マルタ戦役 02:ナポレオンのマルタ島到着と上陸準備 
Preparing for landing on Malta

マルタ島到着

フランス艦隊のマルタ島到着

 1798年6月6日、フランス艦隊の先遣隊18隻が現れ、グランドハーバーに向かって進んだ。

 砲艦を先頭に帆を張ってセント・エルモ要塞に向けて操縦し、緊急対応が必要な艦があり漏水箇所の修理をしたいと要求した。

 その結果、60門の大砲を有するフリゲート艦1隻が修理のための入港を認められた。

 他の17隻の艦船は港外に停泊した。

 その後、2隻のフリゲート艦によって護衛され、兵士を満載した70隻の輸送船で構成されたフランス艦隊が島の前に現れた。

 そして数隻の船舶が港と水域に入る許可を求め、その内の2隻が輸送の目的で許可された。

 フランス艦のグランドハーバーへの訪問は、騎士と人々の間に最大の不安を引き起こした。

「目的地は不明だがフランス軍がトゥーロンで遠征準備をしている。」という数人の騎士団長からの警告にもかかわらず、聖ヨハネ騎士団第71代総長フェルディナンド・フォン・ホンペシュ・ツー・ボルハイム(Ferdinand von Hompesch zu Bolheim)は「フランス軍の目的はポルトガルかアイルランドである。」としてまともに受け止めず、この時マルタ島は緩い警備状態のままに置かれていた。

 しかしフランス艦隊の出現により急遽戦闘準備が同時に行われることとなった。

 ボナパルトは先にマルタ沖に到着した船団(ドゼー将軍率いるチヴィタヴェッキア船団)にヴァレッタの港を封鎖するよう命じ、フランス軍の船にそれと分かるようマークを付けさせ、上陸作戦開始のための装備品などの検査を翌7日に行なうよう命じた。

マルタ島の封鎖と聖ヨハネ騎士団への要求

聖ヨハネ騎士団第71代総長「フェルディナンド・フォン・ホンペシュ・ツー・ボルハイム(Ferdinand von Hompesch zu Bolheim)」

※聖ヨハネ騎士団第71代総長「フェルディナンド・フォン・ホンペシュ・ツー・ボルハイム(Ferdinand von Hompesch zu Bolheim)」

 6月9日までの間に、旗艦「オリエント」含むフランス艦隊主力の各船団が続々と合流し、明らかに敵対的な態度でヴァレッタの港を封鎖した。

 これを見たマルタ人は驚いてパニックとなり、恐怖は島全体に瞬時に広がった。

 ボナパルトは上陸準備を整えつつフランス駐マルタ領事カルソン(Caruson)を介してホンペシュに、水の補給のためにヴァレッタの港であるグランドハーバーへの全艦隊の自由な入港と、軍の上陸許可を求めた。

 総長ホンペシュは戦争評議会の助言により、次のような答えを返した。

「一度に4隻以上の軍艦の入港を許可するのは騎士団の規則に反します。この規則は騎士団総長も廃止できる立場にはありません。しかし可能な限りの援助と軽食は提供し、分配する用意があります。」

 この返答は領事カルソンによって旗艦「オリエント」に持ち込まれ、同時にマルタ内部で反逆が蔓延していることをボナパルトに知らせた。

 カルソンがボナパルトに家族が迫害や暴行をされるのを恐れて町に戻ることを許可するよう強く求めたとき、次のように言って思い留まらせたと言われている。

 「もしあなたの家族に何かが起こったら、私はグランドマスター(聖ヨハネ騎士団総長のこと)に個人的な責任を負わせます。彼は私が要求した水を拒否しました、そして私は自分で水を取りに行きます。彼が私を阻止できるかどうか見てみましょう。」

マルタ島とゴゾ島への上陸準備と宣戦布告

 6月9日夜、マルタ島とゴゾ島の周辺に各船団を配置した。

 夜闇の中、ドゼー将軍の船団はマルサシュロック(Marsaxlokk)の沖合、バラグアイ・ディリエール将軍の船団はセント・ポールズ・ベイ(St. Paul's Bay)の沖合、レイニエ将軍の船団はゴゾ島のナドゥール(Nadur)北の海岸沖、自身はクレベール将軍の船団とヴォーボワ将軍の船団とともにマルタ島の首都であるヴァレッタ(Valletta)の沖合に停泊した。

 6月10日未明、ボナパルトはホンペシュの返答に対し、「その目的のために一度に4隻の船舶しか入港を許可されないことにとても憤慨しています。このような制限下では、400隻か500隻の船に水を供給するにはかなりの時間がかかるためです。そしてマルタ島がイギリス艦隊に与えた許可だけでなく、あなたの前任者が出した布告についてよく知っており、あなたの拒否には驚いています。そのため、あなたの命令の基礎を形成するもてなしの原則によって我々に与えられるべきものを力ずくで獲得することを決意しました。私の指揮下にある軍は非常に強力であり、あなたの騎士団が彼らに抵抗することは不可能でしょう。しかし、マルタ人の宗教、習慣、財産は細心の注意を払って尊重されるべきであると厳命しています。」との内容をカルソンに伝え、書簡を書かせて返答した。

 ボナパルトは元々マルタ島を占領するつもりであり、侵攻する口実が欲しいだけだった。

ラシュタットからの暗号文の真偽

 ラシュタット会議で聖ヨハネ騎士団の特使を務めたド・シェナウ執行官(Balliff de Schenau)は、1798年3月にホンペシュへ次のような内容の暗号文を送ったと言われている。

「トゥーロンで準備中の遠征はマルタとエジプトに向けられていると猊下に警告します。フランス共和国の閣僚の一人、トレイヤール(Jean-Baptiste Treilhard)氏(ラシュタット会議におけるフランス側の全権公使)の私設秘書からもらったものです。あなたは間違いなく攻撃されるでしょう。 そのため自分を守るために必要な措置を講じてください。私と同様に、騎士団と同盟を結んでいるあらゆる勢力の大臣たちに警告を発します。しかし彼らは、マルタの要塞が難攻不落であること、もしくは少なくとも3ヵ月は抵抗できることを知っています。したがって猊下に警告してください。あなた自身の名誉と教団の維持の両方が危険にさらされています。もし防御なしに降伏すれば、ヨーロッパ全土の目に恥をかくことになるでしょう。ここでは、この遠征はボナパルトにとって恥辱となる可能性が高いと見なされています。彼には2人の強力な敵がおり、彼らはこの機会を利用して彼を排除しようとしています、ルーベルとラ・ルヴェリエール=ルポーです。」

 まず、ド・シャナウ執行官がいつ頃情報を入手したのかの時系列を整理すると、トレイヤールは1797年12月~1798年5月までラシュタット会議の全権公使であり、5月15日からヌフシャトーに代わって総裁の1人となっている。

 エジプト遠征は1798年3月5日に決定されており、ド・シャナウ執行官は3月に聖ヨハネ騎士団総長ホンペシュに送っている。

 そのため、ド・シャナウ執行官は1798年3月中にトレイヤールの私設秘書から情報を得て、聖ヨハネ騎士団総長ホンペシュに伝えたことになる。

 3月というと、各師団がマルセイユ、トゥーロン、ジェノヴァ、チヴィタヴェッキア、アジャクシオに集結しつつある時期であり、エジプト遠征の準備が開始されて間もない時期である。

 その様な最初期に国家が秘密にしている正確な情報を入手し、それが真実だと確信するのは難しいだろうと考えられる。

 次に暗号文の内容だが、暗号文では3月の時点で周辺各国はナポレオンの目的地がマルタとエジプトだと確信していることになっているにも関わらず、ナポレオンが5月19日にトゥーロンを出航してからもネルソンがその目的地を知らなかったのは不自然である。

 そしてフランス総裁であるルーベルとラ・ルヴェリエールはナポレオンを排除するためにエジプト遠征の許可を出したと書かれており、エジプト遠征が初めから失敗に終わる(ボナパルトにとって恥辱となる可能性が高い)とまるで未来が分かっているような内容となっている。

 これらの理由から、この暗号文はエジプト遠征が失敗に終わった後に捏造されたものであると考えられる。

 「エジプト遠征はナポレオンを排除するために決定された。」という説は、フランスの総裁達がナポレオンを煙たがっていた事実とナポレオンがエジプト遠征に失敗したという結果を元とし、この暗号文がその説を補強したのだろう。

ネルソンの動向

 6月7日夕方、コルシカ島北西沖でネルソンは10隻の援軍を率いたトロウブリッジ艦長が指揮する「リアンダー」と合流することができたがトゥーロンから出航したはずのフランス艦隊を未だ発見することはできていなかった。

※10隻の内訳は、ガンジス級74門三等戦列艦「カローデン(Culloden)」、アロガント級74門三等戦列艦「ベレロフォン(Bellerophon)」、クラージュ級74門三等戦列艦「ミノタウロス(Minotaur)」、ベローナ級74門三等戦列艦「ディフェンス(Defence)」、アロガント級74門三等戦列艦「ゼラス(Zealous)」、アロガント級74門三等戦列艦「オーディシャス(Audacious)」、アロガント級74門三等戦列艦「ゴリアテ(Goliath)」、カナダ級74門三等戦列艦「マジェスティック(Majestic)」、エリザベス級74門三等戦列艦「スウィフトシュア(Swiftsure)」、カローデン級74門三等戦列艦「テセウス(Theseus)」。
「テセウス」は以前のネルソンの旗艦であり、「ベレロフォン」は後にナポレオンを乗せることとなる艦である。

 そして戦列艦は多く到着したもののフリゲート艦は無く、ネルソン戦隊の視界は狭いままだった。

◎1798年6月7日、ナポレオンを追うネルソンの計画

ナポレオンを追うネルソンの計画(1798年6月7日)

 そのためネルソンはコルシカ島の北に突き出たコルス岬沖とエルバ島沖を通って南東方面に向かい、イタリア半島の海岸沿いを進み、情報収集も兼ねてタラモネ(Talamone)湾とチヴィタヴェッキアを偵察してナポリへ向かうことを決定した。

 この時ネルソンはフランス艦隊の居場所を掴んでおらず、タラモネ湾にフランス艦隊がいることを期待していた。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・その他