【詳細解説】カンポ・フォルミオ条約の締結【第一次イタリア遠征】


本記事ではフリュクティドール18日のクーデターの後からカンポ・フォルミオ条約締結までの状況を時系列に沿って経過をまとめまています。

リヴォリの戦いでナポレオンが勝利した後、さらっとカンポ・フォルミオ条約を締結したと思われがちですが、カンポ・フォルミオ条約締結に至るまでオーストリア政府の思惑や両軍の相互不信により前線で緊張状態が続いており、和平条約交渉は決裂寸前の状況となっていました。

そのような中、ナポレオンはカンポ・フォルミオ条約を締結に導きました。

フランス軍側だけではなく、オーストリア軍側の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでカンポ・フォルミオ条約締結までのナポレオン及びイタリア方面軍を取り巻く状況について詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。

カンポ・フォルミオ条約 01 ベルナドット将軍による南方軍司令官職の辞退とナポレオンとのすれ違い

フリュクティドール18日のクーデターの後、1797年9月20日、フランスの総裁の1人であるバラスは本人の了承を得ないままベルナドット将軍を南方軍総司令官に任命する書類に署名しました。

これを受けてナポレオンもフリウーリのベルナドット師団を解体し再編成を行うよう命じました。

しかしベルナドットはこれを断り、自分の師団を解体されようとしていることを聞きつけるとナポレオンに抗議の書簡を送りました。

9月27日~10月3日までの間、ベルナドットがパリを離れる前、ベルナドットを戦争大臣に任命することが真剣に議論されました。

バラスはベルナドットがどのような考えをもっているのかを探るために面会し、ベルナドットはインドへの遠征を提案しました。

ベルナドットの提案を聞いた時、バラスはベルナドットを戦争大臣にすることを諦めました。

10月3日、ベルナドットがイタリアへ旅立つ日、ベルナドットは別れの挨拶のために総裁達に謁見しました。

その際、総裁政府はベルナドットにボナパルト将軍への指示書を渡しました。

指示書の内容は、戦争を再開し北イタリアに新政府を樹立し、ヴェネツィアをオーストリアに割譲することを決して望まないという趣旨のものでした。

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カンポ・フォルミオ条約 02 カンポ・フォルミオ条約締結前のライン方面での両軍の配置

1797年9月末、1つはドイツに、もう1つはイタリア国境にある2つのオーストリア軍は、両軍合わせて200,000人以上の兵力を擁し、再びフランス軍に立ち向かう準備を整えました。

ライン方面の主力は再びカール大公の指揮下に置かれ、116個大隊、75個中隊、186個半騎兵中隊を擁し、騎兵28,622人を含む合計129,897人を数えました。

前線はマインツ周辺からバーゼル近郊の主にライン川右岸に広がっていました。

一方、フランス軍側ではライン方面に3つの方面軍が展開されていました。

まず、ライン・モーゼル方面軍約70,000人~75,000人がバーゼルの後方から北に展開し、クロイツェナハでサンブレ・エ・ムーズ軍と繋がっていました。

次にサンブレ・エ・ムーズ軍約50,000人はクロイツェナハからオーストリア軍右翼を囲むようにフリードベルクまで展開していました。

最後に北方軍約16,000人がライン川とムーズ川の間に配置されていました。

フランス軍の合計はおよそ141,000人であり、オーストリア軍を約11,000人上回っていましたが、3つに分割されており、指揮系統も分割されていました。

指揮系統の一本化のためにライン・モーゼル方面軍とサンブル・エ・ムーズ軍はオッシュ将軍の死後、9月27日にドイツ方面軍(Armée d'Allemagne)という名のもとに統合されて一時的にサン・シール将軍が指揮を引き継ぎ、10月7日にオージュロー将軍がドイツ方面軍総司令官に任命されました。

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カンポ・フォルミオ条約 03 カンポ・フォルミオ条約締結前のイタリア方面での両軍の配置 

イタリア方面のオーストリア軍はインナーシュトライヒ(Innerstreich)軍とも呼ばれ、テルツィ(Terzy)砲兵大将の指揮下、115個大隊、91個中隊、94個騎兵中隊、大砲421門で構成され、総兵力は騎兵18,835騎を含む112,685人でした。

1797年9月末、これらの部隊は3つに分割され、チロル、ケルンテン(Kärnten)、ゴリツィア、フリウーリ、イストリア、ダルマチア、リュブリャナとその周辺、そしてツィリー(Zilly)までの後方の州に分散配置されていました。

左翼はイゾンツォ川周辺に配置され、約48,000人を有し、別動隊としてトリエステに8,928人が配置されていました。

中央は27,520人を擁し、タルヴィジオ付近に集中するよう命じられていました。

そして右翼は20,239人を擁し、トレント、ロヴェレト、リーヴァ周辺に集結し、残りは中間部隊や予備軍として配置されていました。

一方、フランスのイタリア方面軍の野戦兵力は歩兵8個師団と騎兵2個師団、総勢約83,000人であり、その内の12,000人が騎兵でした。

ミンチョ川以東からフリウーリ州に各師団がエリア分けされ、オーストリア軍がどこから攻めてきたとしても対応できるように配置されていた。

そしてイタリア方面軍の後方ではシャンベリー周辺にケレルマン中将に率いられたアルプス方面軍がいました。

レオーベン条約締結後もフランス軍は周辺の国々を滅ぼし、新たな姉妹共和国を樹立するなどオーストリアとの戦いを志向しているのではないかと思わせるような行動を行ったためオーストリアも態度を硬化させて軍備を増強し、ナポレオンも前線近くのパッサリアーノで指揮を執るなどして前線では緊張状態が続きました。

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カンポ・フォルミオ条約 04 カンポ・フォルミオ条約の締結

1797年9月13日、オーストリア大使メルヴェルト伯爵は外務大臣トゥーグトを説得して和平を成立させるためにウィーンへ旅立ちました。

ナポレオンはもしオーストリアがマインツを手放すならフランスはヴェネツィアを手放しアディジェ川までをオーストリア領とすることを考えていました。

しかし19日、メルヴェルト伯爵からの書簡を受け取ると、オーストリア政府の意図は戦いによってではなく話し合いによってオーストリアに少しでも利益をもたらすことだと感じ取りました。

そしてもし9月中に最終的な和平が締結されなかった場合、戦争も辞さないことを示唆し、フランス南部の安定のために派遣した兵力を徐々にイタリアに戻し、負傷兵を健康な兵と入れ替えるなどイタリア方面の強化を行ないました。

しかしオーストリアはイストリアやダルマチアだけでなく、アルバニアをも占領したことにより両国の軍事的緊張は高まり、10月6日時点で和平交渉は決裂寸前のように見えました。

10月11日、ナポレオンは最後の交渉のためにパッサリアーノからウディネに向かいました。

交渉が始まるとやはり対立は明確であり、オーストリア側も「戦争を恐れていない。」と主張しました。

ナポレオンは激怒して立ち上り「さて、平和は破られ、宣戦布告がなされた。しかし、秋が終わる前に、この磁器を壊すようにあなた方の君主制を壊すことを覚えておいてください。」と近くのお盆を床に叩きつけ、その上に乗っていた磁器が砕け散りました。

恐れをなしたオーストリア側は至急ウィーン政府に和平の許可を求め、背後でハンガリーとクロアチアでの反乱を抱えていたウィーン政府も交渉に限界を感じ、和平の許可を出しました。

そして10月17日、両国は遂にカンポ・フォルミオ村で第一次イタリア遠征における最終的な和平条約を締結しました。

このカンポ・フォルミオ条約の締結によってフランスに敵対している列強国はイギリスのみとなり、第一次対仏大同盟は完全に崩壊することとなり、第一次イタリア遠征は終わりを迎えました。

詳細記事ではこの時点でのナポレオンが思い描いていたエジプト遠征計画やジョゼフィーヌの指輪の伝説についても記載しています。

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参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第3巻

・Dunbar Plunket Barton著「Bernadotte, the First Phase, 1763-1799」(1914)

・Paul de Barras著「Mémoires de Barras,第3巻」(1896)

・「Streffleurs österreichische militärische Zeitschrift, Ausgaben 1-3」(1836)

・「"Pagine Friulane" periodico mensile di storia letteratura e volk-lore friulani」(1889)

・Paolo Foramitti, Daniela Pegoraro, Annarosa Toffoli 編「Al tempo di Napoleone. Leggende e racconti in Friuli」(2011)

・その他