アルコレ戦役 05:後方への陽動とフランスの姉妹都市国家建国構想
Battle of Arcole 05

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

後方不安による兵力分散策の実行

 ボナパルトは暴動の種を蒔くために、ハンガリーでいくつかのプロパガンダを広めた。

 当時ハンガリーは1699年以降、長年にわたるオーストリアの支配下にあった。

 ハンガリーの民衆は1703年から1711年にかけて行われた独立戦争の敗北後も、オーストリアへ密かな反感を抱いていたためボナパルトはそれを利用しようとしたのである。

 ボナパルトはさらに、マントヴァ要塞を陥落させた後、トリエステ港やアドリア海にあるオーストリアの軍事施設を攻撃する態勢を整えた上で交渉を行うために、オーストリア皇帝フランツ1世に対しパリへの特使団の派遣要請を行うようフランス政府に促した。

 これに対しフランス政府は、これらの脅威が現実的なものであると見せるため、冬になる前にトリエステへの進軍を行うようボナパルトに命じた。

 しかし冬の到来前にトリエステへ進軍することは困難を極めた。

◎1796年10月1日時点における両軍の強度と位置関係

 そのためボナパルトは1796年10月2日、自らオーストリア皇帝フランツ1世宛てに筆をしたため「パリに特使団を派遣しない場合、フランス政府はイタリア方面軍にトリエステ港への進出を命令してくるだろうこと」が書かれた書簡を送った。

 この時点でのイタリア方面軍の兵力ではトリエステへの進軍は無謀であることから、これらの施策はオーストリア軍がハンガリーやトリエステ方面の防衛のために兵力を分散させることが目的だと推測できる。

ナポレオンによるフランスの姉妹国家建国構想

 これらの出来事の間、フランス共和国の支配下にあったミラノ、マントヴァ(マントヴァ要塞を除くマントヴァ州の諸都市)、ボローニャやフェラーラは強力に独立を要請し、フランス政府からの保証を求めていた。

 モデナからの独立を求め一時暴動を起こしていたレッジョもモデナ公国の手から離れミラノやボローニャ、フェラーラに加わった。

 しかしモデナは独立運動に加わることをためらっていた。

 ボナパルトはモデナ公国との休戦協定で決められた拠出金の支払いが滞っていることを口実に圧力を加え、モデナの中にフランスのパルチザン(熱心な政党支持者)を増やすことができると考えた。

 ミラノ、マントヴァ、ボローニャ、フェラーラ、レッジョにモデナを加え、将来的にピエモンテなどの周辺国や都市を平和的に併合するフランスの姉妹共和国を形成することが有用であると判断し、ボナパルトはこの構想をフランス政府に伝えた。

◎ナポレオンによるフランス姉妹国家構想

 政府はボナパルトの構想を積極的に否定することはなかったが、何も保証しないこと、トリノ政府(ピエモンテ)との同盟交渉の許可のみ同意した。

 1796年10月3日、ボナパルトはサンドス将軍率いる約2,000人のフランス兵にモデナを占領させた。

 そして10月4日、ボナパルトがモデナ公国が休戦協定を破ったことを宣言する布告を出し圧力を加えると、モデナ公国内部で革命が起こった。

◎ナポレオンによる≪ミラノからの布告文≫の意訳

「モデナ公爵はモデナ州に戻らず、いつもモデナにいない。私たち(フランスとモデナ公国)は休戦協定で同意したが、モデナ公国はフランスへの寄付金を支払わず、その代わりに、モデナとレッジョの人々に負担を負わせ、共和国の敵に有利になるように資金を使っている」

 これによりモデナの摂政は力を失い、新たに執行委員会が設置され、フランスの息のかかった7人の執行委員が任命された。

 恐らくフランスの姉妹国家を北イタリアに建国し、周辺国家を平和的に吸収することにより拡大させ、あらゆる面(資金や物資の調達、徴兵など)でイタリア方面軍を支えるという構想だったのだろうと考えられる。

 特にこの時期はオーストリア軍による3度目の侵攻が行われるだろうと思われた時期であり、ボナパルトは兵力の現地調達(徴兵)によって戦力を増強したいと考えていたのだろう。

※ナポレオンが単なる軍人なら建国して周辺都市を吸収しつつイタリア方面軍を様々な方面から支援させるという構想を持つには至らなかっただろう

 軍事面以外のこうした構想面でもナポレオンの非凡さがうかがいい知れる。

 この構想は、1796年5月、ナポレオンがロディの戦いの後に自分は特別な星の元に生まれたと思い立ち、ミラノ占領によってロンバルディアを支配し為政者として経験を積んだこと、そしてガルダ湖畔の戦いバッサーノ戦役ではイタリア方面軍は全体として数的劣勢に立たされており、これから始まるであろうオーストリア軍による侵攻作戦ではフランス軍は熱病の蔓延により弱体化した状態でオーストリア軍と対決しなければならないことなどが背景にあり、早急に具体化していったのだと考えられる。