ヴェネツィア共和国の崩壊 03:リュブリャナ(ライバッハ)でのベルナドット師団とマッセナ師団の対立 
Confrontation between the Massena and Bernadotte divisions

サラザンの回想録におけるリュブリャナでのベルナドット師団とマッセナ師団の対立

サラザンの肖像画

※サラザンの肖像画

 1797年4月29日、ベルナドットは参謀長サラザン(Jean Sarrazin)大佐にリュブリャナに残った部隊の指揮を任せてトリエステへ向かった。

 4月29日かもしくは30日、リュブリャナにはまだベルナドット師団の一部がおり、マッセナ師団が到着し始めていた。

 マッセナ師団の兵士達はベルナドット師団を快く思っていなかった。

 ベルナドット師団は新参者にもかかわらずナポレオンやオーストリアの全権大使から信頼されており、服装も乱れごろつき集団のようなマッセナ師団とは対照的に規律正しく優等生然としていたからであると言われている。

 この時、両師団の司令官はリュブリャナに不在だった。

 マッセナは師団をブルーン将軍に任せてパリに向かい、ベルナドットはトリエステに向かっていた。

 ブルーン将軍は厳格ではなく、兵士の手綱を締めることができなかった。

 もしベルナドットとマッセナのどちらかでもいたら、この対立はリュブリャナで表面化しなかっただろう。

 対立はほんの僅かな火がこれまで燻っていた火種に火を灯したことから始まった。

 征服した属州から撤退している最中に、ベルナドット師団とマッセナ師団がリュブリャナで宿舎を共にしていたのは偶然だった。

デュポー将軍の肖像画

※デュポー将軍の肖像画

 マッセナ師団所属のデュポー(Duphot)将軍は、特に階級の区別もなくビリヤードに遊びに来ており、第19騎兵連隊の士官達と連れ立っていた。

 熱烈な愛国者であるデュポーは相手に呼びかける際「シトワイヤン(Citoyen)」のみを使用したが、ビリヤードの対戦相手の士官は「ムッシュ(Monsieur)」、もしくは「サー(sir)」としか呼んでいなかった。

 デュポーは、自分が貴族のように見える態度で話しかけられるのを聞いてうんざりし、対戦相手の士官に「シトワイヤン」と呼んで欲しいと頼んだ。

 士官は「民事法廷以外に"シトワイヤン"という言葉は知らない。」と拒否し、そして、「"サー"という呼称が、社会の交流において唯一適切なものであるように思う。」と言った。

 デュポーは拒否に腹を立てて即座に決闘を申し込み、その決闘は受け入れられた。

 傍観者たちはイタリア方面軍の将軍がライン方面軍の少尉(sous-lieutenant)と戦うことを望まず、これに反対した。

※当時は少佐以上の階級の「上級士官」と大尉以下の階級の「下級士官」の間では、「上級士官」が敗北した場合、決闘後に階級を利用した復讐などで「下級士官」が不利益を被る可能性があるため決闘は成立しなかった。

 デュポーの階級を知った少尉もデュポーに関わることを拒否したが、「"ムッシュ(サー)"という言葉を使うことに反対するのが当然だと思う人もいるだろう」と言い、自分と同じ階級の士官との決闘に応じる用意があると宣言した。

 デュポーはその言葉を真に受けて、同階級の代役を立てて決闘を行なった。

 両師団の数名の士官が見守る中、マッセナの下級士官は肺に剣を突き刺されて殺害された。

 この出来事はすぐに両師団に広まり、争いを引き起こした。

 ブルーン将軍はベルナドット師団の暫定指揮官としてサラザン大佐を呼び出した。

 ブルーン将軍はサラザンに対し、挨拶の形式として「ムッシュ」という言葉の使用を禁止し、代わりに「シトワイヤン」という言葉の使用を要求する命令を出すよう求めた。

 そして「もしこの要求が拒否された場合、その後に生じる可能性のあるあらゆる出来事についてはあなたに責任が生じることになる。」と言った。

 サラザンは「("ムッシュ"をベルナドット師団の共通語とするのは)ベルナドット将軍からの命令だったのだ。 問題の件に関する彼(ベルナドット)の感情を私は知っている。 提案された措置を黙って受け入れれば、彼(ベルナドット)を極めて不快にさせるはずだと私は確信している。 そして、軍務とはまったく無関係であるとして、その措置を採用することを確実に拒否するだろう。」と答えた。

 同じ時、マッセナ師団の第32連隊とベルナドット師団の第30連隊が大広場で武装し戦闘の準備を整えているとブルーン将軍の元に知らせが来た。

 ブルーンがベルナドット師団の愛国心に賛辞を送っている間、サラザンはブルーンに彼の将校と副団長を広場の中央に集めるように依頼し、ベルナドット師団の将校と副団長もそこに集めた。

 デュポー将軍はミラノでベルナドットに逮捕されたことを根に持っており、この対立においてマッセナ師団側の指揮を執っていた。

 ブルーンはサラザンに懇願を繰り返し、サラザンが「ベルナドット師団に"ムッシュ"の代わりに"シトワイヤン"を使用させる」という案を採用すれば問題は解決すると約束した。

 サラザンはブルーンの懇願を断り続け、そして大声で「将校たちが口論の結果によって兵士たちを扇動するほど利己的になるのは、理解できないことだ。そして、自分を侮辱されたと考える者は、兵舎内ではなく、野原で、そして人間対人間で、争いを終わらせるべきであるということだ。」叫んだ。

 その後、サラザンはブルーンを"ムッシュ"と呼んでいたので、必要ならばブルーン将軍と決闘することを申し出た。

 そしてサラザンはベルナドット師団の士官と兵士達に直ちに分かれるよう命令し、それは実行された。

 ブルーンも同じことをした。

 その後、非常に多くの個人的な出来事が起こり、戦死者50人、負傷者約300人で、病院の報告によれば、後者の3分の2はマッセナ師団の兵士だったとのことだった。

 この時、オーストリアの全権大使であるメルヴェルト伯爵とデゲルマン男爵がベルナドット師団とともにリュブリャナに滞在しており、彼らは師団間の争いを聞くとすぐにサラザンを待ち構え、騒動を最も早く鎮めると思われることは何でもするようサラザンにとてもに熱心に懇願した。

 その後、メルヴェルト伯爵とデゲルマン男爵がこの騒動の扇動者であるという不当な噂が広まった。

 サラザンはトリエステのベルナドット将軍の元に自ら赴き、この一件についての報告を行った。

 ベルナドットは「自分の意図を見事に遂行してくれた。」として、サラザンに感謝の言葉を返した。

 さらに「もしあなたがブルーンの案に従っていたら、私はもうあなたを師団に留めておかなかっただろう。」と付け加えた。。

ティエボーの回想録におけるリュブリャナでのベルナドット師団とマッセナ師団の対立

ティエボーの肖像画

※ティエボーの肖像画

 ティエボーに回想録によると、マッセナ師団の兵がベルナドット師団の兵と接触すると嘲笑する目的で「ムッシュ」という言葉を使用したことがこの対立の発端である。

 元々のイタリア方面軍の兵士達は連戦連勝していたため自分たちを最も優れた市民軍と思っており、連戦連敗のライン方面から来たベルナドット師団のことを快く思っておらず、その規律や兵士から士官への敬意などの見た目で「ムッシュの軍」と嘲っていたのである。

 そしていくつか決闘が発生し、遂に乱闘にまで発展し、両陣営とも銃剣を手に取るのではないかと思われた。

 しかし部隊が派遣され、事態は収束に向かった。

 両陣営合わせて100人以上の戦死者を数えたが、その内少なくとも60人はマッセナ師団の所属だった。

 新たな対立を避けるため、問題を起こしたマッセナ師団はリュブリャナの滞在資格をはく奪され、先行していたベルナドット師団よりも先にリュブリャナを去ることとなった。

 マッセナ師団は夜明け前にリュブリャナを去った。

 この事件により、2つの師団の日程が変更されてしまい、ティエボーはマッセナの師団が全面的に間違っていたことを非難せずにはいられなかった。

 ブルーン将軍はそれを予見していたはずであり、自分に不利な状況にならないように最初に報告したかった。

 そのためボナパルト将軍に真っ先に報告書を届けるためにティエボーを派遣した。

 ティエボーはどの城で将軍(ボナパルト)のところにたどり着いたのかはもう分からないが、ティエボーは夜にボナパルトのいる城に到着して報告書を提出すると、同じ城に部屋を与えられた。

 ティエボーは服を脱いでベッドに身を投げ、すぐに深い眠りに落ちた。

 ベルティエ将軍が書簡を届けにティエボーの部屋を訪れると、そこにはトコジラミに全身を覆われたティエボーが眠っていた。

 ベルティエはまずは声を掛けて目覚めさせようとしたが、ティエボーが起きることはなかった。

 ティエボーに触る勇気もなかったため、ベルティエはサーベルの鞘でティエボーの体を押すしかなかった。

 ティエボーは起きると自分が置かれている状況に恐怖を感じたと言われている。

 この城の部屋のすべてがトコジラミに汚染されているわけではなく、たまたまティエボーの与えられた部屋がトコジラミの巣窟となっていたようである。

リュブリャナでのベルナドット師団とマッセナ師団の対立の考察

 サラザンとティエボーの回想録はお互い足りない情報を補い合っているが、相違していると思われる箇所もある。

 この相違はどちらかが故意に嘘を言っているという類のものではなく、勘違いや確たる情報ではない人から聞いた話などを元にした「自分にとっての真実」を書いているか、もしくは時系列の違いからだろうと思われる。

 大きな相違は主に3ヵ所だ。

 1つ目は対立の始まりについて、2つ目は武装の有無について、3つ目は損害についてである。

1、対立のはじまりについて

 サラザンの回想録では事の始まりはビリヤード中のデュポーとベルナドット師団所属の少尉との「シトワイヤン」、「ムッシュ(サー)」のやり取りだが、ティエボーの回想録では、マッセナ師団の兵士が嘲笑する目的で「ムッシュ」という言葉を使用したことが事の始まりとなっている。

 サラザン自身はすぐにブルーン将軍に呼び出されて事態の把握と収拾をしようとしており、ティエボーはその騒ぎを傍観していた立場と思われるため、サラザンの回想録に書かれていることが事の発端であり、ティエボーの回想録に書かれていることは恐らく乱闘に発展する直前、マッセナ師団の兵士が「ムッシュ」とベルナドット師団の兵士を嘲笑していた場面なのではないかと考えられる。

2、武装の有無について

 サラザンの回想録には「マッセナ師団の第32連隊とベルナドット師団の第30連隊が大広場で武装し戦闘の準備を整えているとブルーン将軍の元に知らせが来た。」と記されており、すでに武装していることがわかる。

 しかしティエボーの回想録では「両陣営とも銃剣を手に取るのではないかと思われた。」と記されており、武装していないことがわかる。

 両者は視点が違っても当事者の1人であり、ティエボーはマッセナ師団側が悪いと思っていることが窺えるため、どちらかが嘘を言っているとは思えない。

 そのため恐らく、それぞれの出来事の時系列が違うのだろうと推測できる。

◎マッセナ師団とベルナドット師団の騒動の時系列

1、ビリヤード場でのマッセナ師団所属の下級士官の刺殺。

2、「ブルーンとサラザンの会合」と同時進行で大広場に両師団が続々と集まり武器を取る。

3、ブルーンとサラザンが両陣営に分かれさせ、武器を使用した決定的な事態を避ける。

4、武器を使用しない個別の決闘や乱闘が起きる。

5、部隊が派遣されて個別の決闘や乱闘を取り締まる。

6、ブルーンは弁明のためにティエボーをナポレオンの元に向かわせる。

7、サラザンは自らトリエステのベルナドットの元に向かう

8、ティエボーはナポレオンのいる城に到着して書簡を届けるとすぐに眠りに落ち、トコジラミに襲われる。

9、ティエボーがベルティエにサーベルの鞘で起こされ、ブルーンの元に帰還する。

 

 サラザンとティエボーの話を総合して時系列的に並べると上記のようになると考えられ、両者の話は両立することが分かる。

3、損害について

 サラザンの回想録には「戦死者50人、負傷者約300人で、病院の報告によれば、後者の3分の2はマッセナ師団の兵士だった」と書かれており、ティエボーの回想録には「死者100人以上でその内少なくとも60人がマッセナ師団所属だった」と書かれている。

 サラザン大佐は参謀長であり、尚且つ軍の状態を把握する立場にある。

 対してティエボーは大隊長であり、乱闘の後、ボナパルトの元に派遣され、乱闘後のホットな情報は得ていない。

 そのため、ティエボーの死者100人中少なくとも60人はマッセナ師団所属であるという記述は、(他の人から聞いた話では)損害の内6割はマッセナ師団所属だったという意味で書いたのではないかと考えられる。

 サラザンの回想録に記された損害はティエボーと比較してより具体的であり割合的に似通っているため、やはりティエボーは割合の話をしたのだろう。

デュポー将軍の性質

 デュポーは、リヴォリ戦役時にオージュロー師団の前衛指揮官としてプロベラ師団と相対し、ヴァルヴァゾーネの戦い時にギウ師団の前衛指揮官としてタリアメント川の渡河を決行した士官である。

 デュポーが少将になったのは1797年3月30日であり、リヴォリ戦役時やヴァルヴァゾーネの戦い時は大佐だった。

 リヴォリ戦役時は、対峙しているオーストリア軍(プロベラ師団)にアルヴィンチの参謀長を見たと言い、兵力も誇張してナポレオンに伝え、判断を惑わす結果となった。

 1797年3月20日頃にベルナドット将軍がライン川からフランスを縦断しアルプス山脈を越えてはるばるミラノに到着したときも、宿舎の件でわざわざしなくてもいい対立をし、ベルナドットに解任されている。

 そして今回の"シトワイヤン"、"ムッシュ(サー)"事件の発端となっている。

 これらのことからデュポーは愛国心が強く、勇敢であり、部隊指揮官として優秀だが、視野が狭く、自分の考えが正しいと思い込み、自分の正義を相手に押し付け、物事を誇張して伝える性質を持っていると推測できる。

デュポー将軍のその後

 1797年、ナポレオンの兄ジョセフが教皇領の大使に任命され、ジョセフの妻ジュリーとその妹で過去にナポレオンと個人的な婚約をしていたデジレ・クラリーもローマに移り住むこととなった。

 デュポーもジョセフとともにローマに赴いた。

 デジレとの婚約を一方的に破ったナポレオンはデジレのことを気にしており、デュポー将軍をデジレに紹介し縁談をまとめようと取り計らった。

 しかし共和主義者の教皇への反乱を扇動しようとしたことが発端となって民衆の反感を招き、1797年12月28日、デュポーは教皇軍によって射殺された。

 その翌日に、デジレとの結婚を行うこととなっていたが叶うことはなかった。

 1798年、ナポレオンがエジプトに出征している時、デジレはベルナドットと出会い、同年8月に結婚した。

 デュポーは自らの欠点によって射殺され、忌々しく思っているベルナドットにデジレを奪われたのである。