マルタ戦役 07:聖ヨハネ騎士団のマルタ追放とナポレオンのエジプトへの旅立ち 
Surrender of Malta

マルタの共和国化

 ボナパルトはマルタ軍を無力にし、フランス軍を強化するために戦列艦2隻、フリゲート艦1隻、ガレー船4隻、大砲1,200門、火薬150万ポンド、マスケット銃4万挺を接収し、エジプトへの遠征準備に取り掛かるためにレイニエ師団、バラグアイ・ディリエール師団、ドゼー師団が占領している地域をヴォーボワ師団の部隊と入れ換えた。

 そしてマルタ降伏に貢献したフランス人騎士ランシジャットを10人で構成される新たな政府委員会の委員長に据え、マルタの運営を一任した。

 ボナパルトはこの長く聖ヨハネ騎士団に支配されていた封建的なマルタを近代的な共和国に生まれ変わらせようと統治の指針を示そうとした。

 華やかなヴァレッタの市壁の外には悲惨な農民の住居が点在しており、地方の統治にも積極的に乗り出した。

 ボナパルトは公衆衛生、財政、教育の向上に積極的であり、公立学校の建設を命じ、12の地方自治体を管理運営するために60人のマルタの代表者を任命し、自治体1つにつき5人の議員を割り当てた。

 聖ヨハネ騎士団や教会が統治していた時はマルタ国民は無知のままであることが望ましかったが、共和国では国民自身が選挙を行い国家や地方自治体の管理運営をしなければならないため、国民が無知のままでは愚かな選択がまかり通ってしまうのである。

 さらにボナパルトは共和国に必要な法律の整備を行ない、6日間のマルタ滞在の間に数多くの法令を発布した。

 かつてチザルピーナ共和国などを建国した時の憲法を作った経験や過去に読んだ法律書の知識が役に立った。

 そしてマルタで奉仕していた奴隷の解放を行った。

 このようにしてボナパルトはマルタを近代的な共和国に作り上げようとした。

※ナポレオンは封建制だったマルタを共和制に移行しようとしたが、チザルピーナ共和国やリグーリア共和国、ローマ共和国などと同様にフランス軍の意向によってその運営は左右された。

 しかし、これらの施策は教会や特権階級の者達にとっては不都合なものだった。

聖ヨハネ騎士団のマルタからの追放とエジプトへの旅立ち

 1798年6月16日、マルタがフランス領となってから4日が経過した頃、主権を失った哀れな聖ヨハネ騎士団に対して一定の譲歩と特権を確保したいと考えていたホンペシュは、ボナパルト将軍と会見を行なうことを決意した。

 ホンペシュは騎士の一団を引き連れ、階級の勲章を剥ぎ取ってボナパルトの前に現れた。

 ホンペシュはボナパルトに対して礼儀正しいとは言えない態度でこれらのことを要求したが拒否され、短い会見はホンペシュの望むようにはならなかった。

 ホンペシュがフランス軍総司令部を離れるやいなや、ボナパルトは聖ヨハネ騎士団に対して退去命令を下した。

 短い者で3時間以内、長い者で3日以内の退去が命じられた。

 ホンペシュはボナパルトに強く懇願し、騎士団が崇拝していた3つの聖遺物と総長の宮殿に所蔵されていた宝石の一部を持ち出す許可が得られた。

 3つの聖遺物とは、聖ヨハネ騎士団が聖地エルサレムで所有していた「ナザレのイエスが磔にされた真の十字架の一部」、「洗礼者ヨハネの右手」、そして聖ヨハネ騎士団の守護聖人聖母マリアが描かれている「フィレルモの聖母の聖像画」である。

※現在、3つの聖遺物の内の「真の十字架の一部」と「洗礼者ヨハネの右手の一部」はモンテネグロのツェティニェ修道院(Cetinje Monastery)に保管されている。

 しかしボナパルトは聖遺物を入れていた箱や聖ヨハネの右手の指に嵌められていたダイヤモンドなどの聖遺物を飾っていた装飾品の持ち出しは許可せず、これらは裸のまま聖ヨハネ騎士団に引き渡された。

 6月17日、ホンペシュは夜の最も静かな時間に島を去るために、6月18日午前2時に市の門を開けるようボナパルトに要請した。

 そして12人の騎士を伴ってその時刻に市門を通り、トリエステ行きの商船に乗船し、フランスのフリゲート艦に護衛されてマルタ島を後にした。

 ホンペシュが島を去った後、修道院などから剝ぎ取られ、略奪されたすべての金銀板、宝石、その他の貴重品は、 「オリエント」と「センシブル(Sensible)」に積み込まれた。

 「センシブル」には健康不良(怪我か病気かは不明)のバラグアイ・ディリエール将軍が乗船し、奪ったマルタ軍旗をパリに送る役目を担った。

 バラグアイ・ディリエール将軍の後任はメヌー(Menou)将軍が任命され、師団を率いることとなった。

 ボナパルトも旗艦「オリエント」に乗船し、翌19日、ヴォーボワ師団3,053人、5個砲兵中隊、医療部隊1個をマルタに残し、エジプトへ向けて出航した。

マルタへ向かうネルソン戦隊

1798年6月12日~20日までのネルソン戦隊とフランス艦隊の動き

※1798年6月12日~20日までのネルソン戦隊とフランス艦隊の動き。

 1798年6月12日、ナポレオンがヴァレッタに上陸した頃、ネルソンはコルス岬を通過してエルバ島沖にいた。

 6月13日、タラモネ湾を捜索したがフランス艦隊はおらず、翌14日にチヴィタヴェッキアに到着したがやはりそこにもフランス艦隊の姿はなかった。

 しかしネルソンはそこでチュニジアの艦船からおよそ200隻ものフランス艦隊が6月4日にシチリア島北西を東に進んでいたという情報を得た。

 そのため6月14日正午にチヴィタヴェッキアを離れ、フランス艦隊の後を追うのではなくシチリア島の東側を進むルートを選択し、フランス艦隊に追い付こうとした。

 6月15日、ローマとナポリの間に位置するポンツァ諸島(Ponza Islands)沖に到着したが、やはりフランス艦隊の姿は見当たらなかった。

 もしフランス艦隊の目的がシチリア島の占領だった場合、その情報はこの時点で手に入るはずであるが、フランス軍がシチリア島に上陸したという情報も無かった。

 そのためネルソンは、もしフランス艦隊がシチリアを通過したと仮定した場合、フランス軍はアレクサンドリアを占領し、インドに軍隊を派遣するという計画を進めているのではないかと推測した。

 しかし海は広く、フリゲート艦なしでは戦隊の視界は狭いままであるため、フリゲート艦を派遣してもらえるようジャービス提督とナポリ王国政府に要請した。

 6月17日、ネルソンはナポリ湾に到着した。

※ネルソンはここで駐ナポリ大使ハミルトン卿と会った際、その妻で将来のネルソンの愛人となるエマ・ハミルトンと出会った。

 そして6月18日、トロウブリッジ艦長から「フランス艦隊がマルタに向かっている。」との報告がもたらされた。

 ネルソンはすぐにナポリを旅立ってシチリア島東端にあるトッレ・ファロ(Torre Faro)へ向かい、20日、トッレ・ファロからマルタに向けて出航した。

 一方その頃、6月初旬の段階でネルソン戦隊に合流せず独自でフランス艦隊を捜索していたジョージ・ジョンストン・ホープ(George Johnstone Hope)大佐は、サルディーニャ島西側で艦船を分散させて捜索させていたが発見できず、フリゲート艦「テルプシコーリ」と「シーホース」、「ボンヌ・シトイエンヌ」など数隻をチュニス方面(シチリア海峡方面)へと振り向けて捜索範囲を広げようとしていた。

※ネルソンは6月初旬にホープ大佐が戦隊に合流せずフリゲート艦を麾下に加えることができなかったことに不満を漏らしていた。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・Whitworth Porter著「A History of the Fortress of Malta」(1858)

・Whitworth Porter著「History of the Knights of Malta or the Order of the Hospital of St. John of Jerusalem,第2巻」(1858)

・Vincenzo Busuttil著「A Summary of the History of Malta : Containing an Abridged History of the order of ST.John of Jerusalem from it's foundation to it's establishment in Malta」(1894)

・その他