ヴェネツィア共和国の崩壊 02:オーストリア本土からの撤収とヴェネツィア攻略準備 
Withdrawal from mainland Austria and preparations for attacking Venice

オーストリア本土からの撤収

 1797年4月18日にレオーベンで和平条約が締結された後、ボナパルトはベルナドット師団及びドゥガ騎兵隊をグラーツへ、バラグアイ・ディリエール師団をオソッポへ移動させた。

 そしてマッセナ将軍にレオーベン条約の条約書を持たせパリに向かわせた。

 マントヴァ要塞を陥落させた時はオージュロー将軍をパリに凱旋させ、オーストリア帝国との戦争の勝利が決定した今回はマッセナ将軍をパリに凱旋させたのである。

 マッセナ師団の指揮権はブルーン将軍が引き継ぐこととなった。

 4月20日、病気が回復したセリュリエ将軍がグラーツに到着し、シャボー将軍から師団の指揮権を引き継いだ。

 マッセナ師団はブルック、ギウ師団はレオーベン、ベルナドット師団とセリュリエ師団はグラーツ、ジュベール師団はフィラハ、デルマス師団はザクセンブルクを本拠としていた。

◎レオーベン条約締結後のイタリア方面軍各師団の位置

 その後、ボナパルトは各師団にオーストリア領に一部の兵士を残し、イタリアに帰還する準備を行うよう命じた。

 ボナパルトは次の戦いに向けて思考を進めていた。

 つまりヴェネツィア共和国との戦いである。

 4月22日、ボナパルトはフランス政府にレオーベン条約締結の報告と経緯を送り、同時にヴェネツィア共和国への宣戦布告を提案していた。

 そしてヴェネツィア共和国との戦争にかこつけてさらなる増援を要求し、ライン戦線との共同作戦ではなく、イタリア方面軍単独で行動する必要があることを伝えた。

 4月24日、ナポリのガロ侯爵がウィーンからグラーツに到着し神聖ローマ皇帝からの条約の承認を得たことを知ると、遂にオーストリア本土からの撤退命令が各師団に下された。

◎イタリア方面軍のオーストリア本土からの撤収計画

 ベルナドット師団は25日にグラーツを発ちリュブリャナへ向かう。

 ブルーン将軍率いるマッセナ師団は25日にブルックを発ちグラーツへ向かう。

 ドゥガ将軍は騎兵予備隊を率い25日にグラーツを発ちゴリツィアへ向かう。

 セリュリエ師団は26日にグラーツを発ちリュブリャナへ向かう。

 ジュベール師団は26日にフィラハを発ちサチレへ向かう。

 ギウ師団は26日にレオーベンを発ちクラーゲンフルトに向かい、そこで新たな命令があるまで待機する。

 バラグアイ・ディリエール師団は、27日にオソッポを発ちトレヴィーゾに向かい、そこで新たな命令があるまで待機する。

 デルマス将軍は29日に師団全体とともにザクセンブルク(Sachsenburg)を離れ、ポルデノーネ(Pordenone)に向かい、そこで新たな命令を待つ。

 そしてボナパルトはガロ侯爵と協議をするためにグラーツに留まった。

 ガロ侯爵は皇帝がレオーベン条約を批准することに同意したことの他に、「皇帝はコンデ軍への資金提供を停止し、排除する」ことに言及したと伝えた。

※コンデ軍はフランス革命で国外逃亡した王侯貴族が組織し、フランス革命軍と敵対している軍である。

コンデ軍はオーストリアからの資金が途絶えた後、1800年までロシアを頼り(ロシアは1800年に第二次対仏大同盟を離脱する)、その後、解散する1801年までイギリスを頼った。

コンデ公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンが司令官だったためコンデ軍と呼ばれる。

オーストリア全権大使メルヴェルト伯爵とデゲルマン男爵の選択

 オーストリアの全権大使であるメルヴェルト伯爵とデゲルマン男爵はフランス軍に同行することとなった。

 全権大使はマッセナ師団とベルナドット師団を比較してベルナドット師団に同行することを望んだ。

 マッセナ師団はだらしなく、ならず者集団であり、ベルナドット師団は規律正しく、古き良き軍隊を思い起させるからだと言われている。

 このことは後に両師団の対立に発展する火種の1つとなった。

ヴェネツィア共和国への脅迫

 4月25日、ヴェネツィア政府の特使がグラーツでボナパルトと会談を行なった。

 ボナパルトは特使達に同盟の提案を拒否したとしてヴェネツィア政府を非難し、「8万人の武装兵と20隻の砲艦でヴェネツィア打倒の準備ができている。」と脅迫した。

 そして「もう異端審問も元老院も望まない、私はヴェネツィアにとってのアッティラになる。」と宣言した。

※452年、アッティラがドイツ方面から侵攻したことよって北イタリアの人々がヴェネタ潟の小さな島々(現在のヴェネツィア)に避難したことがきっかけとなり、ヴェネツィア共和国が建国されたという経緯があり、アッティラは歴史的にヴェネツィアの人々にとっての恐怖の対象だった。ナポレオンはオーストリアから北イタリアに撤退し始めており、ドイツ方面から侵攻したアッティラと重なるため、自身をアッティラに見立てたのだろう。

 これは事実上の宣戦布告だった。

戦わずして勝つ

 ヴェネツィアはヴェネツィア本島とその周辺の小さな島々で構成され、そこに約12,000人もの兵力が配置されていた。

 もしイタリア本土のメストレを占領できたとしても島々で形成されるヴェネツィアは海という自然の堀で囲まれているため攻略は困難だった。

 さらにアドリア海から艦船で攻略するにしてもサンターンドレア要塞がラグーンの入り口を防衛しており、ラグーン内に侵入できたとしても潮の満ち引き​​、浅瀬、運河の狭さ、開けた水域での水深などにより座礁の危険や移動の困難が付きまとうためヴェネツィアの防御は固かった。

 もし攻略しようとすれば大きな損失をともなうだろうことは容易に予想できた。

 そのためボナパルトは自らを大きく見せて強く出ることによってヴェネツィア政府内部を揺さぶったのである。

 「戦争においては、敵国を保全した状態で傷つけずに攻略するのが上策であり、敵国を撃ち破って勝つのは次善の策である。百回戦って、百回勝利を収めたとしても、それは最善の策とは言えない。戦わずに敵を屈服させるのが最善の策である。」

※<「孫氏」 第三章 謀攻篇>より一部抜粋

 ボナパルトは「孫氏」を読んでいるわけではなかったが、「孫氏」に書かれていることを実践した。

 しかし、例え「孫氏」を読んでいなくとも、「プルタルコス 英雄伝」、「アレクサンドロス大王東征記」、「ポリュビオス 歴史」など多くの歴史書を何度も読み返しており、過去の英雄の考えを理解できていたため、この時のナポレオンには「孫氏」は必要なかったのである。

※「孫氏」は1772年にフランス語で出版されていたが、原文をすべて翻訳したものではなく、一部を抜き出して翻訳したものだった。そしてナポレオンが「孫氏」を読んだという形跡は一切ない。もしかしたら、読んだがすぐに捨てられた(馬車の窓から放り投げられた)のかもしれないが、当ブログではナポレオンは「孫氏」を読んでいないものとしている。

ヴィチェンツァとパドヴァの制圧

 4月26日、ボナパルトはキルメイン将軍の命令で周辺地域の安定のためにトレヴィーゾに駐留しているヴィクトール将軍に命令を送った。

 レニャーゴ橋を渡りヴェローナの救援に向かうようにとの命令だったが、ヴェローナは既に4月24日に降伏していたためこの命令は無駄となった。

 ボナパルトの元にはヴェローナの降伏についての報告がまだ届いていなかったのである。

 4月27日、ラホーズ将軍はヴィチェンツァとパドヴァに進出してヴェネツィア当局を排除し、守備隊の武装を解除し、フランス軍統制下での民主的な自治体を設立することに成功した。

 4月28日、ベルナドット師団はリュブリャナに到着した。

 ボナパルトはベルナドット将軍に29日にリュブリャナを発ちパルマノヴァへ向かうよう命じた。

 リュブリャナからパルマノヴァへの道は2つの選択肢があったが、ベルナドット将軍はトリエステを経由するルートを選択した。

 そしてボナパルトは、この日、グラーツを去りリュブリャナへ向かった。