カンポ・フォルミオ条約締結前のイタリア方面での両軍の配置 
Deployment of both armies along Italy before the conclusion of the Treaty of Campo Formio. (1797)

※カンポ・フォルミオ条約締結前のイタリア方面での両軍の配置

イタリア方面でのオーストリア軍の配置

 イタリア方面の軍はインナーシュトライヒ(Innerstreich)軍とも呼ばれ、テルツィ(Terzy)砲兵大将の指揮下、115個大隊、91個中隊、94個騎兵中隊、大砲421門から成り、総兵力は騎兵18,835騎を含む112,685人だった。

 1797年9月末、これらの部隊はチロル、ケルンテン(Kärnten)、ゴリツィア、フリウーリ、イストリア、ダルマチア、リュブリャナとその周辺、そしてツィリー(Zilly)までの後方の州に分散配置されていた。

 装備の整った陸軍は、150 門の大砲の予備に加えて、78 隻の艦艇からなる橋渡し部隊を備え、イストリア、ダルマジア、トリエステ港の海岸を守るために、浮体式砲台、砲手スループ、フェルッカ船、派遣船からなる小隊を備えていた。

 既に編成されて配置についているフランス軍を阻止するため、内陸部にある予備大隊は可及的速やかに700名に増員され、そしてケルンテン州のボトルネックであるタルヴィジオとポンテッバの近くのプレディル(Predil)とヴェルツェン(Wurzen)、イゾンツォ川方面のグラディスカ、トリエステの防御陣地は強化された。

 ボナパルト将軍が侵攻してきた場合に備えて、テルツィはイタリアまたは内オーストリアのオーストリア軍へ再配置を命じた。

左翼の詳細配置(イゾンツォ川方面)

 ゴリツィアとグラディスカの近くに位置し、軍の左翼を形成していたウォリス(Wallis)将軍とハディック(Haddik)将軍の師団、計31,900人と、カルニオーラに集中していた16,114人の予備軍がゴリツィアの塹壕陣地に集結し再編成を行った。

 右翼は10個大隊、4個騎兵中隊がサレアノ(Saleano)とサングラフ(Sangraf)の塹壕陣地に配置された。

 主力部隊は20個大隊、8個中隊、44個騎兵中隊からなり、ブライニヒ(Breinich)に集結し、そしてヴィパーヴァ(Vipava)川がイゾンツォ川に流れ込むところにまで伸びた。

 イゾンツォ川の橋頭堡とヴィパーヴァ川の塹壕キャンプには9個大隊と6個騎兵中隊が配置されることになっていた。

 左翼であるハディック将軍の師団は9個大隊と15個騎兵中隊でグラディスカとカルスト地形の溝に陣地を築いた。

 前哨基地、3個大隊、5個中隊、12個騎兵中隊、合計4,000人がジュドリオ(Judrio)川沿いにヴェルサ(Versa)との合流点まで整列した。

 コボロス将軍の別動隊は8,928名を擁し、トリエステを支援した。

中央の詳細配置(ケルンテン方面)

 ホッツェ(Hotze)中将が指揮するオーストリア軍中央は27,520人を擁し、タルヴィジオ付近に集中するよう命じられていた。

右翼の詳細配置(チロル方面)

 ケルペン中将はチロル軍20,239人を指揮していた。

 第1縦隊はロヴェレトの前に整列し、第2縦隊はリーヴァ近くの地域を占領しブレシアを脅かしていた。

 そして、第3縦隊はトレントからヴァルスガーナにかけて配置されていた。

イタリア方面でのフランス軍の配置

 イタリア方面軍の野戦兵力は歩兵8個師団と騎兵2個師団、総勢約83,000人であり、その内の12,000人が騎兵だった。

 マッセナの師団は全軍の中で最も強力であり、11,000人を率いてパドヴァに駐屯していた。

 ヴェローナ周辺にはオージュロー師団、バッサーノ及びヴィチェンツァ周辺にはジュベール師団、ベッルーノ周辺にはデルマス師団、ウディネとパルマノヴァにはベルナドット師団、トレヴィーゾ周辺にはセリュリエ師団、ジェモナとオソッポ周辺にはヴィクトール師団、ヴェネツィア周辺にはバラグアイ・ディリエール師団とデュマ騎兵師団、ロヴィゴ周辺にはドゥガ騎兵師団が配置されていた。

※この時点ではオージュロー将軍とベルナドット将軍はパリに派遣されていた。

 そしてイタリア方面軍の後方ではシャンベリー周辺にケレルマン中将に率いられたアルプス方面軍がいた。

オーストリア軍の攻勢計画

 オーストリア軍は最終的な和平がならなかった時に備えて、フランス軍への攻撃を計画していた。

 チロルのケルペン中将は3個縦隊でフランス軍へ攻撃するよう命じられており、トレントからヴァルスガーナに配置されている最も強力あ第3縦隊でヴァルスガーナを通ってタリアメント川に向かい、ホッツェ将軍率いるケルンテン軍と合流する計画だった。

 もしフランス軍がアディジェ川を放棄するか兵力を少なくするかした場合、アディジェ川への攻撃も実行する必要があった。

 そしてチロル軍が動き出した時、ケルンテン軍も攻撃を開始しなければならなかった。

 ケルンテン軍は約3分の1の兵力(約9,000人)でカナーレとカポレットを経由してプステリア渓谷の峠とイゾンツォ川上部の峠を占領した後、残りの3分の2の兵力(18,000人)でポンテッバに向かう計画だった。

 もしフェッラ渓谷の出口を勢力下に置いた場合、4,000人でオソッポを攻撃し、さらにタリアメント川を遡り、ヴァルスガーナから来るチロル軍第3縦隊との連絡線を確立する。

 状況により主力軍(イゾンツォ川方面の軍)が攻撃を開始できる場合、15,000人の兵力でパルマノヴァを攻撃し、その後、主力軍はウディネへ向かう。

 しかし総司令官テルツィ将軍は同時に、兵糧の提供と退却の難しさを痛感していた。

 特にケルンテン軍の背後にはいくつかの激流があり、突然の増水を心配していたのである。

 もし攻勢を開始した場合、ケルンテン軍の退路はタルヴィジオを通過する道以外になく、包囲の危機に晒される可能性があった。

オーストリア軍視点での状況

 オーストリア軍の視点ではフランス軍は再び侵攻を開始してくるように見えた。

 サルディーニャ王国との条約によりピエモンテ軍が前線に接近し、5月にはヴェネツィア共和国を、6月にはジェノヴァ共和国を滅亡させ、フランスの姉妹国家を建国していた。

 これによりフランス軍の後方不安は大幅に緩和されることとなった。

 これを見たオーストリア軍左翼はイゾンツォ川の防備を固め、いつ戦争が始まっても対応できるよう準備を進めた。

 そしてヴェネツィア艦隊を吸収したフランス艦隊が7月にはイオニア諸島を占領し、その後クロアチア方面へ上陸してくるのではないかと考えられた。

 オーストリア軍は警戒を強め、イストリアとダルマチアを占領し、9月下旬、イオニア諸島のフランス軍への対応のためにアルバニアへ軍を進めた。

 軍事的緊張がさらに高まり、オーストリアとフランスの和平交渉は完全に決裂するかに見えた。

 そのためフランス軍が侵攻してきた場合に備えて、オーストリア軍の各指揮官は部隊間の距離を接近させ、あらゆる移動に備えるよう指示を受けた。

 9月末頃、オーストリアのイタリア陸軍左翼はカルニオーラの兵力も呼び寄せ、ゴリツィア周辺に兵力を集中させた。

参考文献References

・「Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 1-3」(1836)

・その他