マルタ戦役 01:エジプト遠征最初の戦役であるマルタ戦役の始まり 
The beginning of the Egyptian campaign

エジプト遠征最初の戦役であるマルタ戦役の始まり

東洋軍のエジプトへの出向(1798年)

※東洋軍のエジプトへの出航(1798年)。ピエール・マルティネ(Pierre Martinet)。1800年頃

 1798年5月19日夜、ボナパルトは118門の砲を搭載したコマース・ド・マルセイユ級第一級戦列艦「オリエント」を旗艦として乗り込み、トゥーロンを出航した。

 歩兵約32,000人、騎兵約3,200人、砲兵約3,200人、工兵約1,200人、馬1,230頭、大砲171門を武装艦55隻(病院船含む)、輸送船などの非武装船280隻に乗せて出航したと言われている。

 騎兵数に対して馬の数が少ないが、ボナパルトは現地で馬を調達できると考えていた。

 兵士と物資、そして水の重さで船底が海底に着くのではないかと思われた。

 東洋軍の最初の目標はマルタ攻略だった。

東洋軍のトゥーロンからマルタへの航路(1798年)

※東洋軍のトゥーロンからマルタへの航路。

 途中、バラグアイ・ディリエール将軍のジェノヴァ船団、ドゼー将軍のチヴィタヴェッキア船団と合流しつつエルバ島とコルシカ島の間を通過し、コルシカ島南部に寄港してヴォーボワ将軍のアジャクシオ船団と合流しつつ補給を行い、シチリア島の西に浮かぶエガディ諸島の島の1つであるマレッティモ島(Isola di Marettimo)の西を通り過ぎ、聖ヨハネ騎士団の支配するマルタ島へと向かうのである。

 フランス艦隊は5月21日にジェノヴァ船団と合流し、5月23日夜にバスティアの沖合に到着し、26日にコルシカ島南部の港(ボニファーチョ、ポルト・ベッキオ)で食糧を調達して27日にヴォーボワ将軍のアジャクシオ船団と合流し、マレッティモ島方向に向かって出航した。

 コルシカ島には3,600人の守備隊を残し、兵站拠点とした。

 そして5月28日午後8時、ドゼー将軍のチヴィタヴェッキア船団との合流に成功した。

 トゥーロンを出航してから9日が経過しており、ランヌ将軍などは早くも船の上の生活に退屈していたと言われている。

ネルソン戦隊の苦難

トゥーロン沖で嵐と遭遇するネルソンの旗艦「ヴァンガード」

※トゥーロン沖で嵐に遭遇するネルソンの旗艦「ヴァンガード」。ニコラス・ポーコック(Nicholas Pocock)画。19世紀

 一方、フランス艦隊がトゥーロンから出航した5月19日夜、ネルソンはフランス艦隊はトゥーロンを出航して西に舵を取るだろうと予想し、フランス艦隊の動向を観察するためにシシエ岬沖で待ち構えていた。

 しかし強風のためよく観察できず、暗い内に行なわれたフランス艦隊のトゥーロンからの出航を見逃してしまっていた。

 5月20日、ネルソンはフランス艦隊の出航に気付かないままであり、風が穏やかだったため帆を張ってシシエ岬沖で停泊していたがトゥーロンからフランス艦隊が出てくる様子は覗えなかった。

 5月21日午前1時、ネルソン戦隊は嵐に見舞われ、午前3時半頃、強風対策をしていたにもかかわらず旗艦「ヴァンガード」のフォアマストが3つに折れ、船首が損傷した。

 そしてその後、トップマストが折れて甲板に落ち、乗組員2人が死亡した。

 「ヴァンガード」は操縦不能となり、イエール諸島から南に138.9㎞(25 leagues = 75 海里 = 138.9 km)ほどの地点まで風と波に流され、戦隊は散り散りとなった。

 翌日、「ヴァンガード」は「オリオン」、「アレクサンダー」、「エメラルド」とともに何とかコルシカ島西岸沖にたどり着いたが「ヴァンガード」の損傷は酷く自力での航行は不可能だった。

 ネルソンは「ヴァンガード」を見捨てるよう命じたが、戦列艦「アレクサンダー」を指揮するボール艦長はその命令を拒否して引き綱を取り付け、サルディーニャ島南西に位置するサン・ピエトロ島まで曳航した。

「アレクサンダー」に曳航される旗艦「ヴァンガード」

※1798年5月22日、「アレクサンダー」に曳航される「ヴァンガード」。ニコラス・ポーコック(Nicholas Pocock)画。1810年

 フリゲート艦「エメラルド」は(恐らく散り散りとなった艦の探索と索敵、そして連絡のために)夜の間にネルソンの元を離れた。

 そのため偵察に適しているフリゲート艦はすべてネルソンの元から離れたこととなり、ネルソン戦隊の視界は大きく狭まった。

 5月23日12時頃、サン・ピエトロ島沖にたどり着き、フォアマストにはメイントップマスト、トップマストにはトップギャラントマストを使用して「ヴァンガード」を4日で修復し、5月27日ネルソンは再び地中海に乗り出した。

ネルソンの影

 5月31日までにネルソンはトゥーロン沖に到着し、ジャービス提督から50門の大砲を備えたポートランド級4等艦「リアンダー(Leander)」とともに援軍が派遣されたという連絡を受け取った。

 フランス艦隊がすでに出発していることを知ったネルソンはトゥーロン沖を離れイタリア方面へ向かった。

 ネルソンはサルディーニャ島西部を北上してトゥーロンに向かったがフランス艦隊の船影すら発見できず、トゥーロンより西を観察させていた別動隊やジャービス提督からもフランス艦隊発見の連絡は無かった。

 そのためフランス艦隊はイタリア方面に針路を取ったと推測したのだろう。

 一方、6月初め頃、ボナパルトはネルソン戦隊がサン・ピエトロ島にいるという情報を入手し、即座にサン・ピエトロ島方面の索敵を命じた。

 6月4日、東洋軍の船団はロンドンからナポリに向かうスウェーデンの貿易船を発見して臨検し、船長や操縦士に尋問を行なった。

 しかし、スペインの太平洋側の港であるカディスでイギリス海軍を見たこと、寄港地であるマルガではイギリス船は見なかったということ以外の情報は得られなかった。

 イギリス船の情報すら得ることができなかったボナパルトは、ネルソンの影を感じつつマルタ島へ向かった。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・その他