきだろう。



サオルジォの戦い(終盤 02)Battle of Saorgio

 コッリは夜の内に戦線の後退を完了させていた。コッリはタンドまで後退し、右翼のデレラ中将およびプロベラ少将、中央のヴィターレ少将もそれに合わせ後退していた。ピエモンテ軍左翼では、ベルガルド少将がようやくアルベルトとサッカレロの拠点を手放し、ウペガ、カルニーノの付近まで雪と断崖の中を2日間後退し続けた。

 1794年4月28日未明、マッセナはレブルンとハンメルにリネールに向かいマッセナと合流するように繰り返し命令を送り、フランソワには部隊を結集し、ピエモンテ軍が撤収した拠点を占領するように命令した。

 マッセナは部隊が結集する前にリネールから出撃し、これまでの戦いで消耗している4個大隊でラ・ブリガの高地を攻撃した。

 ピエモンテ軍ラディカティ少将は、ピエモンテ旅団とオーストリアの大隊を率いラ・ブリガを防衛していた。ラディカティは勇敢に戦ったが、午前4時頃に戦死。部隊は浮足立ち撤退した。マッセナはサン・ダルマス修道院前の高台に駐留した。

 ラディカティ少将の奮闘により、ピエモンテ軍はタンドまで後退する時間を得ることができた。

 フランソワはアルデンテ山の拠点を占領し、メンダーリカとロッカ・バルボナの部隊を結集させることは困難だった。ハンメルに関しては、マルタの尾根のピエモンテ軍残存部隊の抵抗に合い、足止めされていた。

作戦図⑤・・・サオルジォの戦い(終盤 02)

 夜明け頃、サオルジォに誰もいないことを見たレブルンは、偵察を派遣した。サオルジォは放棄されたとマッセナは報告を受けた。

 レブルンの偵察がサオルジォに入ったとき、そこには何も無かった。ギアンドラからサオルジォまでの道にロイヤ川に掛けられた橋があるが、それが破壊されていたため、橋の復旧により、ギアンドラの本部がサオルジォに入るまで約5時間を要した。

 マッカードとマッセナはタンドをどちらが先に占領できるか競争した。

 コッリはさらにタンドからリモーネに後退した。

 この時点で勝敗は完全に決した。ピエモンテ軍は攻勢に出る余力も無く、フランス軍もこの時点ではこれ以上の攻勢は難しかった。フランス軍はタンドを中心として防衛線を構築し、ピエモンテ軍はリモーネを中心として防衛線を構築することとなる。

 コッリがいつの時点でタンド以北への撤退を決断したかであるが、恐らくマルタが突破されたことによる27日の後退命令の時点だろうと考えられる。というのは、ヴィターレもすでに後方の橋を落とされることを警戒して撤退準備をしていること、そしてこの日の戦闘が終わってから状況を考えて各部隊にさらなる後退命令を飛ばすのでは遅いからである。



その後  After

 ピエモンテのアルプス山脈の防衛線は大きく後退した。この敗戦はピエモンテとオーストリアに大きな衝撃を与え、ピエモンテはアルプスの防衛を、オーストリアは海岸の防衛を担当するという新たな条約を5月23日に締結するにまで至った。

 1794年5月21日、ナポレオンはこの勝利を利用する新たな作戦案を提案し、採用された。

 その作戦案とは、まずアルプス方面軍がアルジャンティ―ラ峠付近にあるピエモンテの強固な防衛線を攻撃、タンド峠を担当するイタリア方面軍の師団がピエモンテ軍を攻撃する。

 そしてイタリア方面軍のモンドヴィ攻略部隊が迂回機動を行いオルメア、ガレッシオから出撃し、カルカレとデゴのオーストリア軍を排除してオーストリア-ピエモンテ間の連絡線を遮断して肥沃な平原が広がるモンドヴィへ進軍。45,000人のピエモンテ軍を打ち破り、イタリア方面軍の食料、物資の不足を解消する。

 モンドヴィを占領することによりピエモンテ軍の後背を突き、アルジャンティ―ラ峠、タンド峠の防衛線から後退させるというアルプス方面軍とイタリア方面軍を同時に動かし連携させるという大規模なものであった。

 1794年時点でナポレオンはすでに1796年に行われるモンテノッテ戦役におけるイタリア方面軍の基本戦略を構築していたのである。

 この作戦案を実行するべくアルプス方面軍とイタリア方面軍の総司令官による会議がコルマール(Colmars)行われたが、そこでどちらの軍の総司令官が主導するのか(2つの軍の総司令官となるのか)で合意に至らず計画は前進する気配を見せなかった。

 そして同時期にライン方面で敗北が続いており、その反攻作戦のためにアルプス方面軍はライン方面に約10,000人の兵力を派遣しなければならず、ナポレオンの侵攻計画は無期限延期となった。

 こうしてイタリア方面軍の大きな動きは停止され、1794年6月26日、ライン戦線はジュールダン将軍に率いられ約82,000人がフリューラス(Fleurus)でオーストリアを主軸とした同盟軍と戦うこととなる。