アルコレ戦役 16:第二次バッサーノの戦い
Battle of Arcole 16

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

第二次バッサーノの戦い:戦いの前

 1796年11月5日午前11時頃、マッセナ師団はヴィチェンツァを出発し、翌6日の夜明けにリプタイと戦うために後衛を前衛としフォンタニーヴァに向かった。

 その後、ボナパルトはヴィチェンツァでオージュロー師団および予備軍と合流し、オージュロー師団は翌6日午前にカスダノウィッチと戦うためにバッサーノ方面へ向かった。

 マッセナ師団の目標はフォンタニーヴァに架かる橋を渡りブレンタ川左岸に橋頭保を確立することであり、オージュロー師団の目標はバッサーノに架かる橋を渡りバッサーノの町を占領することだった。

 オーストリア軍左翼であるプロベラ師団はフォンタニーヴァに進み、右翼であるカスダノウィッチ師団はコル・デ・グラード(Col di Grado)を占領し、ノーヴェ(Nove)とマルケザネ(Marchesane)を強く占領していた。

 ミトロフスキー旅団はブレンタ渓谷を監視し、ホーエンツォレルン旅団は予備を形成した。

 そしてアルヴィンチは本部をフォンタニーヴァに設立した。

◎第二次バッサーノの戦いにおけるフランス軍の計画

 プロベラ師団の前衛であるリプタイ旅団の先頭はブレンタ川を渡りマッセナ師団と小競り合いを行いながらカルミニャーノ(Carmignano)とオスピターレ(Ospitale)まで進んでいたが奇襲を恐れたリプタイはフォンタニーヴァの島から右岸につなぐ舟橋を一部引き上げた。

※当時のブレンタ川は2つの枝に分かれており、1つはフリオラ(Friola)からカルミニャーノ方面に、もう1つはフリオラからフォンタニーヴァ方面(現在のブレンタ川とほぼ同じ流れ)に流れていた。そのため、カルミニャーノとフォンタニーヴァの間にはそれなりの大きさの島が存在した。

第二次バッサーノの戦い:戦いの始まり

 11月6日、戦闘は夜明けとともに始まった。

 古参の200人の兵士に支えられていたリプタイは前哨基地であるカルミニャーノとオスピターレを防衛し、およそ1時間ほど交戦した。

 しかしリプタイの軽歩兵は川に投げ込まれ、フォンタニーヴァの島に後退して4個大隊で島を保持した。

 マッセナはカルミニャーノとオスピターレを占領し、フォンタニーヴァの島を越えて右岸に到達するために上流と下流に師団を広げた。

 プロベラはシュビルツ旅団とブラベック旅団を予備として保持していたが、マッセナ師団の兵力が大きくブレンタ川上流もしくは下流のどちらかから渡河してくる可能性を考えリプタイ旅団を支援しなかった。

 そのためリプタイ旅団はマッセナ師団の18門の大砲の砲火にさらされた。

 11月6日午前、ラヌッセ将軍率いるオージュロー師団の前衛は、スキアヴォーン(Schiavon)の前にあるカスダノウィッチ師団前哨基地を攻撃しノーヴェ(Nove)に後退させ、指揮官であるピアチェク(Christoph Karl von Piacsek)大佐を捕虜にした。

 ラヌッセはを指揮官無き部隊を追跡し、ノーヴェまで進出してきたガヴァッシーニ大佐率いるホーエンツォレルン旅団の前衛と遭遇した。

 一斉射撃は活気に満ちて始まった。

 銃剣を前に前進し、突撃を行った。

 そしてブレンタ川左岸にいる強力なオーストリア部隊を右岸側から2門の大砲で砲撃した。

 ガヴァッシーニ大佐はこのノーヴェでの戦闘で負傷した。

※ガヴァッシーニ大佐はバッサーノ戦役でプリモラーノとコヴォロ砦でオージュロー師団と戦い捕虜となったが、その後の捕虜交換でカスダノウィッチ師団に復帰しアルコレ戦役にも参戦していた。

◎第二次バッサーノの戦いの始まり

 ガヴァッシーニ大佐率いるホーエンツォレルン旅団前衛はノーヴェを放棄して逃亡し、300人が捕虜となった。

 しかしラヌッセ将軍はこの戦闘で2度サーベルの攻撃を受け戦線離脱した。

 指揮官無きオージュロー師団前衛は自分たちの力でその場に留まった。

※ラヌッセの代わりを上級士官が務めたのだと考えられる。

第二次バッサーノの戦い:フォンタニーヴァでの戦闘

 リプタイは大きな被害をもたらすマッセナ師団の大砲を排除するために1個大隊に命じブレンタ川の浅瀬を渡らせ大砲の元に向かわせた。

 この大隊はブレンタ川を渡り、砲台を守っていた散兵を消散させ、榴弾砲を鹵獲した。

◎フォンタニーヴァでの戦闘

 しかし散兵は1個大隊に支援されてすぐに集結しオーストリア大隊に立ち向かった。

 オーストリア大隊は100騎の猟騎兵に側面からサーベルで突撃され、ブレンタ川を渡りフォンタニーヴァの島に逃亡した。

 川を渡る際、苦労して鹵獲した榴弾砲は放棄せざるを得なかった。

 メナードとデュプイが到着し、すぐに部隊を展開させ、砲撃は戦線の全範囲に広がっった。

 オーストリア大隊が逃げた島に近づくために4回の連続した攻撃を行ったが、すべて阻まれメナード旅団は停止した。

 午後2時頃、メナードは諦めることなく騎兵隊でブレンタ川を渡ろうと試みた。

 しかし先頭の部隊が川の中心にさえ至ることなくオーストリア軍の攻撃により50騎が殺害された。

 一方的な攻撃はメナードの騎兵隊を混乱させ、右岸に後退することを余儀なくさせた。

 ルクレールはその混乱を立て直すために苦労したと言われている。

 午後3時頃、プロベラはマッセナが他の地点へ攻撃する兵力を持っていないと判断し、リプタイを支援することを決定した。

 朝からの戦闘でリプタイ旅団は1人の士官含む161人が死亡、1人の少佐と7人の士官を含む416人が負傷、80人が捕虜となっていた。

 4個大隊2,200人の内657人を失ったリプタイはドイツ・マイスター連隊と交替することとなった。

 新たな連隊との戦いにより戦闘は激しさを増した。

第二次バッサーノの戦い:オージュロー師団本体の到着

 ボナパルトがオージュロー師団の本体と予備軍とともにノーヴェに到着し前衛とともに前進した。

 途中、マロースティカ(Marostica)でホーエンツォレルン旅団の数個大隊と遭遇し撃退しつつも、アンガラノ(Angarano)の右側までオーストリア軍を追跡し一斉射撃を行った。

◎コル・デ・グラード(Col di Grado)での攻防

 ヴェルディエは1個半旅団と2門の大砲でその一斉射撃を支援した。

 しかし、コル・デ・グラード周辺に配置されていたカスダノウィッチ師団の4個大隊と有利な位置からの砲撃により前進を止められた。

 バッサーノの町のブレンタ川西岸側には町を守るように位置している3つの小さな山があり、コル・デ・グラードはその内の最も南西に位置する標高160mの山である。

 ボナパルトとオージュローは最大の力をもってコル・デ・グラードを攻撃し、コル・デ・グラードの背後(南東の地域)に侵入することによりオーストリア軍を有利な街から追い出そうとした。

 両軍、幾度かの突撃を行い一進一退の攻防が繰り広げられたが、フランス軍はコル・デ・グラードの背後に侵入することはできなかった。

 この時カスダノウィッチ師団はブレンタ川で分断されており、多くの部隊が橋を渡れずにいた。

 そのためカスダノウィッチはコル・デ・グラードを中心に防衛線を構築し、左岸側の部隊に順次橋を渡らせ前線を補強し、右岸側の予備兵が多くなったときに攻勢に出るという戦術を採用したのだと考えられる。

第二次バッサーノの戦い:ノーヴェでの戦闘

 午後4時頃、カスダノウィッチはサミュエル・ジュライ連隊所属の1個大隊にノーヴェに前進するよう命じた。

 大隊指揮官であるポストレホウスキー中佐は銃弾が飛び交う中ノーヴェ村に侵入し、銃剣によりフランス軍を村から追いやった。

 しかし再びフランス軍の攻勢が始まったことによりオーストリア軍の前線は押し下げられ、サミュエル・ジュライ連隊所属の大隊は後方を遮断され本体と切り離された。

◎ポストレホウスキー中佐のノーヴェでの孤立

 この時、予備軍を率いるボン将軍はノーヴェ村を通過しようと向かっているところだった。

 そのためポストレホウスキー中佐は麾下のクロアチア人大隊(サミュエル・ジュライ連隊所属の大隊)約600人にノーヴェ村の家屋の中に身を隠すよう命じた。

 本体と切り離されたポストレホウスキー中佐率いる大隊がノーヴェ村の家屋の中に身を潜めているとは知らず、ボン将軍率いる予備軍の大部分はこの村を通過しようとした。

 その瞬間、ポストレホウスキー中佐率いる大隊は姿を現しボン将軍率いる予備軍に奇襲を行った。

 予備軍はノーヴェから追い出され、村はオーストリア兵によって占拠された。

 ボンはノーヴェを取り戻すために村を取り囲み、榴弾砲を設置し、予備軍の主力をもって攻撃した。

 長く血なまぐさい戦闘の後、サミュエル・ジュライ連隊所属の大隊はほぼ半数を失い150人が捕虜となった。

 これによりボン将軍率いる予備軍の前線への到着は2時間遅延された。

第二次バッサーノの戦い:ホーエンツォレルンの攻勢

 サミュエル・ジュライ連隊所属の大隊がノーヴェでボン将軍率いる予備軍と戦っている頃、ホーエンツォレルン将軍は山に沿って進みマルサン(Marsan)を経由しオージュロー師団の左翼側を片翼包囲する計画をアルヴィンチに提案して許可を得ていた。

 この時にはすでにフランス軍の攻勢は下火になり、コル・デ・グラードの背後への侵入は失敗に終わっていた。

 ホーエンツォレルンは日が落ちた頃にこの計画を実行に移した。

◎ホーエンツォレルンの攻勢

 ホーエンツォレルンの騎兵隊はオージュロー師団左翼の側面を前進した。

 幾度もの突撃を阻まれたオージュロー師団にはオーストリア騎兵隊の前進を阻む余力が無かった。

 そのため強い抵抗もできず、左翼は道を譲り始めた。

 ホーエンツォレルンによって包囲の危機に晒された左翼は、後方から近付いているはずのボン将軍率いる予備軍に救援を求めた。

第二次バッサーノの戦い:マッセナ師団の後退

 午後6時頃、マッセナ師団は歩兵が弾薬を使い果たしたため後退した。

 プロベラはフォンタニーヴァを守り切り、遂にフランス軍を遠ざけることに成功したのである。

 このフォンタニーヴァでの戦闘でリプタイ将軍は乗騎が負傷して倒れた際に足にひどい打撲傷を負った。プロベラが交代するよう促したがリプタイ将軍は旅団の先頭に立ち戦闘を継続したと言われている。

 その後マッセナはカスダノウィッチ師団にとっての重要地点であるコル・デ・グラードに部隊を差し向けた。

 フォンタニーヴァでの戦闘では両軍かなりの損害があり、マッセナ師団側では約1,200人が死傷したと言われている。

第二次バッサーノの戦い:戦いの終わり

 ボン将軍がノーヴェで戦っている間、ヴェルディエの立場はますます重要になっていた。

 夜になってようやくボン将軍が前線に現れ、2個大隊を山の麓に向けた。

 そしてオーストリア軍を激しく撃退し、師団左翼との合流を果たした。

◎ボン将軍の到着

 しかしコル・デ・グラードを中心として防衛戦を繰り広げるオーストリア軍の戦列を突き崩すことはできなかった。

 オージュローは本部をノーヴェの前に設立して夜更けまで戦い、翌7日の夜明けまでカスダノウィッチと対峙した。

 この日、フランス軍は約3,000人が死傷または捕虜となり、オーストリア軍は2,774人が死傷または捕虜となったと言われている。

 第二次バッサーノの戦いにおいてフランス軍はオーストリア軍を開戦前の位置よりも後退させ優勢に戦局を進めていたように見えるが、損害は大きくブレンタ川を渡るという戦略目標も達成できなかった。

 対するオーストリア軍はバッサーノとフォンタニーヴァを守り切ることができ、フランス軍の進軍を食い止めている。

 ナポレオンはこの戦いに勝利したと言っているが、戦略的な意味合いで考えるとこの第二次バッサーノの戦いはオーストリア軍側の勝利と言える。

 ただ明確な勝利でも敗北でも無いため、痛み分けと言ったところだろう。