フリュクティドール18日のクーデター 
Coup of 18 Fructidor (1797)

※「Journée célèbre du 18 fructidor an V de la République」ピエール・ガブリエル・ベルトル(Pierre Gabriel Berthault)作。1802年。

オージュロー将軍がラメル将軍の肩章を引きちぎり、肩章で顔を殴りつけた場面。

バラスの約束

 1797年8月31日か9月1日頃、クーデターを実行するとバラスは言っていたものの、共和派の総裁であるルーベルとラ・ルヴェリエールはバラスが裏切って王党派に寝返るのではないかと気が気ではなかった。

 バラスは様々な人物と密会しており、王党派議員に共和派を裏切る用意があると語ったという話も耳にしていた。

「私達は道に迷ってしまった。」とルーベルは言った。

「バラスは我々を見放し我々は殺される。もう共和国を救うことはできない。逃げる以外に選択肢はない。」

 ラ・ルヴェリエールは落ち着いて、ルーベルに答えた。

「道を譲るのではなく、バラスの元に行き、彼に力説して、説明を強く求め、毅然とした態度を示すべきだ。」

 2人はバラスの邸宅を訪れ、質問し、なぜまだためらっているのかを尋ねた。

 オージュローとともにクーデターに必要なすべての準備をするのに忙しかったバラスは、さらに4日の猶予を求め、これ以上遅らせないことを約束した。

 ルーベルは自信を取り戻し、待つことに同意した。

ラザール・カルノーという男

 1797年9月1日、クーデターの決行日時はまだ決まっていなかったが、軍の動きから間近にまで迫っているように思えた。

 共和派が軍を動かし王党派に圧力を加えており、軍による圧力は日に日に増加していた。

 カルノーとバルテルミーは不穏な気配を察していたが、それがいつ起こるのかはわからなかった。

 サンブル・エ・ムーズ軍のルモワンヌ(Louis Lemoine)将軍率いる軍もパリに向かっている途上にいた。

 軍部はほぼ共和派に握られており、王党派は対抗しようにもできない状況だった。

 穏健派のカルノーとしては王党派はこれまで正当な選挙で国民からの支持を得ており、共和派が選挙結果を汚すことがないことを願っていたが、バラスがそう遠くない未来にクーデターを実行しようとしていることを確信していた。

 そのような状況の中でもカルノーは冷静を保って自らの業務をこなし、ボナパルトにも、もしオーストリアとの戦争が再開された場合に取り得る作戦はどのようなものがあるかを尋ねていた。

 ボナパルトはフリュクティドール18日のクーデターの前日である9月3日にに返信した。

「共和歴V年フリュクティドール(実月)17日 (1797年9月3日)。パッサリアーノの本部より。

 戦争大臣は私に、戦争が再び始まった場合に取り得る作戦に関する情報を求めてきました。

 私はライン川に騎兵12,000騎と歩兵80,000人からなる軍を配置すべきだと思います。

 この軍にマンハイムを包囲させ、ライン川の4つの要塞を覆います。

 イタリアには歩兵80,000人と騎兵10,000騎がいます。

 この2つの軍に挟撃されオーストリアは領土を失うことになるでしょう。

 もしかしたらオーストリア軍は私達に害を及ぼすことはないかもしれません。

 80,000人の軍を擁すれば、自軍を維持し後方の支配者であり続けるために、常に60,000人を戦列に配置し、後方に2万人の別働隊を配置することができるからです。

 さて、60,000人の兵士が難なく90,000人に勝利できる幸福の機会は等しく訪れます。

 ですがイタリア方面軍には(オーストリア領に侵入する)80,000人の歩兵が必要となります。

 現在、イタリアには75,000人の兵士が武器を持って駐留しています。

 そのためイタリア方面軍がドイツに侵入できる歩兵は約60,000人となります。

 ピエモンテ軍は8,000人、チザルピーナ軍は2,000人を擁していますが、それでも12,000人のフランス兵が必要です。

 騎兵に関しては、フランス軍5,200騎、ピエモンテ軍800騎、チザルピーナ軍200騎、合計6,200騎です。

 それでも3,000騎の騎兵が必要となります。

 私たち(フランスとオーストリア)はすでに2回会議(モンテベッロとパッサリアーノ)を開催しており、以前の関係は良好でした。」

 この書簡がその後カルノーの元に届けられたかどうかは不明ではあるが、その内容に特筆すべきものは無く、増援を求めるに留まっていた。

 恐らくボナパルトもクーデターが近いことを察知しており、もっともらしいことを言っているように見えるが当たり障りが無い内容にしたのだろう。

共和派の窮地

 バラスとオージュローは長い間計画されていたクーデターの実行のための準備を本当にすべて整えていた。

 9月3日に射撃をともなった軍事訓練の実施が予定されており、前日にはオッシュ将軍の軍も訓練という名目で憲法上の境界線の周囲に整列し、それを越えて数時間以内にパリに向かう準備ができていた。

 こうした軍の動きは、軍を実際に動かすための準備だけでなく、クーデターでの戦闘音は訓練であると人々に思わせるためでもあった。

 ルーベルとラ・ルヴェリエールの2人の総裁でさえ、実行する時刻については知らされていなかった。

 クーデターがいつ起こるのかという緊張感の中、王党派が共和派による軍の圧力に対抗するために、9月3日の議会ではついにヴァンデミエール民兵組織の協力を得ることを決定し、ピシュグリュの提案により国家警備隊の編成を布告した。

 王党派の中でも急進的な元将軍であるウィロー(Amédée Willot)議員はこの布告は即座に行われるべきであると議長であるピシュグリュに詰め寄った。

 しかしピシュグリュは躊躇し、急進派は少数だったため執行準備は遅々として進まなかったと言われている。

 9月4日朝にはこの措置が実行され、議会は軍の撤退を命じる法令を発布することになっていた。

 これにより9月4日朝までにクーデターを実行に移さなければクーデター計画は計画のままで終わり、共和派議員は処刑される運命が定められた。

クーデターの前

 共和派議員にとってこれ以上の困難は無かった。

 何も考えず、右も左も見ずに前進しなければならない状況であり、勝つか、夜に死ぬか、座して死を待つかしか選択肢がなかった。

 この時すでにバラスはクーデターの手配をすべて完了させていた。

 午後4時、議会が終わるとバラスはオージュローの元を訪れた。

 バラスはオージュローに「決行は真夜中です。」と告げた。

 そして軍の配置と主だった命令を指示し、オージュローとともにバラスの邸宅にいるはずのルーベルとラ・ルヴェリエールの元に行った。

 共和派の大臣たちもバラスの邸宅に呼び出された。

 ルーベルとラ・ルヴェリエールは大臣たちに「祖国を脅かす差し迫った危険」を伝え、「軍が評議会のあるテュイルリー宮殿を占領する」という決議を採択した。

 しかしテュイルリー宮殿には警備隊が設置され誰も立ち入ることができないため、もし警備隊が拒否もしくは対立した場合に備えて総司令官には武力的手段を自由に使用する権限が与えられた。

 その後大臣たちはバラスの邸宅に閉じこもるように言われ、オージュローの兵士を介してでしか外部の状況を知ることができなくなった。

 クーデターの準備を整えたバラスは、オージュローに「私はあなたの近くに乗ります。」と言った。

 そして「ヌフ橋とロワイヤル橋には大砲が設置されていなければなりません。革命広場とテュイルリー広場を同時に包囲し、私は状況に応じて麾下の半旅団をリュクサンブールに駐留させるつもりです。」と伝えた。

 その後オージュローはクーデターを指揮するために軍に戻った。

フリュクティドール18日のクーデターの決行

※フリュクティドール18日のクーデター

テュイルリー宮殿でピチュグリュ一派が拘束された場面。

 9月4日午前0時、気付けのためにシャンパーニュを少し飲んだオージュローは、12,000人の軍を遂に動かしパリに引き入れた。

 テュイルリー宮殿と議事堂を包囲し、カルノーとバルテルミーを拘束するためにリュクサンブールの邸宅を襲撃した。

 しかしカルノーはクーデターの気配を察知していたのか、既に姿を消していた。

 そして夜の内に王党派の裏切りの証拠がパリの町中の壁に貼られ、ボナパルトが手に入れたピチュグリュの裏切りの証拠も貼られた。

 夜明け、オージュローはテュイルリー庭園の吊り橋(Pont tournant des Tuileries)を無理に通過する必要すらなかった。

◎テュイルリー宮殿の吊り橋

※「M. de Lambesc entrant aux Tuileries, avec un détachement de Royal-Allemand, le 12 juillet 1789.」ピエール・ガブリエル・ベルトル(Pierre Gabriel Berthault)作。1804年。

◎テュイルリー宮殿の吊り橋の位置

※1770年のチュイルリー宮殿及び庭園の見取り図。

 歩兵たちと対峙する間もなく、オージュローは「諸君らは共和主義者か?」と叫んだ。

 歩兵たちはライフルを下ろし、「オージュロー万歳!総局万歳!」と答えた。

 テュイルリー宮殿の警備隊長ラメルはクーデター軍に反発したが、捕らえられた。

 オージュローはラメルを見ると、肩章を引きちぎり、肩章で顔を殴りつけた。

 そして遂に議長ピチュグリュ一派を逮捕し、テュイルリー宮殿を占領した。

「フリュクティドール18日のクーデター」は成功し、共和派の勝利に終わった。

 バラス曰く、武力による制圧にもかかわらず1滴の血も流れておらず、このクーデターには死が存在しなかったと言われている。

カルノーの行方

 9月4日未明、カルノーはリュクサンブールの邸宅にいた。

 外には暗殺者の一団が庭の裏門に配置されており、カルノーは警備隊に言って追い払わせた。

 一団は発見されたことが分かると素直に従った。

 カルノーを逮捕するよう命令された分遣隊が出発する数分前、カルノーがまだ邸宅にいるかどうかを確かめるために補佐官が派遣された。

 カルノーはまだ邸宅にいたが、警備隊が邸宅に入った瞬間、補佐官は引き返した。

 この時すでにリュクサンブールには大砲が配備された分遣隊が向かってきていた。

 しかし、身の危険を感じたカルノーは下水路を通って逃亡した。

 下水路への最後のドアを閉めた時、射撃音が聞こえた。

 軍は下水路への通路を知らなかったため、カルノーを追うことはできなかった。

 カルノーは両手に拳銃を持って街を3時間彷徨った。

 増強された軍の包囲を掻い潜るために脇道を通り、やがて安全を求めてたどり着いた隠れ家に逃げ込み、事態が過ぎ去るのを待った。

クーデターの後

※共和歴V年フルクティドール18日のクーデターにおける王党派議員の逮捕

 クーデターが成功裏に終わるとオージュローはバラスに「独裁政権を引き継ぎ、それがすべての人の救いになるかもしれない。」と助言した。

 そしてお世辞のように思われたかもしれないこれらの発言はバラスだけに向けたものではなかった。

 オージュローはリュクサンブールの中庭へ向けて繰り返し屋上から叫んだ。

 総裁2人、議員53人、そして王党派の疑いのある多くのジャーナリストが国外追放され、カルバドス県を含む49県の選挙が中止された。

 その後、国外追放された者は主にフランス領ギアナの首都カイエンヌやオレロン島などに流刑にされることが決定され、船に乗るためにロシュフォールに移送された。

 移民や聖職者は15日以内にフランスから退去しなければ死刑が求刑され、報道は抑制され、まるでかつてのロベスピエールの恐怖が再来したかのようだったと言われている。

 一方、国外追放処分にされた中でカルノーだけはフランスからの脱出に成功し、その後ドイツ方面に向かって逃避行を続けた。

 バラスはカルノーをリュクサンブールで捕らえることができなかったことが不思議でならなかった。

 パリは軍によって包囲されており、逃げ場はないはずだった。

 9月3日午後4時に議会が終わり、その後、軍がリュクサンブールに到着するまでの間に身を隠しのだろうか?それとも変装してパリから脱出したのだろうか?

 バラスはカルノーを捕らえに行った部隊はカルノーの手の者であり、その部隊がカルノーを逃がしたのだろうと考えていた。

 慎重を期したバラスも味方であるはずのバルテルミーも気付くことができなかったほどカルノーの鮮やかな逃亡はカルノー以外の当事者達にとって謎に包まれていたのである。

 ルーベルはカルノーを取り逃した分遣隊に対し怒りを露わにしたと言われている。

フリュクティドール18日のクーデター後のボナパルトの対応

 フリュクティドール18日のクーデター後、ボナパルトの元にはタレーラン、ベルナドットを始め様々な人物からの報告や書簡が届けられた。

 クーデターが成功したことを知ったボナパルトはフランス南部の各省庁に宣言書を発送し、ボン将軍が指揮する第45半旅団と馬に乗った約50名をリヨンに、ランヌ将軍が指揮する第20軽歩兵半旅団と第9騎兵連隊をマルセイユへ派遣した。

 そしてリヨンで何が起こったのかを把握し次第、リヨンの住民に向けた宣言を行うことを予定していた。

 マルセイユに到着したランヌ将軍は南部地域で行われている謀殺を終わらせるためにマルセイユの住民に向かってこう宣言したと言われている。

「今日共謀すれば、明日には死ぬ」

参考文献References

・François Auguste Marie Alexis Mignet著「Geschichte der französischen Revolution: (1789 bis 1815)」(1848)

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・J. Wright著「History of the Revolution of the 18th Fructidor (September 4th, 1797) and of the Deportations to Guiana, in Consequence of that Revolution,第3巻:Replay of L.M.N.Carnot」(1800)

・その他