マルタ戦役 05:ナポレオンによる聖ヨハネ騎士団領マルタ上陸作戦の開始 
Napoleon begins landing operations on Malta, territory of the Knights of St. John.

フランスのマルタ侵攻

※「フランスのマルタ侵攻」作者不明。艦砲の支援の下でフランス軍がボートに乗りマルタ島に上陸しようとしている場面。

マルタ島及びゴゾ島上陸作戦の開始

ナポレオンによるマルタ侵攻の開始

※ナポレオンによるマルタ侵攻の開始

 6月10日日曜日午前4時、フランス軍の上陸作戦が開始された。

 フランス軍は総司令官の命令に従って11の地点から上陸作戦を決行した。

 上陸作戦が開始されて間もなく、聖ヨハネ騎士団内では騎士ランシジャット(Ransijat)が「戦いの義務はトルコと戦う時のみであり、祖国と戦うことなど考えられない。私は中立を貫く。」として戦いを拒否し、サン・アンジェロ要塞に投獄された。

マルサシュロック担当のドゼー師団の侵攻状況

 ドゼー師団はデリマラとビルジェブジャから上陸しようとした。

 ビルジェブジャ周辺(ベンギサ塔の辺り)は内部反乱などのため抵抗少なく上陸できたが、騎士ド・ラ・ゲリヴィエール率いるデリマラ周辺とローハン要塞はドゼー師団に強く抵抗した。

 ドゼー将軍はデリマラの守備隊をリカソーリ要塞とコットネラ要塞線に撤退させた後、ローハン要塞を包囲しつつ港を制圧し、リカソーリ要塞とコットネラ要塞線を目指して進軍した。

 その後、ドゼー師団はリカソーリ要塞とコットネラ要塞を包囲し、左翼をマルサ(Marsa)に延ばしてヴォーボワ師団との連絡を確立した。

ヴァレッタ担当のクレベール師団の侵攻状況

 クレベール師団はティニエ要塞、セント・エルモ要塞、リカソーリ要塞周辺に攻撃を仕掛け、上陸しようとした。

 フランス軍はボートで(恐らくリカソーリ要塞周辺に)上陸しようとしたが、それを阻止するために騎士団長ド・ソウビラス(de Soubiras)指揮下の船団がコスクピアからオールを漕いで出撃した。

 これを見たフランスの艦船はボートを守るためにそこへ向かおうとしたが、風が無かったため見守ることしかできなかった。

 ソウビラスの船団はフランスのボートに損害を与えたが、風が吹き始めたためフランス艦船はボートの救援に向かい、ソウビラスの船団をグランドハーバー内に撤退させた。

 フランス軍はマルサムシェット港にも侵入しようと試みたがマノエル要塞に配備されたガレー船団とセント・エルモ要塞及びティニエ要塞などからの砲撃により撃退され、リカソーリ要塞へのその他の攻撃もすべて撃退された。

セント・ジュリアン及びセント・ジョージ担当のヴォーボワ師団の侵攻状況

 ヴォーボワ師団はセント・ジュリアンとセント・ジョージから上陸しようとした。

 これらの地点は約1,300人の兵力によって防衛されており、フランス軍を撃退するための兵力は十分にあった。

 しかし聖ヨハネ騎士の裏切りは顕著だった。

 騎士たちはフランス軍への発砲を禁じただけでなく、中には部下たちを見捨てて公然とフランス軍の元に行った者さえいた。

 実際、セント・ジュリアンの砲台から砲弾は一発も発射されなかったと言われている。

 そのためセント・ジュリアン湾とセント・ジョージ湾への上陸は容易に成功した。

 ヴォーボワ将軍は計画通りに5個大隊を有するマルモン旅団でティニエ要塞、マノエル要塞、フロリアーナ要塞線を包囲してドゼー師団左翼と連絡を繋ぎ、ランヌ旅団でマドリエナ塔などの沿岸部の防衛施設とガールグール村を占領し村に総司令部を設置した。

 そしてヴォーボワ将軍は別動隊を組織してイムディーナへ向かった。

 マルタ島南部では、ナドゥール塹壕を防衛していが後方からヴォーボワ師団の一部が近づいて来ているという情報のためにイムディーナに後退していたトンマシ執行官が民衆の混乱を沈静化させようと奔走していた。

 しかし自分の身が危うくなり、数人の部下とともにイムディーナを去り、ヴァレッタに逃亡した。

 イムディーナに到着したヴォーボワは町の混乱を見て、「この軍事行動は聖ヨハネ騎士団に対するものであり、マルタ人に対するものではない。」と降伏を呼び掛けた。

 イムディーナ行政府はイムディーナ大学で緊急会議を開き、「マルタ人の特権と法を認め、財産を保全し、マルタ人の宗教に敬意を払うこと」を条件として降伏することを決定した。

 そして占領軍と良好な関係を築くためにヴォーボワ将軍を夕食に招待した。

 一方、マルモン旅団はマルタ軍の強力な抵抗に苦戦し、ティニエ要塞、マノエル要塞、フロリアーナ要塞線を包囲したもののすべての攻撃は撃退され、占領できずにいた。

 マルモン大佐はフロリアーナ要塞線側で撤退をすると見せかけてマルタ軍のボンブ門(Porte des Bombes)からの出撃を誘引し、待ち伏せをしていた部隊がマスケット銃の集中砲火で痛撃を与えた。

 これによりマルタ軍の出撃部隊はフロリアーナ要塞線への後退を余儀なくされ、フロリアーナ要塞線内に封じ込められた。

セント・ポールズ・ベイ担当のバラグアイ・ディリエール師団の侵攻状況

 バラグアイ・ディリエール師団はメリーハ湾とセント・ポールズ湾から上陸しようとした。

 上陸は大した抵抗も無くスムーズに進み、メリーハ湾から上陸した部隊は聖アガサ要塞に肉薄し、メリーハの町の北側から迫った。

 セント・ポールズ湾から上陸した部隊は沿岸部を制圧した後、3方向に分かれた。

 1つ目はヴォーボワ師団との連絡を確立するためにマドリエナ塔方面に向かう部隊。

 2つ目はメリーハの高台を占領してメリーハ湾から上陸した部隊とともにメリーハの町を占領する部隊。

 3つ目は主力であり、イムディーナの占領を目的とした部隊である。

 バラグアイ・ディリエール師団は瞬く間にメリーハを占領し、ヴォーボワ師団との連絡を確立した。

 そしてバラグアイ・ディリエール師団主力がイムディーナに到着した時、既にヴォーボワ将軍に降伏した町があった。

ゴゾ島担当のレイニエ師団

 ゴゾ島ではレイニエ師団がラムラ湾(Ramla Bay)とサン・ブラス湾(San Blas Bay)から上陸しようとした。

 ゴゾ島は約2,300人の守備隊で防衛されていた。

 そして逆風が吹いていたため、その風の方向が変わるまで待たなければならなかった。

 午後1時、遂に風の方向が変わり上陸作戦を開始した。

 ゴゾ島のマルタ軍は、ラムラ湾を守るベランクール砲台とジロンダ砲台、サン・ブラス湾を守るソプ塔からの砲撃、そして崖の上からのマスケット銃での射撃によってフランス軍の上陸を阻もうとした。

 特にソプ塔は激しく上陸を阻み、レイニエ師団は艦船からの支援砲撃を行なったがサン・ブラス湾からの上陸を諦めた。

 そして戦力をサン・ブラス湾の西の崖ルドゥム・イル-クビール(Rdum il-Kbir)周辺からラムラ湾までの間に集中した。

 そこでも激しい戦闘が繰り広げられたが、艦船からの支援砲撃もあって上陸に成功し、ベランクール砲台、ジロンダ砲台、そしてソプ塔の占領に成功した。

 レイニエ将軍は部隊を2つに分割し、1つはナドゥール(Nadur)を経由してガインシレムにあるシャンブレー要塞へ向かわせ、もう1つはシャゲラ(Xagħra)を経由してチッタデッラのあるラバトへ向かわせた。

 ガインシレム側では近隣の住民達が牛などを連れてシャンブレー要塞に避難しており、シャンブレー要塞は72門の大砲が配備され、要塞は騎士団長ド・メグリニーが指揮を執り抵抗の姿勢を見せていた。

 砲撃の応酬が続いたが、レイニエ将軍は部隊を要塞前に整列させ、守備隊に降伏勧告を行った。

 これを見たド・メグリニーは住民の安全と引き換えに降伏を受け入れた。

 シャンブレー要塞内に避難していた住民達はその後、牛などの家畜を連れて家に戻って行った。

 一方、ラバト側では、戦いが繰り広げられていた。

 チッタデッラはフランスの攻撃を撃退し持ち堪えていたが、日暮れまでにフランス軍によって占領された。

上陸に抵抗したフランス人騎士を見たナポレオンのエピソード

 この上陸作戦中に数人の騎士が捕虜となりボナパルトの前に連行された。

 ボナパルトは祖国に対して武器を取ったフランス人を見て強い憤りを露わにした。

 「どうして私は祖国に対して武器を取った騎士たちに会わなければならないのですか?あなたたち全員を撃つよう指示を出さなければなりません。ヨーロッパ全土を征服し服従させた軍隊に対して、少数の哀れな農民たちで身を守ることができるなどとどうしてできると信じられるのでしょうか?」

 それにもかかわらず、ボナパルトは捕虜をよく扱うよう指示を出した。

ヴォーボワ師団の略奪の痕跡

 これらの占領時に、ナッシャー(Naxxar)、リーヤ(Lija)、バルザン(Balzan)、ビルキルカラ(Birkirkara)、コルミ(Qormi)においてフランス兵による略奪、家畜の殺害、強姦などが行なわれたとの証言があり、実際、教会の資料などにも略奪の記録が残されている。

 ナッシャーは上陸軍総司令部の置かれたガールグールのすぐ南の地域であり、コルミはマルモン旅団が占領を担当した地域、そしてリーヤ、バルザン、ビルキルカラはナッシャーとコルミの間にある地域である。

 これらの地域はヴォーボワ師団の担当地域であるため、ヴォーボワ師団が略奪などを行なったのだろうと推測できる。

 Margaret S. Chrisawn著「Tne Emperor's Friend(皇帝の友)」には、6月9日、ナポレオンが武力行使しないよう厳命しているにも関わらずランヌ将軍が巡視と称してマルタ島に上陸して瞬く間に海岸沿いを制圧し、目標の1つであるサン・カトリーヌ要塞に向かう途中、フランス兵による修道院への略奪の現場に出くわしそれを阻止したというエピソードがある。

※被服担当官フランソワ・ベルノワイエ(François Bernoyer)の手紙を元としたのだろうと考えられる。

 ただ、このエピソードは史実では無い可能性が高い。

 まず上陸作戦が開始された日時は6月10日午前4時であり、ランヌ旅団はマルモン旅団の次に上陸を行なう計画だった。

 何か都合の悪いことを隠したり、良いことのように上書きしようとする際、日時や場所をズラすのは常套手段であるため日時や場所の間違いは信用が下がる要因である。

※ナポレオンも第一次イタリア遠征で多くの損害を出した「コッセリア城の戦い」を報告する際、場所をズラして「ミッレージモの戦い」と報告している。

 次にナポレオンが武力行使しないよう厳命していたとあるが、ナポレオンは初めから武力でマルタを占領するつもりであり、上陸計画を綿密に練って上陸作戦の手配をしていた。

 最後にサン・カトリーヌ要塞が見当たらない。サン・マルコ塔やカレト・マルク(Qalet Marku)要塞はあるが塔と小砦であるし周辺にもそのような名前の要塞は無い。

 しかし6月10日以降、ランヌ旅団及びマルモン旅団の所属するヴォーボワ師団の担当地域で略奪が行なわれていたことは事実である。

 ランヌ将軍やマルモン大佐は略奪しないよう厳命できる立場であるにも関わらず、ランヌ将軍やマルモン大佐の担当地域には略奪などの証言や証拠が多く残されている。

 ヴォーボワ将軍が略奪を容認、もしくは推奨していた可能性も考えられ、それと同時にこのランヌ将軍のエピソードはランヌ将軍の略奪を隠すために広めようとしたものである可能性も考えられる。

 もちろんヴォーボワ将軍が略奪を容認し、ランヌ将軍はそれに反対であり、実際にこれに類するようなエピソードがあったという可能性もある。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Whitworth Porter著「A History of the Fortress of Malta」(1858)

・Whitworth Porter著「History of the Knights of Malta or the Order of the Hospital of St. John of Jerusalem,第2巻」(1858)

・Vincenzo Busuttil著「A Summary of the History of Malta : Containing an Abridged History of the order of ST.John of Jerusalem from it's foundation to it's establishment in Malta」(1894)

・その他