【完全解剖】ナポレオンの栄光と没落に関わったテュイルリーの赤い男の伝説 

ナポレオンの伝説には「テュイルリーの赤い男(L'homme rouge)」との物語が残されています。

「赤い男」はテュイルリー宮殿の住人となった人物に何か重大な出来事が起こりそうな時にテュイルリー宮殿に現れると言われており、1542年にカトリーヌ・ド・メディシスの前に初めて現た後、ブルボン朝フランス初代国王アンリ4世や太陽王ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュ、フランス王妃マリー・アントワネットなども「赤い男」を目撃し、1871年5月のパリ・コミューンでテュイルリー宮殿が全焼したときに消えたと語り継がれています。

テュイルリー宮殿の主人だったナポレオンは目撃しただけでなく、その「赤い男」と大きく関わっていたと言われています。

そして「テュイルリーの赤い男」の正体はサン・ジェルマン伯爵だったとも噂されています。

それでは真実を探るために「赤い男」の伝説を紐解いていきましょう。

「テュイルリーの赤い男」伝説の始まり

左:カトリーヌ・ド・メディシス、右:コジモ・ルッジェーリ

※左:「フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスの肖像」。16世紀。ジェルマン・ル・マニエ(Germain Le Mannier)画。右:「ショーモン・シュル・ロワール城のコム・ルッジェーリ」。17世紀。作者不明。

カトリーヌ・ド・メディシスは、1559年と翌年の1560年に夫アンリ2世と長男フランソワ2世を亡くし、まだ10歳の新国王シャルル9世が成人するまでの間、摂政を務めることになりました。

1563年、カトリーヌ・ド・メディシスはセーヌ川のほとりにあるタイル工場として使用されている小さな城を含む周辺一帯を更地にし、新たな宮殿を建設することを命じました。

更地にする予定のテュイルリー地区には骨抜き肉屋ジャン・レコルシュール(Jean l'Ecorcheur)が所有する食肉処理場もありました。

伝説によると、ジャン・レコルシュールは王侯貴族の手先に対して遺体を消すなどのサービスを提供していたと言われています。

ジャン・レコルシュールは、店を辞めて立ち退くために提示された金額を「少なすぎる」と言って拒否し、立ち退きの補償金を大幅に増額しなければ秘密を暴露すると脅しました。

カトリーヌ・ド・メディシスはジャン・レコルシュールの口を封じるために騎士ヌーヴィル(Neuville)を派遣しました。

ヌーヴィルはジャン・レコルシュールの殺害に成功しましたが、その後、血まみれのジャン・レコルシュールの姿に悩まされるようになります。

占星術に傾倒していたカトリーヌ・ド・メディシスは、お抱えの占星術師の1人であるコジモ・ルッジェーリにこのことを相談しました。

※カトリーヌ・ド・メディシスが重用していた占星術師は他にもルーカ・ガウリコ、ミシェル・ノストラダムスなどがいます。

コジモ・ルッジェーリは「間もなく幽霊の訪問を受けるだろうこと」、「"サン・ジェルマン"は女王の死を見ることになること」、「そしてこの犯罪がヴァロワ朝の終焉をもたらすこと」との3つ予言を伝えました。

"サン・ジェルマン"が何を指すのかわかりませんでしたが、予言通りに幽霊が来訪したことに恐怖したカトリーヌ・ド・メディシスは"サン・ジェルマン"と呼ばれるものを周囲から排除するよう行動に移しました。

その中の1つに建設中のテュイルリー宮殿も含まれていました。

テュイルリー宮殿はサン・ジェルマン・ロクセロワ教区にあり、近くにサン・ジェルマン・デ・プレ修道院もありました。

そのためカトリーヌ・ド・メディシスは、占星術師の予言する滅亡の運命を避けるためにパリを離れ、ブロワに移りました。

しかし、1589年1月5日、死期を察したカトリーヌ・ド・メディシスは枕元に司祭を呼びました。

そして、治療を施しに来た司祭がジュリアン・ド・サン・ジェルマンと呼ばれていることを知ると、カトリーヌ・ド・メディシスはジョン・レコルシュールの呪いから逃れることはできないことを悟りました。

カトリーヌ・ド・メディシスの死後、息子達は後継者を持たずに相次いで亡くなり、「ヴァロワ朝の終焉をもたらす」という予言も的中し、その後、ブルボン家がフランスを統治していくこととなります。

ブルボン朝初代国王との伝説

左:「帯に白い旗と聖霊騎士団の十字架を身に着けたアンリ4世の肖像画」。17世紀。フランス・プルビュス (子)(Frans Pourbus de Jongere)画。右:「ラ・ロシェルの海岸沿いのリシュリュー卿」。1881年。アンリ=ポール・モット(Henri-Paul Motte)画

※左:「帯に白い旗と聖霊騎士団の十字架を身に着けたアンリ4世の肖像画」。17世紀。フランス・プルビュス (子)(Frans Pourbus de Jongere)画。右:「ラ・ロシェルの海岸沿いのリシュリュー卿」。1881年。アンリ=ポール・モット(Henri-Paul Motte)画

ヴァロワ朝を滅ぼした「テュイルリーの赤い男」はその後、建設中のテュイルリー宮殿とルーブル宮殿(現ルーブル美術館)を繋げたブルボン朝初代国王アンリ4世がフランソワ・ラヴァイヤックに暗殺される前夜に現れたと言われています。

※暗殺日は1610年5月13日です。

調査したところ、具体的な伝説の内容は不明であり、暗殺される前夜にアンリ4世が目撃したことのみが伝わっているようです。

アンリ4世は後に枢機卿となるリシュリューを重用しており、そして枢機卿となったリシュリューは戦場でも枢機卿のみ纏うことを許された赤のローブを纏っていたと言われています。

そのためアンリ4世を暗殺したラヴァイヤックの背後には当時25歳だったリシュリュー卿がいたのではないかという後世の噂と「テュイルリーの赤い男」の伝説が重ね合わされた可能性があります。

ラヴァイヤックは取り調べで頑なに単独犯であると主張したと言われているため、逆に背後に何者かがいることを想像させるのでしょう。

太陽王ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュとの伝説

左:「アンヌ・ドートリッシュの肖像画」。17世紀。アンリ・ボーブルン(Henri Beaubrun)画。右:「ジュール・マザラン枢機卿の肖像画」。17世紀。フィリップ・ド・シャンパーニュ(Philippe de Champaigne)画。

※左:「アンヌ・ドートリッシュの肖像画」。17世紀。アンリ・ボーブルン(Henri Beaubrun)画。右:「ジュール・マザラン枢機卿の肖像画」。17世紀。フィリップ・ド・シャンパーニュ(Philippe de Champaigne)画。

「テュイルリーの赤い男」はアンリ4世の元に現れた後、しばらく鳴りを潜めていましたが、太陽王ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュの前に姿を現したと言われています。

1642年12月5日、リシュリューの死後、アンヌ・ドートリッシュは太陽王ルイ14世の家庭教師でありリシュリュー卿の腹心であるマザラン枢機卿(Cardinal Mazarin)をリシュリュー卿の後継者に任命し、自身の政治的権力を強化しました。

1648年8月、マザラン卿が高等法院のメンバーを逮捕したことをきっかけに、当初は民衆と法服貴族(官職購入によって貴族身分に叙せられた平民出身者)が蜂起し、パリが包囲されました。

1649年1月、幼いルイ14世と母アンヌ、そしてマザランはパリから離れ、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難しました。

これがフロンドの乱です。

このフロンドの乱が起こる数日前にアンヌ・ドートリッシュはテュイルリーの赤い男を目撃したと言われています。

フロンドの乱が起こったのは宰相であるマザラン枢機卿の政策が原因であり、マザラン卿も枢機卿の"赤のローブ"を身に纏っていたため、マザラン枢機卿に関する噂と「テュイルリーの赤い男」の伝説が重ね合わされたのではないかと考えられます。

「テュイルリーの赤い男」とマリー・アントワネットとの伝説

左:「バラを持つマリー・アントワネット」。1783年。エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(Élisabeth Louise Vigée Le Brun)画。右:「	ルイ・ルネ・エドゥアール、ド・ローアン枢機卿の肖像」。18世紀。作者不明。

※左:「バラを持つマリー・アントワネット」。1783年。エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(Élisabeth Louise Vigée Le Brun)画。右:「 ルイ・ルネ・エドゥアール、ド・ローアン枢機卿の肖像」。18世紀。作者不明。

「テュイルリーの赤い男」は1792年8月10日の数日前に再び姿を現しました。

1792年8月10日は、民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃してルイ16世やマリー・アントワネットら国王一家を捕らえ、タンプル塔に幽閉した"テュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日事件)"の起こった日です。

この数日前の夜、マリー・アントワネットは赤い男を目撃したと言われています。

マリー・アントワネットの侍女であるカンパン夫人(Mme Campan (Jeanne-Louise-Henriette))の回想録には、「テュイルリー宮殿襲撃事件の数日前のある晩、シーツのように白いドレスを着た王妃が、赤い服を着た貴族の小男を見た」と書かれているというのがマリー・アントワネットと「テュイルリーの赤い男」の伝説の発端のようです。

そこでカンパン夫人の回想録を確認しましたが、私の探しようが悪かったためか、そのような記述は発見できませんでした。

"テュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日事件)"が起こった日の朝、マリー・アントワネットは赤い男を目撃したという伝説もありますが、原典を発見することはできませんでした。

そして"テュイルリー宮殿襲撃事件(8月10日事件)"の数日前、マリー・アントワネットの侍女たちが衛兵の間にいるとき、頭からかかとまで真っ赤な服を着た小柄な男が不気味な目で侍女たちを見たという伝説もあるようですが、こちらも原典を発見することはできませんでした。

実はマリー・アントワネットの不倶戴天の敵の1人があの有名な”女王の首飾り事件”の主要人物であるルイ=レネ・ド・ローアン(Louis-René de Rohan)枢機卿であり、ローアン枢機卿も例に漏れず"赤のローブ"を身に纏っていました。

女王の首飾り事件の裁判で敗北したマリー・アントワネットは世間でのイメージが悪化し、オペラ鑑賞中に口笛を吹かれてからかわれたこともあり、その後、公の場に姿を現すことは無くなったと言われています。

加えてマリー・アントワネットがギロチンにかけられた時の死刑執行長シャルル=アンリ・サンソンは執行長の象徴である赤のコートを身に着けていました。

マリー・アントワネットの没落の大きなきっかけを作ったのは赤のローブを身に纏うローアン枢機卿であり、マリー・アントワネットの処刑に立ち会った死刑執行長は赤のコートを身に着けていたため、民衆は「テュイルリーの赤い男」の伝説と重ね合わせてこのような伝説を作り上げたのではないかと考えられます。

1814年3月31日のパリ陥落時のナポレオンと赤い男の伝説

ナポレオンと赤い男

※「赤い男」。フランス戦役でパリが陥落する前の1814年1月に赤い男がナポレオンの元に訪れ、4月1日に契約が終了することを告げた場面を描いた漫画。

先月(1814年3月)初め以来、パリの多くの団体で「赤い男」の素晴らしい物語が語られてきました。

ここに、すべての詳細といくつかのバリエーションを示します。

赤い男は、ピラミッドの戦いの前夜(1798年7月20日夜)、エジプトで当時将軍だったナポレオンの前に初めて現れました。

数人の護衛に追われて、彼がこれらの古代遺跡の一つを通り過ぎていたとき、赤いマントをまとった男がピラミッドから出てきて、彼に(馬から)降りてついて来るように合図しました。

※1798年7月20日夜、ナポレオンはカイロの北西25㎞ほどの所に位置するオム・ディナール(Umm Dinar)にいました。オム・ディナール周辺にピラミッドはありません。

ブオナパルトは躊躇しませんでした。

彼らは一緒にピラミッドの内部に入りました。

すでに1時間以上が経過し、将軍の随行員たちはこの長い不在を心配しながら遺跡に入ろうと準備していたが、そのとき将軍が満足そうな様子で一人で出てきました。

この会合の前に、彼は戦闘を行なうことを拒否しました。

彼はすぐに準備を命じ、翌日にはピラミッドで勝利を収めました。

強い心を持つ人は、これらの詳細に間違いなく微笑むでしょう。

しかし、他の者たちはすでに、赤い男が地獄の使者に他ならないことを垣間見ており、勝者はその使者と契約を結び、強力な保護を保証されていました。

10年が経過し、確かにナポレオンにとってすべてが順調に進んでいましたが、契約は終わりに近づいていました。

そしてヴァグラムの戦いの数日前にナポレオンとの契約は終了しました。

※ヴァグラムの戦いは1809年7月5日~7月6日にかけて行なわれています。

しかし、赤い男は弟子の強い要望に屈し、5年間の新たな契約を彼と締結することにしました。

この素晴らしい物語の語り手に対して、過去2年間、赤い男は約束をあまりうまく果たせなかったという異論があるかもしれません。

しかし、契約をきちんと履行している人が、契約の終了に近づくにつれて期限を緩めるケースはよく見られることです。

それに、実際のところ、悪魔的な冒険となると、それほど注意深く見るべきではないのです。

いずれにせよ、すでに過ぎ去った(1814年)4月1日は、この新しい契約が失効した運命の日でした。

さて、(1814年)1月下旬、ナポレオンの出発の数日前、赤毛の男は、契約者に警告するのに非常に時間厳守だったようであり、テュイルリー宮殿に現れ、皇帝と話をしたいと申し出ました。

※フランス戦役においてナポレオンがパリを離れたのは1814年1月25日です。1月28日と1月29日、ナポレオンはサン・ディジエ(Saint-Dizier)にいました。そして1月30日、ナポレオンはオーブ県のブリエンヌ・ル・シャトーに到着し、2月1日にはラ・ロティエール(La Rothière)の戦いで敗北しています。

歩哨は彼が通るのを阻止しようとしました。

彼は兵士に手を伸ばし、ある人々によれば、その兵士は灰になったといい、そして、別の人によれば、動けない運命にあるだけだといいます。

私は、この真実の物語を保証してくれる人がもう一人いるという点で、最後のバージョンの方が好きだと認めます。

その赤毛の男が話しかけた侍従は、彼の要求を認める手紙を持っているかどうか尋ねました。

「いいえ」と彼は答えました。

しかし、赤い男は「すぐに主人に話したいと言っていると主人に伝えなさい。」と言いました。

この話で主人を楽しませることができると考えた侍従は、すぐに主人に訪問のことを警告しに行きました。

廷臣の陽気さをすぐに消し去る厳しい眉で、ナポレオンが赤毛の男をすぐに連れて来るように命じ、応接室に彼と一緒に閉じこもったとき、彼はどれほど驚いたことでしょう。

侍従も他の動物と同様に好奇心が強く、彼は交互に鍵穴に目と耳を当てました。

彼は君主と謎の男が熱心に議論しているのを見て、聞きました。

「よく考えてください」、と後者は言いました。

「4月1日以降、私はもうあなたのことに干渉しません。これは長い間合意されてきたことであり、私はこれに対して揺るぎない決意を抱いています。だから、その日が来る前に、敵を追い払うか、あるいは彼らと和平を結びなさい。なぜなら、もう一度言いますが、4月1日に私はあなたたちを見捨てます。そして、その結果がどうなるかはあなたもご存知でしょう。」

皇帝は「これほど短期間で、ヨーロッパ全体との交渉を何らかの方法で終わらせることは不可能である」と反論し、延長を要求しましたが無駄でした。

赤い男には柔軟性がありませんでした。

使者には時々個性があります。

彼は姿を消しました。

ある人によると、床が開いて彼が通れるようになったそうですが、この点については私はあまり主張しません。

なぜなら、気難しい人たちは、なぜ天井から入らなかったのかと尋ねてくるかもしれないからです。

この訪問が皇帝の出発を早めたことに誰もが同意します。

皇帝はそれ以来、時間を無駄にできないことを悟ったのです。

さらに、予言がこれほど厳密に検証されたことはかつてなかった。

3月31日、連合軍はパリに入城した。

その瞬間から、その冒険を知る多くの人々は、赤い男が契約を守った以上に忠実に約束を守るように物事を手配したことをはっきりと理解した。

以上は「Journal des arts, des sciences, et de littérature, 第17巻 ,p38(1814.4.5)」に書かれたものを抜粋し日本語訳したものです。

※この書籍には、「この物語は事後に創作されたものではなく、3月31日のパリ占領の1ヵ月以上前からパリで広まっていたことを多くの人が証言できる」と書かれており、1814年3月初めからナポレオンと赤い男の噂がパリ中で囁かれていたことがわかります。

ナポレオンの退位は1814年4月6日です。「Journal des arts, des sciences, et de littérature, 第17巻 ,p38(1814.4.5)」はその前日に出版されました。


これが私が探した中で最も古い「赤い男」について書かれた書籍の内容です。

ナポレオンの栄光は赤い男(悪魔)との契約のおかげであり、没落は契約の終了によるものだという内容となっています。

それだけナポレオンの力は超常じみているように見えたのでしょう。

そして、恐らく1814年3月初めから民衆はパリも危ういことを察知しており、「テュイルリー宮殿の赤い男とナポレオンの物語」を人々が創作したのだと考えられます。

その後ナポレオンはエルバ島に流されますが、再びパリに舞い戻って来ます。

「赤い男とナポレオンの伝説」もその後に追加されています。

ナポレオンがジャン・ラップ将軍に語った赤い男の話

ジャン・ラップ将軍はナポレオンと話したかったので、予告なしにナポレオンの部屋に入った。

ナポレオンはじっと立っていて、窓からじっと空を見つめていた。

ラップ将軍は椅子を押して、ナポレオンの注意を引くのに十分な音を立てた。

ナポレオンはじっと立って、空を見つめていた。

ナポレオンが意識不明に陥ったのではないかと心配し、ラップ将軍はナポレオンの側に駆け寄った。

ナポレオンは空から目を離さず、ラップ将軍の腕をつかみ、月と同じくらいの大きさで輝く運命の赤い星が見えたかと興奮して尋ねた。

ナポレオンは、運命の星が彼を見捨てたことはなく、赤い服を着て人の形をした運命の小さな赤い男として現れることがよくあるとラップ将軍に語った。

※ナポレオンは自分自身にしか見えない運命の星の存在を信じていたと言われています。その星の色は赤であり、ナポレオンがセントヘレナ島で亡くなる際に流星となったそうです。


ジャン・ラップ将軍の回想録の1807年2月のアイラウの戦いから1812年12月のロシア戦役の終わりまでを調査しましたが、この話は記載されていませんでした。

原典は不明です。

1812年ロシア戦役時と1815年ワーテルロー戦役時のナポレオンと赤い男の伝説

「レッドマンは暴君の最後の努力を阻止し、死は追放からの唯一の脱出手段である。」

※「赤い男は暴君の最後の努力を阻止し、死は追放からの唯一の脱出手段である。」ナポレオンがアメリカに亡命しようとするのを赤い男が阻止する場面を描いたフランスの風刺画。

伝説によれば、この男は小さな声を出さない人物で、現れるとすぐに会えたという。

幽霊は礼儀正しく、アナウンスを要求したからだ。

ロシアに進軍する前のヴィルナで、ブオナパルトが行軍計画を練っていたとき、この人物が彼と話をしたいと申し出たと伝えられた。

彼は召使に皇帝に用事があると伝えるよう頼んだ。

この返事が見知らぬ人物に伝わると、この人物は威厳のある声とアクセントを身に付け、外套をはだけると、その下の服が赤く、他の色が混じっていないことを発見した。

「皇帝に伝えてくれ、赤い男は皇帝と必ず話をしなければならない」と彼は言った。

それから彼は入室を許可され、二人が大声で話しているのが聞こえた。

部屋を出るときに彼は公然と言った。「あなたは私の忠告を拒絶した! お前が自分の過ちを激しく悔い改めるまで、二度と私に会うことはないだろう」

赤毛の男の訪問は、ブオナパルトがエルバ島から戻ったときに再開された。

しかし、最後の遠征(ワーテルロー戦役)に出発する前に、ナポレオンは再び彼の使い魔を怒らせ、使い魔は彼に永遠に別れを告げ、彼をイギリスの赤い男たちに引き渡した。

彼らが彼の運命の真の裁定者となった。

※上記はウォルター・スコット(Walter Scott)著「Paul's Letters to His Kinsfolk, p418 (1816)」の日本語訳です。

追加された話は、ロシア戦役はナポレオンが赤い男の忠告を無視したから失敗したというものと、ワーテルロー戦役は赤い男の使い魔を怒らせたから敗北したというものです。

もし1812年のロシア戦役時の赤い男とナポレオンの物語が既に囁かれていたとしたら、1814年の時点で書かれているはずであり、1815年のワーテルロー戦役の後に書かれるというのは不自然です。

「Paul's Letters to His Kinsfolk, p418 (1816)」はフランス語ではなく英文です。

そのため、イギリス人が赤い男の伝説に便乗してナポレオンの失敗の伝説を追加したのだろうと考えられます。


その後、イギリス人が赤い男をネタにナポレオンをいじっているのを嫌ったフランス人が風刺画を描きました。

赤い男とナポレオンに関する迷信をあざ笑うフランスの風刺画

※赤い男とナポレオンに関する迷信をあざ笑うフランスの風刺画。

ナポレオン以降の「テュイルリーの赤い男」伝説

左:「テュイルリー宮殿の書斎にいるルイ18世」。1823年。フランシス・ジェラルド(François Gérard)画。右:「フランス皇后ウジェニー」。	1856年。ジャン=バティスト・ギュスターヴ・ル・グレイ(Jean-Baptiste Gustave Le Gray)撮影。

※左:「テュイルリー宮殿の書斎にいるルイ18世」。1823年。フランシス・ジェラルド(François Gérard)画。右:「フランス皇后ウジェニー」。 1856画。ジャン=バティスト・ギュスターヴ・ル・グレイ(Jean-Baptiste Gustave Le Gray)撮影。

「テュイルリーの赤い男」はその後、ナポレオン1世退位後にフランス国王となったルイ18世が、1824年9月16日午前4時に亡くなる数時間前に姿を現し、そして1870年9月5日、普仏戦争の敗北による民衆の暴動により追い込まれたナポレオン3世の妻である皇后ウジェニーがテュイルリー宮殿を脱出し、"ノルマンディ海岸の女王"と呼ばれるドーヴィル(Deauville)に逃亡する際にも姿を現したと言われています。

ウジェニーは2日後の9月7日にイギリスへ亡命しました。

この2つの伝説についてはより具体的な話や"赤"にまつわる逸話が見当たらないため、後で尾ひれとして追加されたのだと考えられます。

「テュイルリーの赤い男」の伝説の終わり

テュイルリー宮殿の焼失

※テュイルリー宮殿の焼失

1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にコミューン側の兵士が放火し、テュイルリー宮殿は焼失してしまいました。

宮殿が燃え盛る中、テュイルリーの赤い男は炎の中で踊り、煙の竜巻の中へ消えて行ったと言われています。

カトリーヌ・ド・メディシスの時代は幽霊とされていたものが、ナポレオンの時代になると悪魔や悪魔の使い魔のような存在に変化し、その後はまた幽霊に戻っているのも興味深いところです。

テュイルリーの赤い男の正体

「サン・ジェルマン伯爵の肖像」。1783年。ニコラス・トーマス(Nicolas Thomas)画。

※「サン・ジェルマン伯爵の肖像」。1783年。ニコラス・トーマス(Nicolas Thomas)画。

テュイルリーの赤い男の正体は"肉屋ジャン・レコルシュールの幽霊"というのが定説ですが、"ヨーロッパ史上最大の謎の人物"と呼ばれるサン・ジェルマン伯爵であるという説もあるようです。

これは推測ですが、カトリーヌ・ド・メディシスお抱えの占星術師であるコジモ・ルッジェーリの予言に"サン・ジェルマン"という文言が出てくること、ルイ14世と母アンヌ・ドートリッシュがサン=ジェルマン=アン=レーに逃れたこと、マリー・アントワネットとサン・ジェルマン伯爵は同時代人であり、マリー・アントワネットの処刑の時、見守る群衆の中にサン・ジェルマン伯爵の姿があったと言われていること、ナポレオン3世がサン・ジェルマン伯爵に興味を持ち、伯爵に関する資料を集めさせたこと、そして不老不死との噂があるサン・ジェルマン伯爵は呼び名の通り"謎の人物"であるため、これらを重ね合わせて民衆が変化を加え、都市伝説として語り継いだのでしょう。