【詳細解説】ヴェネツィア共和国の崩壊【第一次イタリア遠征】


本記事ではレオーベン条約の締結からカンポフォルミオ条約の間の出来事であるナポレオンによる「ヴェネツィア共和国の崩壊」について時系列に沿って経過をまとめまています。

ナポレオンの第一次イタリア遠征の主な舞台である北イタリアに大きな領土を持つヴェネツィア共和国はフランス共和国とオーストリア帝国の主戦場となりました。

ヴェネツィア共和国は中立を宣言しているにも関わらず、国土を大国間の戦争の主戦場とされ、各都市はフランス軍に略奪されたのです。

フランス共和国とオーストリア帝国という大国の主戦場となりながらも中立を貫いた「最も穏やかなヴェネツィア共和国」の最後はどのようなものだったのでしょうか?

フランス軍側だけではなく、ヴェネツィア共和国側の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでヴェネツィア共和国崩壊の流れについて詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

もしかしたら、アメリカと中国の狭間で日本が生き残るにはどのような選択が最良なのかのヒントを見つけることができるかもしれません。

ヴェネツィア共和国の崩壊 01 イタリアの解放者

「レ・リベラトゥール・デ・イタリー号(イタリアの解放者号)」の船長であるロージェは2隻の小型船を伴ってゴーロ港を出航し、カオルレへ向かいました。

そして、ロージェはカオルレ近海で漁師を捕えて脅し、案内を強要しました。

1797年4月20日、リベラトゥール号は遂にリド島の前に現れて大砲を発砲しました。

リド島の警備局は2隻の小型船を派遣し、リベラトゥール号に進路を変えて外海に戻るよう命じましたが、ロージェはリド湾へ向けて前進を続けました。

しかし、サンターンドレア要塞からの砲撃によりリベラトゥール号についてきていた2隻の小型船は追い払われました。

リベラトゥール号は構わずリド湾に侵入しようとしましたが、ヴェネツィアのガレー船「アンネッタ・ベラ号」に衝突し、砲撃を受けました。

ロージェはこの砲撃で死亡し、アンネッタ・ベラ号の船員達はリベラトゥール号に乗り込み、乗組員を捕らえて船を略奪しました。

この戦闘によりロージェ船長含むフランス船の乗組員5名が死亡、8名が負傷、39名が捕虜となったと言われています。

これがフランス共和国とヴェネツィア共和国の戦争におけるフランス軍側の最初で最後の損害でした。

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ヴェネツィア共和国の崩壊 02 オーストリア本土からの撤収とヴェネツィア攻略準備

1797年4月24日、ナポレオンはオーストリアからの撤退命令を各師団に下しました。

それはギウ師団のみをクラーゲンフルト周辺に残し、ベルナドット師団、マッセナ師団、セリュリエ師団などをリュブリャナ経由で、ジュベール師団、デルマス師団、バラグアイ・ディリエール師団などをオソッポ経由で北イタリアに帰還させるという計画でした。

ヴェネツィア政府はナポレオンの元に特使を派遣し、4月25日にグラーツで会談を行いましたが、ナポレオンはすでにヴェネツィア共和国と戦争を決意しており、「8万人の武装兵と20隻の砲艦でヴェネツィア打倒の準備ができている。」と脅迫された上、「もう異端審問も元老院も望まない、私はヴェネツィアにとってのアッティラになる。」と事実上の宣戦布告を行いました。

ヴェネツィアはヴェネツィア本島とその周辺の小さな島々で構成され、約12,000人もの兵力が配置されていました。

もしイタリア本土のメストレを占領できたとしても島々で形成されるヴェネツィアは海という自然の堀で囲まれているため攻略は困難でした。

さらにアドリア海から艦船で攻略するにしてもサンターンドレア要塞がラグーンの入り口を防衛しており、ラグーン内に侵入できたとしても潮の満ち引き​​、浅瀬、運河の狭さ、開けた水域での水深などにより座礁の危険や移動の困難が付きまとうためヴェネツィアの防御は固いものでした。

もし攻略しようとすれば大きな損失をともなうだろうことは容易に予想できました。

そのためナポレオンは自らを大きく見せて強く出ることによってヴェネツィア政府内部を揺さぶったのでした。

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ヴェネツィア共和国の崩壊 03 リュブリャナ(ライバッハ)でのベルナドット師団とマッセナ師団の対立 

1797年4月29日か30日、ベルナドット師団の後部とマッセナ師団の先頭がリュブリャナの同じ宿舎にいたのは偶然でした。

マッセナ師団はライン方面から来た優等生であるベルナドット師団を嫌っていました。

ライン方面軍はオーストリア軍に敗北を続け、イタリア方面軍は勝利し続けているにもかかわらず、ベルナドット師団はナポレオンやオーストリアの使節から信頼を得ていたのです。

対立はほんの僅かな火がこれまで燻っていた火種に火を灯したことから始まりました。

デュポー少将はビリヤードの最中、ベルナドット師団所属の士官から「ムッシュ」と呼ばれるのが気に食わず、「シトワイヤン」と呼ばれたいと要求し、それが断られたことがきっかけでした。

リュブリャナでの両師団の対立は武器を取るところにまで発展しましたが、ベルナドット師団の参謀長サラザン大佐の機転により、武器ではなく殴り合いの決闘となりました。

この内紛での損害は、戦死者50人、負傷者約300人で、病院の報告によれば、後者の3分の2はマッセナ師団の兵士だったと言われています。

詳細記事ではベルナドット師団とマッセナ師団の対立についてより詳しく解説しています。

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ヴェネツィア共和国の崩壊 04 ヴェネツィア共和国の滅亡

1797年5月1日、ナポレオンはパルマノヴァでこれまでの経緯を説明つつヴェネツィア政府の行為を非難し、ヴェネツィア共和国へ正式に宣戦布告を行いました。

ヴェネツィア政府は特使を派遣して首都周辺のみ停戦期間を得ることができましたが、同時に様々な受け入れがたい要求を突き付けられました。

5月4日、ヴェネツィア政府は大評議会での投票の末、ナポレオンの脅迫に屈し、その要求に一部従うことを決定しました。

その間、ナポレオンはヴェネツィアを包囲するように麾下の師団を配置し、訓練や演習を奨励しました。

この時点でヴェネツィアは依然として独自の強力な艦隊、イストリアとダルマチアの領土、そして都市とラグーンの無傷の防御を保持していました。

しかし、ヴェネツィア政府は戦うことを選択せず、首都防衛のために動員した軍の解散を命じました。

この背景にはドイツで勝利した約6万人のフランス軍に近い将来取り囲まれるだろうという絶望もありましたが、イタリア本土及びアドリア海を封鎖され、軍を維持できるだけの経済力や物資が失われていることが大きな理由でした。

5月12日朝、フランス軍がすぐそこにまで迫っている中、ヴェネツィア共和国最後の大評議会が開かれました。

ナポレオンの要求は、親フランスの民主的な政権を樹立することでした。

これはこの当時の貴族が主体となって統治しているヴェネツィア政府を廃止し、新たな政府を立ち上げるということを意味していました。

フランス軍がいつ襲来するかの恐怖の中、議員たちは直ちに採決に進み、ヴェネツィア共和国政府の廃止を決議しました。

5月14日、ナポレオンはバラグアイ・ディリエール将軍麾下の約4,000人の兵力をヴェネツィアに送り込んで占領し、5月15日、総督はドゥカーレ宮殿を永遠に去り、ヴェネツィア政府最後の法令で暫定自治政府の誕生を発表しました。

これが約1,100年継続した歴史あるヴェネツィアの「最も穏やかな共和国」が滅亡した瞬間でした。

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参考文献References

・Heinrich Leo著 「Geschichte der italienischen Staaten: Vom Jahre 1492 bis 1830. 5」(1832)
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第2巻
・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻
・Sir Dunbar Plunket Barton著「Bernadotte; the first phase, 1763-1799」(1914)
・The Military Panorama, Or, Officer's Companion, 第3巻
・その他