ベルナドット将軍による南方軍司令官職の辞退とナポレオンとのすれ違い 
Distance between Napoleon and Bernadotte (1797)

南方軍の指揮権の行方

 ベルナドットはフリュクティドール18日のクーデターの前日、当日、翌日は姿をくらましていたが、共和派の勝利が確実となった時、再び姿を現した。

 そして共和派に力を貸したいと申し出た。

 バラスはこの申し出を快く受け入れ、ベルナドットは毎日パリの安定のために奔走した。

 1797年9月19日(補完日1日目)、ベルナドット将軍がパリに到着してすでに1ヵ月ほど経過していた。

 ベルナドットはこの日、演説を行い、この演説を聞いたバラスは「勝利者に忠実である」と確信した。

 9月20日、バラスはベルナドットが(南方軍)司令官への昇進を受け入れると想定し、ベルナドットに相談することなく任命書に署名し、26日に公報で公表した。

 しかし9月27日付けの書簡がベルナドットから送られてきた時、バラスはそれを撤回せざるを得なかった。

◎ベルナドットからの書簡の内容

「総裁政府メンバー、市民バラスへ。

 総裁閣下、あなたは私に、総裁政府が私に託したいと考えている指揮について熟考するよう依頼しました。

 私は自分に問いかけ、それに伴う義務とその遂行に必要な手段を注意深く検討しました。

 そのような重荷に耐えることができないことを認めなければならないことが私にとってどんなに苦痛であっても、あなたには率直に告白する義務があります。

 この職には深い知識、人間性の綿密な研究、そして堅実かつ融和的な性格が求められます。

 私の名誉や良心の叫び、そして祖国の役に立ちたいという私の願望により、その申し出を辞退させてください。

 良い兵士を悪い司令官に変えようと求めないでください。

 総裁政府への私の拒否をともなうものですが、どうかこの辞退を受け取ってください。

 そして私個人としては(南方軍司令官への辞令について)総裁政府への感謝の気持ちを表明できることを光栄に思います。

 あいさつと尊敬を添えて、ベルナドット。」

 

「追伸

 派閥(王党派)を鎮圧する必要があるなら、私は自分の勇気と熱烈な共和党主義を突き通すべきでしょう。

 ですが危機が去った時には、私は政府から提案された任務に対する私の能力を率直に評価した結果を提供する義務があります。」

ベルナドット師団の解体と再編成の噂

 新たな総裁政府によるベルナドット将軍の南方軍司令官への任命を知ったボナパルトは、ベルナドットとともにライン川からイタリアに来た師団の指揮を再び任せることを約束していたが、ベルナドット師団を解体して再編成を行うよう手配した。

 このことを噂として聞きつけたベルナドットはボナパルトに書簡を送った。

 

「9月27日、パリ。

 あなたが私の師団を解散し、そこから新しい師団を設立するつもりであるという噂があると聞きました。

 私がミラノを出発する前に、あなたは私に逆の約束をしたのですから、信じられません。

 その上、ご存じの通り、私の将軍、私の師団は軍における家族であり、愛着を持っています。

 私は第8、第9、第10、第20師団(南方軍の4師団)の指揮を拒否しました。

 私は十一日以内に、つまり私の手紙が届くとすぐにあなたのもとに行くつもりです。」

 

 しかしベルナドットは再びイタリアへの出発を延期し、10月1日には9月19日にヴェッツラー(Wetzlar)で急死したオッシュ将軍の葬儀に参列し、オージュロー将軍、エドゥヴィル将軍、ティリー将軍とともに棺運びを務めた。

※オッシュ将軍は熱烈な共和主義者であり、ナポレオンのライバルだった。しかも、ジョゼフィーヌの昔の愛人でもあった。オッシュ将軍の死はナポレオンの発言力を上昇させることとなった。

 南方軍司令官への任命の発表は26日、ベルナドットが噂を聞きつけたのは27日である。

 僅か1日でパリからボナパルトのいるパッサリアーノに情報が届くはずがなく、さらにそこからボナパルトがベルナドット師団の解体を指示する噂が広まってベルナドットの耳に届くはずがない。

 恐らくボナパルトとバラスはベルナドット将軍を南方軍司令官に任命することを事前に手紙などでやり取りして決定しており、9月20日にバラスがベルナドットを南方軍司令官に任命する書類に署名する前後にボナパルトはベルナドット師団の解体と再編成を指示したのだろう。

 もしかしたら、ボナパルトはベルナドットに対して良い感情を持っておらず、イタリア方面軍から追い出すために南方軍司令官職をベルナドット将軍に与えるようバラスに要請したのかもしれない。

ベルナドット将軍のイタリアへの旅立ち

 9月27日~10月3日までの間、ベルナドットがパリを離れる前、ベルナドットを戦争大臣に任命することが真剣に議論されていた。

 パリに派遣されていたボナパルトの副官ラ・ヴァレッテはこのことを知り、ボナパルトに報告した。

 バラスはベルナドットがイタリアに旅立つ前にベルナドットがどのような考えを持っているのかを探るために話し合いを行った。

 ベルナドットはバラスにインドへの遠征計画を提案した。

 バラスはインドへの遠征は間違いなくフランスの国益のみを考えて提案されたものであると感じていたが、一方で自分の国で一番になれない悲しみの結果、遠くに行って指揮を執りたい、つまり、どこにいても一番になりたいという願望から提案されたものであるとも思っていた。

 そして、この遠征計画の立案者以上にこの遠征を成功に導ける人物はいないだろうと考えていた。

 バラスはこのベルナドットの考えを聞き、戦争大臣への打診はしなかった。

 そのため「ベルナドット将軍は民衆の間で、共和主義者であるが穏健派であるとの評判を得ている」との理由で戦争大臣への任命を保留した。

 ベルナドットはそんなことを知りもせずオッシュ将軍の葬儀の後、旅支度を整えていた。

 10月3日、ベルナドットがイタリアへ旅立つ日、ベルナドットは別れの挨拶のために総裁達に謁見した。

 その際、総裁政府はベルナドットにボナパルト将軍への指示書を渡した。

 指示書の内容は、戦争を再開し北イタリアに新政府を樹立し、決してヴェネツィアをオーストリアに割譲することを望まないという趣旨のものだった。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・Dunbar Plunket Barton著「Bernadotte, the First Phase, 1763-1799」(1914)

・その他