アルコレ戦役 19:ヴォーボワ師団のリヴォリへの到着とダヴィドウィッチ師団両翼の展開
Battle of Arcole 19

カルディエーロの戦い、アルコレの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 カルディエーロの戦い:約13,000人
アルコレの戦い:約19,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計約1,800人、大砲2門
アルコレの戦い:死傷者約3,300人、捕虜約1,200人
オーストリア カルディエーロの戦い:12,000人~16,000人
アルコレの戦い:約22,000人
カルディエーロの戦い:死傷者と捕虜の合計1,243人
アルコレの戦い:死傷者約2,070人、捕虜約4,144人、大砲11門

ダヴィドウィッチの一時停止

 11月8日午前、ダヴィドウィッチ師団の前衛がロヴェレトを占領し、ダヴィドウィッチは午後に本部とともに入った。

 そしてダヴィドウィッチはトレントからヴェローナ方面に向かう谷(ヴァッラルサやレッシーニ山脈だと考えられる)に強力な分遣隊を派遣した。

 アディジェ川下流にいるマッセナ師団とオージュロー師団の左側面を脅かし、フリウーリ軍を動きやすくすることが目的だった。

◎ダヴィドウィッチの一時停止と両翼の展開

 アディジェ川右岸のオクスカイ旅団はラヴァッツォネ(Ravazzone)とモーリを経由しバルド山に入りブレントーニコ(Brentonico)に到達した。

 しばらくしてダヴィドウィッチの元にアルヴィンチが6日夜に書いた書簡が届いた。

 そこにはブレンタ川流域まで進軍したこと、11月6日にそこでフランス軍と戦い優勢であることなどが書かれていた。

 11月2日のチェンブラ周辺での戦闘から11月7日のカッリアーノでの戦闘<2日目>までの一連の侵攻により、ダヴィドウィッチ師団は左翼はボルゴ・ヴァルスガーナ、中央はアディジェ川沿いのアラ、右翼はサルカ川上流に位置するティオーネ(Tione)にまで広域に分散していた。

 この期間の侵攻でのダヴィドウィッチ師団の損失は、死傷者と捕虜を合計して、士官47人、兵士3,520人、馬27頭であり、ヴォーボワ師団はおよそ4,500人ほどであると推定された。

 ダヴィドウィッチはすでに師団の五分の一を失っており、このまま侵攻を続けた場合持ち場を放棄するなど秩序を失う危険性が増していた。

 特にダヴィドウィッチ師団の中核であるビカソヴィッチ旅団とスポーク旅団は常に激戦の中に身を置いていたため損害が酷かったと考えられる。

 そのためダヴィドウィッチは師団の再編成を行うためにこの2つの旅団の前進を停止させた。

ヴォーボワ師団のリヴォリへの到着とダヴィドウィッチ師団両翼の展開

 11月8日、アルヴィンチはヴィチェンツァに進み、前衛であるホーエンツォレルンは夕方にオルモ(Olmo)に到達した。

 ブレンタ渓谷のミトロフスキー旅団もヴィチェンツァの近くに移動した。

 アルヴィンチはヴィチェンツァに入ると、ダヴィドウィッチがヴォーボワを撃破してトレントを占領しカッリアーノまで進んだという連絡を受け取った。

 第二次バッサーノの戦いではフランス軍の強い抵抗があったものの全体としてはほぼアルヴィンチの計画通りに進んでいた。

 対するフランス軍はフリウーリ軍に追われてヴィッラノーヴァ(Villanova)に現れ、その後衛部隊はトッリ・ディ・コンフィーネ(Torri di Confine)にあった。

◎全体の位置関係

 ボナパルトは午後にヴェローナに到着し、アディジェ川を越えた。

 マントヴァ要塞を包囲しているシャボット(Chabot)師団とダルマーニュ師団は、その列の中央に1,500人の予備軍を配置し、状況に対応できるよう準備を整えた。

 ボーモントは封鎖騎兵隊を指揮し、キルメインは師団本部をロヴェルベッラに移した。

 ヴォーボワ師団側では、ジュベールがマントヴァ包囲軍から持ち込まれた1個軽歩兵半旅団を率いてコロナに到達した。

 同時に、ヴォーボワはリヴォリで態勢を立て直しコロナへ部隊を派遣した。

 そして夜までにフェラーラ、コロナ、リヴォリで防備を固めた。

 夜、ボナパルトはダヴィドウィッチを食い止めるべく、「ガルダ湖畔の戦い」においてコロナとリヴォリでの防衛経験のあるマッセナにヴォーボワ師団本部に向かうよう命じた。

 11月8日、ダヴィドウィッチ師団の中心はロヴェレトからセッラヴァッレの近くにあり、その前衛はアラの手前にあった。

 左翼側ではセウレン中佐がヴァラッサ(Vallalsa)と隣接する谷の確保のために向かった。

 その周辺のフランス分遣隊はセウレン中佐の部隊が近づくとすぐに撤退していった。

 右翼側ではラウドン将軍が11月8日から9日にかけてオクスカイ将軍と緊密に連絡を取り合い、サルカ川のティオーネ、キエーゼ川のコンディーノ(Condino)、ノーチェ川のマレ(Male)、オリオ川の源流のポンテ・ディ・レーニョ(Ponte di Legno)まで占領した。

 オクスカイ将軍は再編成が終わるのをブレントーニコ(Brentonico)で待ち、バルド山頂上へのルートの確保のみに留めた。

アルヴィンチからの命令

 11月9日午前7時15分頃、アルヴィンチが7日夜に送った書簡がロヴェレトにいるダヴィドウィッチの手元に届いた。

 書簡には、ブレンタでの戦闘(第二次バッサーノの戦い)に関する詳細な情報が書いてあり、フランス軍の背後にあるアディジェ川の右岸を下ってヴェローナ近くの平原に進むか、それが実行不可能な場合はロヴェレトとアラを奪い、レッシーニ山脈に入りルーゴ(Lugo)を経由してヴェローナに進軍するようにという内容の指示が書かれていた。

 しかし書簡を受け取った時点でダヴィドウィッチはすでにロヴェレトを占領し、前衛はアラの近くまで進み、アディジェ川右岸側ではバルド山への侵入を果たしていた。

 ダヴィドウィッチは左翼のセウレン中佐にヴァラッサを経由しヴァルパンテナ(Valpantena)にあるルーゴ(Lugo)に向かって前進し、フリウーリ軍と接触するよう命令した。