アルコレ戦役 36:アルヴィンチの撤退とヴルムサーの出撃
Battle of Arcole 36

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

遅すぎた使者の到来

 一方マントヴァ要塞側では、11月22日夜、アルヴィンチが11月10日にモンテベッロから送った使者がマントヴァ要塞内部に到着した。

 使者はフランス軍中を通り抜けることができなかったため12日後のこの日にようやく使命を果たすことができたのである。

 そして同日、ダヴィドウィッチ師団がカステルヌォーヴォに向かっているという報が届いた。

 これらの情報によりヴルムサー元帥はオーストリアの2つの軍がどれだけ進捗したかを知り翌23日の出撃を決定した。

 しかし時すでに遅かった。

 チロル軍は11月22日時点でアラに撤退し、チロル軍の現状とこれ以上の侵攻作戦への参加は不可能であることが書かれた書簡をアルヴィンチに送っていた。

 フリウーリ軍は11月15日~17日にかけて行われたアルコレの戦いでの敗北後、一時的に退却したもののフランス軍の後退を追跡し、11月22日時点でヴェローナの前にまで進出していた。

 しかし、その数は約16,000人にまで打ち減らされておりフランス軍の防御の前にアディジェ川を渡れずにいた。

 そしてマントヴァ要塞を包囲しているフランス軍は派遣していた部隊を戻せば大幅に強化され、ボナパルトの窮地はすでに過ぎ去りマントヴァ要塞へ意識を向ける余裕ができていたのである。

フリウーリ軍の撤退と勝敗の決定

 11月23日、オージュローはシュビルツ旅団に後方を脅かされているのを見て、アディジェ川上流とペーリ周辺の山々からドルチェ方面に後退した。

 ジュベール将軍はバルド山のマドンナ・デッラ・コロナとプレアボッコまで進出した。

 マッセナ師団とヴォーボワ師団はカステルヌォーヴとその周辺に留まっていた。

 11月23日0時過ぎ頃、アルヴィンチはサン・ミケーレの前方にあるフランス軍前哨基地に対し騎兵隊で夜襲を行った。

 フランス兵は荷物を残して村に避難した。

 フリウーリ軍はカルディエーロに本部を置き、コロニョーラ、アルコレに留まっていた。

 11月23日朝、アルヴィンチは偵察からの報告によりリヴォリでの不運とチロル軍の完全な撤退を知った。

 それによりこれ以上の侵攻は不可能であると判断した。

 そして正午、ダヴィドウィッチからの書簡が届いた。

 「11月22日午前0時 アラ」と日時と場所の書かれた書簡には、ダヴィドウィッチ師団はリヴォリで敗れバルド山とアラに撤退したことなどの現状が書かれていた。

 この書簡の到着によって、今回の戦役においてダヴィドウィッチ師団がアルヴィンチの侵攻作戦に参加する機会が失われたことが決定付けられた。

 そして、この報は同時にフランス軍がダヴィドウィッチ師団を打ち破ってトレントを占領し、フリウーリ軍よりも先にヴァルスガーナを通じてバッサーノを占領するのではないかとの懸念をアルヴィンチの頭に過らせた。

 もしバッサーノだけでなくその先のヴィチェンツァやパドヴァをも占領されてしまった場合、フリウーリ軍は退路を失い完全に包囲されることになる。

 尚且つ、ヴェローナ、ロンコ、レニャーゴには強力なフランス部隊が駐留しており、ヴルムサーのようにマントヴァ要塞に逃げ込むこともできないだろう。

 そのためアルヴィンチはフリウーリ軍をブレンタ川の背後に撤退することを決断した。

◎アルヴィンチが撤退を決断した状況

 この瞬間、アルコレ戦役の勝敗は決した。

 夜、コロニョーラからの撤退を隠すためにフランス軍の前哨基地を攻撃してヴェローナに押しやり、モンテベッロへの後退を開始した。

 この日は終日マントヴァ要塞方面から砲撃音や射撃音が聞こえてきたことから、ヴルムサー元帥が以前の取り決め通りにマントヴァ要塞からの出撃を実施したのだろうとアルヴィンチは考えていた。

 しかし、ヴルムサーが成功したとしても各個撃破されるだけであり、この戦役の行く末に影響を与えることはできないだろうと考えられた。

ラ・ファヴォリータ周辺での戦闘

 11月23日、マントヴァ要塞からの出撃は夜明けとともに開始された。

 この出撃には約2,000の騎兵を含む4列約8,000人が動員され、サン・ジョルジュへ陽動攻撃を行いつつサン・アントニオとラ・ファヴォリータを占領する計画だった。

 ミンクウィッツ将軍が指揮する1列目はモンタータ(Montata)を前衛で占領し、サン・アントニオに配置されたフランス軍の側面を攻撃することだった。

 シュピーゲル将軍が指揮する2列目はサン・アントニオとドラッソを占領してサン・ジョルジュを後方から攻撃する。

 オット将軍が指揮する3列目はプラダ(Prada)またはサン・ジローラモ(San Girolamo)とベットラ(Bettola)を占領するよう指示された。

 そしてハイスター(Heister)将軍は4列目を指揮し、サン・ジョルジュに対して陽動攻撃を行うよう命じられた。

 この時マントヴァ要塞を包囲しているキルメイン師団は、師団長であるキルメインが重病により戦線離脱しておりシャボット将軍が指揮権を引き継いでいた。

 そしてさらに間の悪いことにシャボット将軍はモーリン(Moulin)将軍に任務を引き渡したばかりであり、モーリン将軍はマントヴァ周辺の地理や部隊の配置をほとんど把握していなかった。

 そしてキルメイン師団から分離された部隊は未だヴェローナとリヴォリ周辺にいた。

 シュピーゲル将軍はサン・アントニオとマントヴァネッラ(Mantovanella)を占領し、オット将軍はマルミローロとソアーヴェへの道が交差しているプラダ周辺を勢力下に置いた。

 ミンクウィッツ将軍はモンタータ、ラ・ファヴォリータ、ドラッソ、オットーネを占領し、フランス軍をサン・ジョルジュに追い込みそこで彼らを取り囲んだ。

 ハイスター将軍は戦闘開始直後に負傷して戦線離脱を余儀なくされていた。

◎マントヴァ要塞駐屯軍の出撃

 フランス軍は数的劣勢であり、どの地点でもオーストリア軍に道を譲った。

 2つの目標と他のいつくかの地域を占領し、チッタデッラ要塞から出撃したマントヴァ駐屯軍はいたるところで包囲しているフランス軍を追い払った。

 多くのフランス兵が殺され、16人の士官と197人の兵士が捕らえられ、大砲1門と弾薬などが奪われた。

 ヴルムサーの計画は無事成功したかに思えた。

 しかしオーストリア軍はサン・ジョルジュへの攻撃をあえてすぐには行わなかったため、モーリン将軍に対応する時間を与え、レイ(Rey)将軍は2,000人の援軍とともにマントヴァに向かった。

 日中、サン・アントニオとラ・ファヴォリータを防衛していた部隊は援軍を加え、塹壕から出撃してオーストリア軍を激しく攻撃した。

 フランス軍は第2列のシュピーゲル旅団を中央に押し戻し、マントヴァネッラを奪還しサン・アントニオに進軍した。

 この時、第3列を指揮するオット将軍は300人の部隊でシュピーゲル旅団を支援していた。

 しかし、持ち堪えることができず湖への撤退を余儀なくされた。

 その後、オット将軍は再びベットラに進出したが、シュピーゲル旅団にはこの行動を支援する力は残っていなかった。

 退路を遮断されることを恐れたミンクウィッツ将軍はサン・ジョルジュの包囲を解き退却を開始した。

 第4列は終日サン・ジョルジュに対して陽動攻撃を維持し、その後も両軍は様々な場所で戦闘を継続していた。

 しかしヴルムサーは捕らえたフランス士官からフランス軍が勝利しフリウーリ軍、チロル軍ともに敗退したという新たな情報を得ており、レイ将軍率いる約2,000人の援軍の到着はその情報を裏付けていた。

 そのためオーストリア軍は夜までに要塞内に撤退し、フランス軍は再びマントヴァ要塞の封鎖態勢を整えた。

 この日の戦闘でのマントヴァ駐屯軍の損害は、死者522人、負傷者176人に上り、合計789人の兵士と大砲2門を失ったと言われている。

 この戦役での敗北はヴルムサーに早期降伏の必要性を予見させた。