【詳細解説】エジプト戦役【ナポレオンのエジプト遠征】
エジプト遠征は「マルタ戦役」、「エジプト戦役」、「シリア戦役」の3つの戦役で構成されており、本記事はその中の「エジプト戦役」について時系列に沿って経過をまとめまています。
エジプト遠征においてトゥーロンを出発しマルタ島を占領したナポレオンは、当初の計画通りエジプトを目指しました。
しかしその背後にはイギリスのネルソン戦隊の陰が見え隠れしていました。
本記事はナポレオンがどのようにエジプトを征服していき、どのような困難が待ち受けていたのかなどがよく解る内容となっています。
ナポレオンの状況だけではなく、周辺各国の動向も調査し、出来得る限り網羅的にまとめましたのでナポレオンのエジプト戦役について詳しく知りたい人や戦略好き、ナポレオン好きな人は是非ご覧ください。
エジプト戦役 01 エジプトへの上陸準備
1798年6月22日~23日、マルタを征服しアレクサンドリアへ向けて旅立ったナポレオンは、旗艦「オリエント」の船上でエジプトへ上陸するために軍の再編成を行なっていました。
そしてクレタ沖に到着した後、ネルソン戦隊がナポリからマルタに向かっているという情報がもたらされました。
そのためナポレオンはアレクサンドリアへの出発を急ぎました。
一方、シチリア島東側にいるネルソンはマルタから来た商船から「フランスの艦隊がシチリア島に向かった」との情報を得ていました。
しかし、ネルソンがシチリア島にいるにもかかわらずフランス艦隊の姿はどこにも見えませんでした。
そのためネルソンは風向きも考慮すると「フランス艦隊はアレクサンドリアに向かっている」との確信を強め、マルタ行きを諦めてアレクサンドリアに向かって出航しました。
6月28日、ボナパルトが兵士達に向けてエジプト上陸前の演説を行なっている頃、ネルソンはアレクサンドリア沖に到着していました。
しかし、そこにはフランス艦隊の影も形も見当たらず、平穏なアレクサンドリアの街と港がありました。
そのためネルソンは「フランス艦隊はマルタ島を出航した後、コルフ島かもしくはフランスの友好国であるオスマン帝国領のクレタ島やカラマニア沿岸方面へ向かったのだろう。」と考え、6月30日、アレクサンドリアから北に進路を取って出航しました。
6月30日午前8時半、ナポレオンはアレクサンドリアのモスクの塔を視認し、アレクサンドリアの総督であるムハンマド・エル・コライム・パシャにアレクサンドリアを明け渡すよう書簡を送りました。
ナポレオンからの書簡を受け取ったコライム・パシャは、エジプトから離れるよう要求する書簡を送り返しました。
そのため翌7月1日、ナポレオンはエジプトへの上陸作戦を開始する準備を整えました。
この時期のネルソン戦隊の動向を詳しく知りたい方は詳細記事を参照してください。
エジプト戦役 02 エジプトへの上陸とアレクサンドリアの戦い
1798年7月1日、ナポレオンはアレクサンドリアに直接上陸するのではなく、アレクサンドリアの西に位置するマラブウ半島周辺から上陸し、その後、アレクサンドリアを征服することを命じました。
夜11時、ナポレオンはクレベール将軍とともに上陸を果たし、翌2日午前2時に歩兵3個縦隊約5,000人で進軍を開始しました。
フランス軍がアレクサンドリアへ接近し翌2日夜明け頃にポンペイウスの柱を視界に収めた時、アレクサンドリア守備隊が出撃してきました。
フランス軍はこれを撃退し、瞬く間にアレクサンドリアを包囲しました。
アレクサンドリアの城壁ではすでにコライム・パシャと500人の守備隊が待ち構え、フランス軍に対し城壁の上から銃撃や投石を行なっていました。
ナポレオンはポンペイウスの柱の側に本部を設置し、降伏勧告を行わずアレクサンドリアへの攻撃命令を下しました。
フランス軍はメヌー将軍やクレベール将軍が負傷しながらも旧市街を制圧しました。
アレクサンドリア守備隊は三角要塞と新市街に撤退し、コライム・パシャは新市街でフランス軍に徹底抗戦を呼びかけ、抵抗を続けました。
しかしフランス軍は午前11時までに三角要塞と新市街を制圧し、コライム・パシャはかつて大灯台のあった場所にあるカイート・ベイの要塞に撤退し、立て籠もった。
コライム・パシャはそこで必死の抵抗を行ってフランス軍を寄せ付けませんでしたが、遂に弾薬が底をついたため7月2日が終わる前までに降伏し、要塞を明け渡しました。
戦いの後、ナポレオンはコライム・パシャの勇戦を賞賛し、武器を返したと言われています。
エジプト戦役 03 ナポレオンのカイロへの進軍計画と過酷な行軍の始まり
1798年7月3日、ナポレオンはアレクサンドリアに軍を集結させつつ、ドゼー師団をダマンフールに向かわせました。
レイニエ師団は7月5日午前0時にドゼー師団の後を追い、6日にヴィアル旅団、7日にボン師団がダマンフールへ旅立ちました。
ドゥガ師団は5日にアブキール経由でロゼッタに向かいました。
クレベール将軍は傷を癒すためにアレクサンドリア防衛の指揮を命じられました。
一方、マムルーク軍側では、7月5日、異教徒がアレクサンドリアを占領したとの報が首都カイロにもたらされていました。
この事態にカイロは騒然となりまし、至急軍議が開かれました。
オスマン帝国のエジプト総督セイド・アブー・バクルとエジプトの実権を握るイブラヒム・ベイ及びムラード・ベイがカイロで議論を交わし、最終的にアレクサンドリアを占領したフランス軍を撃退することが決定されました。
ムラード・ベイはフランス軍を撃退するために兵を率いてアレクサンドリアへ進軍し、イブラヒム・ベイは首都防衛のためにカイロに残ることが決められ、同日夕方、イブラヒム・ベイはカイロから北西に4㎞ほどの所に位置するブウラクでできる限り多くの兵力を集結させるために奔走し、ムラード・ベイは急いで集結させたマムルーク騎兵3,000騎とフェラ民兵2,000人を率いて翌6日に船を利用してナイル川を北上しました。
エジプト戦役 04 ロゼッタ占領と将軍や兵士達の不安と不満
ドゥガ師団は7月6日にペレー艦隊の支援下でアブキール要塞を占領し、7日朝、マムルーク軍の守るロゼッタを占領し、ナイル川を遡ってカイロ方面に向かう準備を行いました。
メヌー将軍はアレクサンドリアの戦いで受けた傷が完全に癒えるようロゼッタの防衛を指揮しました。
一方、ダマンフールへ向かったナポレオン本体の行軍は過酷なものでした。
フランス軍は強力な日光が降り注ぐ乾燥した砂漠地帯を、環境に対応していないイタリアやドイツで着ていたものと同じ軍服や軍靴を身に着け、水も持たず、装備と5日分の食糧を持ち、アレクサンドリアからダマンフールまでの約70㎞の道程を3日で行進しました。
アレクサンドリアからダマンフールまでの間に5ヵ所の水場がありましたが、ほとんどが海水が混ざった汽水であり、良質な水があっても水量は非常に少ないものでした。
ベドウィンが常にフランス軍の周囲を徘徊して落伍兵や孤立した兵士、小部隊を襲撃したためアレクサンドリアからの物資の供給は不安定なものとなり、暑さにやられ武器の重みで倒れる者たちや蜃気楼により目の前の川や湖の幻影に惑わされ精神力が尽きて死亡する者たちもいました。
これらの事態に直面した兵士たちは強く不満を訴え、師団長たちも灼熱の砂漠での過酷な行軍に対する不満を訴えました。
エジプト戦役 05 両軍の集結とフランス軍のシュブラ・キットへの進軍開始
1798年7月9日午後、ダマンフールでの軍議が終わり、作戦が決定され、各師団は計画に従ってナイル川へ向かい、アル・ラフマニーヤを占領しました。
もしムラード・ベイが素早くアル・ラフマニーヤを急襲して占領した場合、フランス軍本体は不安定なダマンフール~アレクサンドリア間の後方連絡線を利用せざるを得なくなる可能性があったこともありますが、なにより兵士たちには水と食糧が必要でした。
兵士たちは歓喜してナイル川に飛び込み、浴びるように流れる川の水をそのまま飲んだと言われています。
フランス軍はその後、ドゼー師団を前衛としてシュブラ・キットへ向かって進軍しました。
一方、ムラード・ベイ率いるマムルーク軍とオスマン帝国軍は、ダマンフールからの道とナイル川の合流点でありアル・ラフマニーヤから南に約12㎞の地点に位置するシュブラ・キット周辺にフランス軍を撃退すべく集結しつつありました。
ムラード・ベイ軍はカイロから約150㎞の距離を船を利用してナイル川を下り、ほんの数日でシュブラ・キットに移動していたのでした。
前衛同士の小さな接触はあったものの、この時点では両軍ともお互いの実力をまだ知りませんでした。
ナポレオンの司令部とベドウィンの遭遇やムラード・ベイの考え、ネルソン戦隊の動向を知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 06 エジプト遠征最初の会戦「シュブラ・キットの戦い」
1798年7月13日夜明け前、フランス軍はシュブラ・キットの前に到着しました。
シュブラ・キットではムラード・ベイ率いるマムルーク軍が待ち構えており、大砲を備えた強固な塹壕が掘られ、村は要塞化されていました。
フランス軍の兵力は疲れ果てた騎兵200騎とマスケット銃を装備した約20,000人以上の歩兵であり、マムルーク軍の兵力はこの時代で最高の騎兵であるマムルーク騎兵4,000騎とこん棒を装備した11,000人~14,000人の民兵でした。
ナイル川での艦隊戦力については、マムルーク軍側は砲艦7隻を有していたのに対し、フランス軍側は砲艦3隻と旗艦であるジーベック(帆走手漕ぎの武装船)、ガレー船しか有していませんでした。
騎兵と艦隊戦力ではマムルーク軍が圧倒的優位であり、歩兵ではフランス軍が圧倒的優位な状況でした。
この時、ナポレオンはマムルーク騎兵対策を準備していました。
ナポレオンは村と村の間で各師団を長方形の方陣に編成して斜行陣を形成させました。
対するムラード・ベイはシュブラ・キットに2,000人の守備隊を残し、右翼と左翼にそれぞれマムルーク騎兵2,000騎を配置し、歩兵をその後ろに配置しました。
ムラード・ベイ率いるマムルーク軍が日の出とともに砂漠の地平線に現れ、近づいてくるのが見えました。
午前8時、陣形を整えたムラード・ベイはフランス軍の奇妙な陣形を見て当惑しました。
そのため約3時間の間、マムルークの小集団を平原に広がるよう移動させてフランス軍の周囲を観察し、接近して威力偵察を行い方陣の弱点を探ろうとしました。
午前9時、ペレー艦隊はナイル艦隊と交戦を開始しました。
しかしこの交戦は強い北風が定期的に吹き続けたためペレー艦隊が前進し過ぎたために起こったものであり、陸軍とペレー艦隊が相互に支援し合うというナポレオンの計画は早くも崩れ去ってしまいました。
ペレー艦隊は正面と両側面からの砲火にさらされ、午前11時頃には弾薬が尽きかけ、ペレー艦隊はこのままフランス軍左翼の支援が無ければ状況を覆すことはできない状況に陥ってしまいましたが、左翼は前進することなくマムルーク軍の本格的な攻撃を待ち受けていました。
ムラード・ベイはマムルーク軍左翼の騎兵で攻撃隊形を形成し、レイニエ師団の方陣とドゥガ師団の方陣の間の広い隙間を突破して後方に出て、フランス軍の背後から襲い掛かりました。
しかし有効射程内までよく引き付けたフランス兵の射撃の命中精度は高く、弾幕も厚く、方陣と方陣の間を突破する時に大きな損害を出し、後方に突破できた者たちもフランスの方陣に近づくことはできませんでした。
前方と同じくらい後方の火力が強いことを知ったムラード・ベイは後退し、右翼と合流しようとしました。
一方、ナイル川でフランス艦隊を指揮するペレー大佐は諦めることなく巧みな指揮によって難局を凌いでいました。
ナポレオンはこの時マムルーク軍をナイル川に追い込んで包囲することを考えており、各師団を動かさず、マムルーク軍による2度目の突撃を待っていましたが、ペレー艦隊が危険にさらされていることに気づくとすぐに各師団に前進を命じました。
各師団は整然と広がって前進し、左翼のヴィアル旅団は多少の抵抗の後でシュブラ・キットを占領した。
フランス軍はナイル川沿いに大砲を並べると優勢に戦局を進めるナイル艦隊に攻撃を開始しました。
この攻撃を見たナイル艦隊を指揮するニコルは即座に危険性を理解すると、方向を変えて撤退して行った。
ナポレオンは5個師団を進軍速度の遅い方陣から進軍速度の速い縦隊に変え、平野を通って5つの方向に向かいマムルーク軍を追跡するよう命じました。
ムラード・ベイは兵士の恐怖と士気の低下を見ると軍から離れ、次の防衛線を構築するために急いでカイロへ向かいました。
その後、フランス軍は逃亡するマムルーク軍を戦利品を目的として貪欲に追撃しつつ約30㎞の距離をシャブール(Shabour)まで進み、右岸側にも部隊を渡らせナイル川を南下させました。
エジプト戦役 07 カイロへの道程と赤痢や眼病の発症
1798年7月14日夕方、シャブールで軍に休息を取らせたボナパルトは全軍にコウム・シェリクへの進軍を命じました。
フランス軍の先頭はナイル川を南下し、15日にはコウム・シェリクから約13㎞離れたアルカム、16日にはアルカムから約22㎞離れたアブー・ノシャベ、17日にはアブー・ノシャベから約16㎞離れたワルダンに到着しました。
エジプトの灼熱の気候のため、夕方以降に進軍を始め、午前9時には野営するという生活でした。
シャブールからワルダンまでの行軍中、赤痢や結膜炎、夜盲症(鳥目)などを発症する兵士たちがいましたが、それほど深刻な病気のようには思われていませんでした。
フランス軍は若干の休憩を挟みながら18日にはワルダンから約25㎞離れたアル・ラハウィ、19日にはアル・ラハウィから約3㎞離れたオム・ディナールに到達し、ムラード・ベイ軍を追跡しつつナイル川沿いを南下しました。
ナイル川右岸を進軍する部隊はナイル川が2つに分かれ、デルタ地帯を形成する分岐点に到達していました。
ナポレオンはオム・ディナールでムラード・ベイが60,000人の兵力でブウラクの対岸のエンバベの前に布陣し、待ち構えていることを知りました。
7月20日、フランス軍は後続部隊のオム・ディナール周辺への集結を急ぎ、戦闘準備を開始しました。
その日の夜、ドゼー師団を先頭として各師団はナイル川の近くをエンバベに向けて進軍しました。
21日午前8時、カイロの400本ものミナレット(モスクの塔)を見て兵士たちは歓喜の叫び声を上げました。
午前9時、マムルーク軍を視認し、少しの休息に入りました。
アレクサンドリアでの反乱やネルソン戦隊の動向、フランス軍を襲う病気、シュブラ・キットの戦い後のムラード・ベイ軍の動きを知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 08 ピラミッドの戦い(エンバベの戦い)
両軍の布陣
1798年7月21日午後3時頃、ナイル川と平行して布陣し戦闘序列を整えたフランス軍は、遅れているペレー艦隊の到着を待たずに縦隊を形成して動き出しました。
マムルーク軍の前には塹壕が掘られていましたが、歩兵には役に立たないだろうと考えられました。
歩兵はこん棒を装備し、秩序立っておらず、恐らく塹壕の背後で戦うことを想定しているのだろうと考えられました。
シュブラ・キットの戦いでも歩兵はあまり手強いものではなく、マムルーク軍で恐れるべきは騎兵であると認識されていました。
フランス軍の戦闘配置
先頭のドゼー師団は右方向へ行進し、縦列の左側面をマムルーク軍に晒しながら塹壕陣地に設置された2門の大砲の射程範囲内を通過しました。
レイニエ師団、ドゥガ師団、ボン師団、ヴィアル旅団の順で間隔を空けてドゼー師団の後を追いました。
フランス軍が突破しようとしていた地点の向こう側にビクティル村があり、ナポレオンはそこが軍を指揮する上でのポイントだと考え、ドゼー師団とレイニエ師団で突破することを計画していました。
フランス軍は最大の沈黙の中で30分間前進し続けました。
ボン師団はエンバベの前で立ち止り、ボン将軍は戦いの前に過去の栄光を思い出させ、勝利の利点と必要性を感じさせる演説を行ないました。
その間にヴィアル旅団が縦隊でボン師団を追い抜き、ボン師団が最左翼となりました。
ピラミッドの戦いの始まり
マムルーク軍最高司令官ムラード・ベイは戦闘訓練を受けていないにもかかわらずボナパルトの意図を推測し、フランス軍がまだ方陣を完成させず縦列で移動している最中に攻撃しなければならないと考えました。
ナポレオンの意図はシュブラ・キットの戦いときのように方陣を形成し、前線を突破してその後ろのビクティルを占領し、エンバベの右翼及びマムルーク軍中央とマムルーク軍左翼及びそのさらに左のベドウィン軍とを分断し、エンバベを包囲することでした。
午後3時30分頃ムラード・ベイは7,000~8,000の騎兵を率いてビクティルの周囲から稲妻のように出撃し、小さな水路の向こうにいるドゼー師団とレイニエ師団の間を通過し、これらを瞬く間に包囲しました。
この機動は急速でしたが、ドゼー将軍は方陣を形成することに成功し、四方八方から襲い掛かってくるマムルーク騎兵へのブドウ弾での砲撃とマスケット銃での射撃を開始しました。
レイニエ師団は砲撃でドゼー師団を支援しつつすぐに方陣を形成し、包囲されるとドゼー師団と同じくマムルーク騎兵への射撃を開始しました。
ナポレオンのいるドゥガ師団はこの突然の突撃に対応できず慌ただしく方陣の形成を開始しましたが、幸いにも突撃の対象とはならなかったため方陣を形成することができました。
ムラード・ベイはナポレオンの計画を一時的に阻止できたもののすべての攻撃はフランス軍の方陣によって撃退され、結局、何の戦果も得ることができずに大砲の射程外に遠ざかり、そこで待機せざるを得ませんでした。
マムルーク軍は騎兵のみが戦っており、歩兵に戦わせるのは恥だと考えているようでした。
エンバベの包囲
ムラード・ベイはマムルーク騎兵3,000騎を率いて上エジプトへの道の途中に位置するギザ方向へ後退し、約6,000騎は方陣の背後の小高い丘に取り残され、約2,000騎はエンバベに避難しました。
この瞬間、ボン師団は塹壕を突破してエンバベを包囲する機動を取り、ヴィアル旅団はボン師団の背後を守りつつナイル川左岸沿いでエンバベの前に移動しました。
ボン将軍は、エンバベからの砲撃によって方陣が崩れかけその隙を衝かれながらも持ち堪え、ヴィアル旅団と共同でエンバベを包囲しました。
エンバベの隔離
ボン師団とヴィアル旅団がエンバベを包囲している頃、ドゼー師団は分遣隊を派遣してビクティルを占領し、レイニエ師団とドゥガ師団はドゼー師団と高さを合わせて塹壕を越え、マムルーク軍を圧迫しました。
エンバベと完全に切り離されたのを見たムラード・ベイは、顔に傷を負いながらも包囲されたエンバベとの連絡を再確立することを目的として何度か突撃を行ないましたが、すべての突撃は失敗しマムルーク軍のギザへの撤退を促す結果となりました。
ピラミッドの戦いの決着
ボン師団がエンバベの塹壕を容易に突破した時、エンバベに避難していた2,000騎のマムルーク騎兵はナイル川沿いに南下して逃亡しようとしました。
しかしボン師団から分離したマルモン旅団の攻撃によって脇腹を衝かれ、1,500騎が包囲の中に取り残され、500騎がナイル川沿いを逃亡して行きました。
エンバベに取り残された者たちはナイル川を泳いで逃亡しようとしましたが、ボン師団とヴィアル旅団がキャニスター弾や銃弾を浴びせかけ、ナイル川は赤く染まりました。
その後、マルモン旅団の攻撃から逃れたマムルーク騎兵500騎はランポン旅団とそれを支援するドゥガ師団によって止められました。
戦場に取り残され、エンバベで包囲されなかったマムルーク騎兵の大多数はナイル川を左岸に沿って下り、夜に紛れて田舎へ逃亡し、マムルーク軍が敗走しているのを見た8,000騎のベドウィン軍は散り散りとなって砂漠へ姿を消しました。
マムルーク軍の敗走
ドゼー、レイニエ、ドゥガの各師団は敗走するマムルーク軍を追跡しつつギザへ向かい、ヴィアル旅団とボン師団はエンバベに留まりました。
午後6時、フランス軍がギザに近づくとムラード・ベイは船を焼き払って対岸に退却を知らせる合図を送り、ギザを放棄しました。
マムルーク騎兵12,000人の内、ムラード・ベイ率いる3,000騎だけが上エジプトに撤退して行きました。
フランス軍はムラード・ベイがギザを放棄するのを確認するとギザを占領しました。
ブウラクで防衛していたイブラヒム・ベイは、対岸で戦いを繰り広げていたムラード・ベイが敗北するのを見ていました。
そしてナイル川を泳いで逃げようとしている兵の一部を救助し、急いでカイロに向かいました。
カイロに着いたイブラヒム・ベイでしたが、カイロではフランス軍の恐怖に怯えた民衆によって暴動が発生しており、カイロに居ても安全ではありませんでした。
そのためイブラヒム・ベイは財宝をどこかに運び、オスマン帝国のエジプト総督セイド・アブー・バクルとともに夜の内にカイロを放棄してベルベイスに向かいました。
両軍の損害と戦いの後
ピラミッドの戦いにおけるフランス軍の損害は死者29人、負傷者260人であり、対するマムルーク軍は7,000人が死傷し、溺死者や捕虜を合計すると10,000人に達したと言われています。
ムラード・ベイを追撃していた各師団は追撃を途中で諦めてギザに帰還し、この日、フランス軍はギザとエンバベの周辺で夜を過ごしました。
ピラミッドの戦いでの各師団や分遣隊の機動の詳細、エンバベ前での騎兵同士の一騎打ちなどについて知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 09 「ピラミッドの戦い」におけるマムルーク軍の敗因と補足
ピラミッドの戦いではマムルーク軍は決定的な敗北を喫した。
その理由は、①大砲の不足、②大砲運用の未熟さ、③「シュブラ・キットの戦い」の経験を活かせなかったこと、④歩兵の弱さ、だろうと考えられます。
フランス軍の方陣に対して有効打撃を与えることができたのは「大砲」でした。
実際、エンバベからの砲撃でボン師団の方陣は崩れかけていました。
そのため、マムルーク軍がより多くの大砲を準備し、大砲運用も効果的なものであれば、フランス軍にここまで大きな差をつけられることは無かったでしょう。
その他、ピラミッドの戦いについての考察をしていますので、詳細記事を読んでみてください。
エジプト戦役 10 カイロの降伏とアレクサンドリアへ向かうネルソン
1798年7月22日、ナポレオンはギザの本部で対岸にあるカイロ攻略の指揮を執り、カイロ宛に降伏勧告を送っていました。
同時にデュプイ少将にカイロ城塞を占領するよう命じ、ヴィアル将軍にローダ島を経由して右岸へ渡り、カイロの手前に布陣するよう命じていました。
ヴィアル将軍は23日夜明けとともにローダ島を占領しました。
その後、23日と24日、カイロの代表団がギザのボナパルトの元に訪れ、降伏勧告を受け入れました。
7月24日、ナポレオンはデュプイ旅団を先頭にカイロを占領し、25日にはナポレオン自身もカイロに入城しました。
カイロを支配下に置いたナポレオンは軍の再編成を行い、上エジプトのムラード・ベイと砂漠のベドウィンをドゼー師団で警戒させつつ、29日にブウラクのヴィアル将軍に部隊を与えてダミエッタへと出発させ、レイニエ師団でベルベイス(Belbes)のイブラヒム・ベイ軍討伐準備に乗り出しました。
ドゼー将軍のメンフィスでの余暇やネルソン戦隊の動向、帰還したラ・ヴァレッテとブリュイ提督との会話、デュマ将軍との確執などについて知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 11 ネルソン戦隊のアレクサンドリアへの到着とフランス艦隊の戦闘準備の開始
1798年7月31日夜、フリゲート艦を有していないネルソン少将は、アルフレッド級74門3等戦列艦「アレクサンダー」とエリザベス級74門3等戦列艦「スウィフトシャー」をアレクサンドリアの港の偵察のために先行させ、ネルソン戦隊本体はアレクサンドリア沖に向かいました。
8月1日正午頃、ネルソン戦隊はアレクサンドリアのファロス塔(カイート・ベイの要塞)を視界に収めました。
午後2時頃、アレクサンドリアの港を観察したアレクサンダーとスウィフトシャーからフランスの輸送艦を発見しましたが、主力艦隊は見当たらないとの連絡がありました。
午後2時半、フランス艦ウールーの船員が西北西の方向にイギリス艦隊を発見し、初めは12隻の軍艦であると報告しました。
イギリス艦隊発見の報が知れ渡るとフランス兵は配置につくために慌てふためきました。
午後3時15分、ネルソンは戦闘準備を行いつつエジプトの海岸を観察するために針路を東に変更しました。
ブリュイ提督は視界内の艦が敵でありアブキール湾に向かっていることに疑いの余地はないと確信し、陸で作業をしている者たちやアレクサンドリアにいる輸送船の乗組員にたちに艦隊に合流するよう命令しました。
その後、オリエントが上檣帆(トゲルンマスト)を張ると他の艦船もそれに倣い、ブリュイ提督は数秒ためらった後、停泊して戦闘準備を急ぐよう命じました。
ブリュイ提督は副司令官シャイラ少将の進言を受け入れて出航することも考えましたが、人員が足りないフランス艦隊の現況を鑑みて、アブキール湾に停泊して迎え撃つ準備をすることを決意したのでした。
エジプト戦役 12 フランス艦隊の発見とネルソン戦隊のアブキール湾への移動
1798年8月1日午後4時、ネルソン戦隊はカローデン、ゴリアテ、ジーラス、オリオン、オーディシャス、テセウス、ヴァンガード、ミノタウロス、ベレロフォン、ディフェンス、マジェスティック、リアンダー、ミューティーン(コルベット艦)の順でファロス塔が南南西約22.2㎞~約27.8㎞に見える位置にまで東進していました。
その時、先頭から3番目の戦列艦ジーラスからフランス艦隊を発見したとの合図が送られてきました。
フランス艦隊発見の合図を受けたネルソンはすぐにアブキール湾に向かいました。
この時、ネルソンはフランス艦隊と戦うための作戦を事前に立案し、各艦長と共有していました。
ネルソンが事前に考えていた計画を知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 13 ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)におけるフランス艦隊の布陣とネルソンの作戦
1798年8月1日午後4時22分、アブキール湾沖に到着したネルソン戦隊は減速し、再編成しつつしばらくアレクサンダーとスウィフトシャーを待ちました。
ネルソン戦隊の右翼はゴリアテ、ジーラス、オリオン、オーディシャス、カローデン、テセウス、リアンダー、左翼はヴァンガード、ミノタウロス、ディフェンス、ベレロフォン、マジェスティックであり、右翼はフランス艦隊左翼側から入って後部に迂回し、左翼は右翼のさらに内側を回ってフランス艦隊左翼の前部に停泊して前後を挟撃する計画でした。
午後5時頃、満潮によりアブキール湾の海面が上昇し始めました。
ネルソン戦隊はアブキール湾の海図を所持しており、各艦長に写しが配られていましたが、海底地形までは描かれていませんでした。
そのため各艦は待機中も常に水深を測り続けました。
観察するとフランス艦隊は海岸近くに停泊し、強力でコンパクトな戦列を築いているように見えました。
フランス艦隊の形状は鈍角(90度以上180度未満の角)であり、側面には多数の砲艦と4隻のフリゲート艦があり、アブキール島には小さな砦が築かれ、大砲と迫撃砲の砲台がありました。
この状況はフランス軍にとって最も有利な位置を確保しているように見えました。
フランス艦隊の背後は浅瀬で座礁の危険があるように見え、左翼側は艦砲以外にもアブキール島などからの砲撃に晒される危険がありました。
しかしネルソンはフランス艦隊を観察し、フランスの艦が揺れる余地があるところは、イギリスの艦も停泊できる余地があると推測しました。
加えて、風上(北西)から攻撃を開始して風下(南東)に下った場合、フランス艦隊右翼は風向きが変わるまで戦場に駆け付けることができないと考え、攻撃を決意しました。
ネルソンはフランス艦隊左翼側(アブキール島側)からの各個撃破に勝機を見出したのでした。
ゴリアテが戦隊を先導することが決定されましたが、フランス艦隊の背後に侵入できるかどうか確かなところは不明でした。
そのためネルソンはゴリアテのフォーリー艦長に「もしフランス艦隊の背後に侵入できなかった場合、フランス艦隊左翼の前部に密集して対峙するように」と命じ、背後に侵入するかどうかの判断を委ねました。
一方その頃、アレクサンドリア沖にいたアレクサンダーはスウィフトシャーに危険に立ち向かうという合図をしてネルソンの元に向かい、スウィフトシャーはアレクサンダーの後に続きました。
ネルソン戦隊の減速を見たブリュイ提督は「イギリスの艦隊は座礁の危険があるアブキール湾内で夜間に戦闘を行なうのではなく、翌日明るくなってから攻撃を行うつもりである。」と考えました。
ブリュイ提督はアブキール島に配置された砲列によって艦隊左翼が守られていると考えていましたが、実際のところ距離は離れ過ぎていました。
フランス艦隊は、左翼:ゲリエ、コンケラ、スパルシアーテ、アキロンのそれぞれ74門の大砲を配備した4隻、中央:74門のペープル・スーヴェラン、80門のフランクリン、120門のオリエント、80門のトゥノンの大型艦3隻を含む合計4隻、右翼:74門のウールー、74門のティモレオン、74門のメルキュール、ヴィルヌーヴ提督が乗船した80門のギョーム・テル、74門のジェネルーの5隻で構成されていました。
両軍はアブキール湾で対峙し、戦いは間近にまで迫ってきていました。
詳細記事にはアブキール湾のおおよその海底深度図などが表示されていますので気になる方はご覧ください。
エジプト戦役 14 ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)<序盤>
1798年8月1日午後5時半頃、ネルソン戦隊は隊列を形成し、10分後、右翼を先頭に風上に向かって航行を開始しました。
午後6時過ぎ、ネルソン戦隊はメインアンカーを8ファゾム(約14.4m)まで引き上げて針路を変更し、広い円を描くように機動してフランス艦隊左翼の艦艇を攻撃する方向に向かいました。
そしてゴリアテ、ジーラス、オリオン、オーディシャスは水深を測りながら前進してアブキール島の内側への侵入に成功しました。
後続のカローデンも水深を測りながら前進していましたが、アブキール島の先端から3㎞ほど伸びている浅瀬に乗り上げて座礁してしまいました。
カローデンの後ろを航行していたテセウスとリアンダーはカローデンを灯台として座礁を回避し、リアンダーはカローデンの救出のために立ち止まりました。
そのためリアンダーは戦闘に加わるのが遅れることとなり、ネルソンは10隻で戦列艦13隻とフリゲート艦4隻を有するフランス艦隊と戦うことを余儀なくされることとなりました。
アブキール島の2つの砲台の目の前をネルソン戦隊が通り過ぎようとしているのを見たフランス軍は陸上からの砲撃を開始しました。
しかし距離が離れすぎており、イギリス艦艇に損害を与えることができませんでした。
ネルソン戦隊は弧を描いて前進し、フランス戦列艦はイギリス艦が射程に入るにつれて次々とイギリス艦隊の先頭への砲撃を開始しました。
フランス戦列からの砲撃は2番艦コンケラから始まり、その後、ゲリエ、スパルシアーテ、アキロン、ぺープル・スーヴェラン、フランクリンが続きました。
ネルソン戦隊の静かな前進は、フランス側に驚きをもって観察されました。
イギリスの艦艇は射程の半分の位置に接近するまで砲撃を行わないよう命じられており、フランス艦隊が半射程内に入るとゴリアテの大砲が火を噴きました。
ネルソン戦隊の先頭であるゴリアテを指揮するフォーリー艦長はフランス艦隊の背後に侵入できるかどうかを注意深く観察していました。
もし背後に侵入する決断をし、その決断が間違っていた場合、ネルソンの計画は崩れ去り、劣勢な立場に立たされてしまう可能性がありました。
しかしフォーリー艦長はゲリエが波によって大きく揺れたのを見てフランス艦隊の背後に侵入することを決断しました。
フォーリー艦長の観察と決断は正しく、ゴリアテはアブキール湾岸とフランス艦隊の間に入り込むことに成功しました。
フランスの1番艦ゲリエと2番艦コンケラは左舷側の人員がおらず、一方的な攻撃を受けてすぐに無力化されました。
ネルソンはフォーリー艦長がどのような決断をするか見定めていました。
そしてゴリアテがフランス艦隊の背後に侵入したことを確認すると、フランス艦隊左翼と中央を前後で挟撃するために3番艦スパルシアーテの方向へ針路を定めました。
午後6時31分、フランス艦隊の砲撃に耐えて射程の半分の距離にまで接近し錨を海に投げ入れたヴァンガードの艦砲が遂に火を噴きました。
ネルソン戦隊は左翼側から順にフランス艦隊左翼と中央の前後を挟撃する隊形を完成させました。
エジプト戦役 15 ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)<中盤>
フランス2番艦コンケラとイギリス艦ベレロフォンの脱落
1798年8月1日午後7時頃、アブキール湾に完全な暗闇が訪れ、戦域全体が時折フランス艦隊の砲火によって照らされていました。
まもなく浮舟状態となっていたフランスの2番艦コンケラがオーディシャスに降伏しました。
コンケラを無力化したオーディシャスはその後、オリオン及びディフェンスと交戦しているフランスの5番艦ペープル・スーヴェランの左舷側へ移動しました。
マジェスティックはフランスの8番艦トゥノンと激戦を繰り広げていました。
両艦は艦長が死亡しながらも勇敢に戦っていましたが、トゥノンは大型艦でありマジェスティックは大きな損害を追いながら南への退却を余儀なくされました。
マジェスティックはその後、トゥノンとその後続のフランス艦ウールーの間の有利な位置に陣取り、戦闘を継続しました。
ベレロフォンもフランス艦隊旗艦オリエントと一騎打ちをしていました。
オリエントは3階建ての超大型艦であり、ベレロフォンは2階建ての一般的な戦列艦でした。
そのような戦力差があるにもかかわらず、ベレロフォンはオリエントに火災を発生させ、200人以上を死傷させていました。
しかしベレロフォンはすべてのマストを失って操舵不能となり、風と波に流され、フランスの8番艦トゥノンの長距離からの砲撃を受けながら戦列から離れていきました。
ネルソンの負傷
午後8時、ヴァンガード、ミノタウロス、テセウスに囲まれているフランスの4番艦アキロンからの集中砲火を受けたヴァンガードは大きな損害を受け、ネルソン自身も頭を負傷して倒れ込み、救護室に運ばれました。
一方、フランス艦隊左翼と中央部で戦闘が繰り広げられている中、10番艦ティモレオン以降の右翼は全く動こうとしませんでした。
右翼を指揮するヴィルヌーヴ副司令官は数人の士官の要求にもかかわらず戦いに参加せず、オリエントからの合図を待っていました。
しかし、もし戦いに参加するにしても風上に向かわなければならない状況でした。
アレクサンダーとスウィフトシャーの参戦
午後8時頃、ヴァンガードが大きな被害を被っている時、午後5時にアレクサンドリア沖を出発したアレクサンダーとスウィフトシャーがアブキール湾に到着しました。
アレクサンダーはカローデンを灯台にして浅瀬を回避して戦場に向かい、スウィフトシャーはカローデンを観察しつつ勇敢にもアブキール湾に侵入しました。
スウィフトシャーはベレロフォンを発見しましたが、構わず戦場に突入した。
午後8時5分、ハロウェル艦長はフランクリンの右舷側とオリエントの船首に向けて砲撃を開始しました。
その瞬間、アレクサンダーはオリエントの船尾を通過し、オリエントの背後に停泊しました。
これにより落ち着きつつあった中央部での戦いは激しさを増しました。
フランス3番艦スパルシアーテの降伏とブリュイ提督の死
午後8時半過ぎ、フランスの3番艦スパルシアーテが降伏しました。
同じ頃、カローデンの支援を諦めて戦場に向かったリアンダーは、6番艦フランクリンと5番艦ペープル・スーヴェランの間を通過してフランクリンとオリエントを同時に攻撃しました。
旗艦オリエントは右舷船首側に兵力を集結させてスウィフトシャーと戦っており、それに加えて船首正面ではリアンダーからの激しい砲撃を受け、船尾側ではアレクサンダーと戦うという状況となっていました。
ブリュイ提督はこれまでの戦闘で、頭と腕に傷を負いながらも衰えることのない毅然とした態度で戦いを指揮していました。
そして艦橋から甲板に降りてきてからしばらく後、砲弾がブリュイ提督の胸に直撃しました。
ブリュイ提督は「フランスの提督は監視台で死ななければならない。」と言って救護室のある下層に運ばれるのではなく甲板上に放置されて死ぬことを望み、その僅か15分後に息を引き取りました。
ブリュイ提督の死は隠され、フランス艦隊の指揮権はガントーム少将に引き継がれました。
オリエントでの火災の発生
そして8時55分、リアンダーからの砲撃は続き、スウィフトシャー及びアレクサンダーとも戦闘を行っているオリエントの甲板は瞬く間に炎に包まれました。
ヴァンガードの甲板上でも「フランスの旗艦オリエントが燃えている」という叫び声が響き渡り、その声を聞いたネルソンもデッキに現れました。
午後9時、ネルソンはヴァンガードの甲板上から両軍が戦っているのを見ました。
その数分後、ネルソン戦隊右翼の通過に耐え、ジーラスと戦っていたフランスの1番艦ゲリエが遂に降伏しました。
9時10分過ぎ、オリエントの火災は急速に進行し、船体の後部全体も炎に包まれました。
オリエントの火災によって周囲が照らされたことにより、両方の戦艦旗がはっきりと区別できたと言われています。
フランクリンはイギリス艦艇に囲まれ、退路は完全に炎上しているオリエントによって断たれていました。
そのため敵か炎の餌食になる以外に選択の余地はなく、メインマストとミズンマストが倒れ、メインデッキのすべての大砲が破壊されました。
参謀長ガントーム少将はオリエントの火災を消火しようと奔走していました。
しかし火災の進行は早く、乗組員に対してオリエントを放棄して避難するよう命じました。
帆船やボートに乗れなかった者たちは海に飛び込み、浮いているオリエントの残骸にしがみつきました。
しかし、下の階層にいた兵士たちに避難命令が届いたのは遅くなってからだったと言われています。
フランス艦艇の戦列からの離脱
午後9時半、激戦の末フランスの4番艦アキロンのテヴナール艦長は戦死し、ミノタウロスの乗船隊が艦長を失って戦意を喪失したアキロンを占領しました。
同じ頃、ペープル・スーヴェランは戦列を外れることを余儀なくされ、その後、オリエント左舷方向の陸側へ漂流し、トゥノンも火災の中アレクサンダーに向かって砲撃を続けていたオリエントの砲火を逃れるためにアンカー・ケーブルを切断して漂流しました。
ウールーとメルキュールもトゥノンと同様にアンカーケーブルを切断し、味方に舵を破壊されたティモレオンは陸に漂着したウールーとメルキュールの護衛を命じられました。
フランス艦隊旗艦「オリエント」の爆散
午後10時頃、フランス艦隊左翼のすべての艦が脱落した少し後、旗艦オリエントの火薬庫が炎に包まれ凄まじい爆発を引き起こしました。
オリエントの爆発の直後、周辺の艦は消火に追われ、戦闘はあらゆる場所で停止し、非常に深い沈黙が続きました。
このオリエントの爆発音はオリエントが爆発した地点から約180㎞離れたカイロにまで届いたと言われています。
より詳しい戦闘の状況やオリエントが爆散したときの状況、オリエントに乗船していたカサビアンカ親子の運命などを知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 16 ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)<終盤>
フランス6番艦フランクリンの降伏
1798年8月1日午後10時10分過ぎ、オリエント爆散による沈黙を破ったのはフランス6番艦フランクリンの砲撃でした。
フランクリンは乗組員が疲労のピークにあり、上甲板の砲は沈黙を余儀なくされていたにもかかわらず下甲板の砲数門で砲撃を再開したのでした。
しかし、午後11時頃、負傷しながらも攻撃を命令し続けたシャイラ少将が乗船するフランクリンは、メインマストとミズンマストを失い、すべての砲を潰され、乗組員の3分の2が死傷していました。
もはや戦闘の継続は不可能であり、この圧倒的に劣勢な戦闘に終止符を打つ必要が生じました。
フランクリンの艦長は降伏を決意し、戦艦旗を降ろすよう命じました。
トゥノンの漂流と戦場から遠ざかるフランス艦隊右翼
日付が変わり、アレクサンダー、スウィフトシャー、マジェスティック以外のイギリス艦艇は未だ動き出せずにいる状況だったが有利に戦況をすすめていました。
午前2時15分頃、トゥノンはマストを失い、2度目のアンカーケーブルの切断を余儀なくされ、錨も残っていなかったため漂流し、海岸へと流されました。
ギョーム・テル、ジェネルー、ティモレオンは停泊場所を変更し、砲撃の届かないさらに風下に錨を下ろし、午前2時55分、再び戦線全体で砲撃が完全に停止しました。
ウールーとメルキュールの降伏
砲撃が停止している間、ネルソンはフランス艦隊右翼と戦うための態勢を整えました。
午前5時5分過ぎ、アレクサンダーとマジェスティックがフランス艦隊右翼への砲撃を開始しました。
そして、テセウス、ゴリアテ、ジーラス、リアンダーは、漂流して座礁しているにもかかわらず戦う意思を見せているウールーとメルキュールを拿捕するために次々と移動を開始しました。
そこへアレクサンダーも加わりウールーとメルキュールは降伏を余儀なくされました。
ナイルの海戦の決着
如何に有利な状況で戦っていたとはいえイギリス艦隊も大きな被害を受けており、攻撃の手は弱まっていました。
ヴィルヌーヴ少将はこの時間を最大限に活用し、午前11時前頃にギョーム・テル、ジェネルー、ディアーヌ、ジュスティスを整列させて戦列を組み、戦場を離れる準備をしました。
その後、フランス艦隊右翼は攻撃を受けるとアンカーケーブルを切断してアブキール湾から脱出しました。
座礁して航行不能となりながらも戦う意思を見せているトゥノンとティモレオンは戦場に取り残されました。
フランス艦隊右翼はアブキール湾沖に停泊していましたが、午後12時45分、接近してくるジーラスからの砲撃を受けるとアブキール湾沖から東に撤退して行きました。
日没時、アブキール湾から離れて行ったヴィルヌーヴ少将率いる一行でしたが、アブキール湾から見える位置にいたと言われています。
これによりナイルの海戦の勝敗は決しました。
だいぶ端折っていますので、より詳しい状況が知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 17 ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)の終結とナポレオンの評価
ナイルの海戦の勝敗が決定した後、ネルソンは船上で勝利の祈りを行なった後、座礁しながらも戦う意思を見せているトゥノンとティモレオンを放置して人命救助及びフランス艦の占領と修復を優先しました。
修復不可能なまでに損傷したゲリエ、ウールー、メルキュールは後に焼き払われ、コンケラ、スパルシアーテ、アキロン、ペープル・スーヴェラン、フランクリンは鹵獲され、曳航されました。
8月2日夜、座礁したティモレオン艦長トゥルレは最後まで抵抗することを決意しており、暗闇の中、最後の抵抗の準備を開始しました。
8月3日朝、ネルソンはトゥノンとティモレオンに降伏勧告を行いましたがこの2隻は服従を拒否しました。
そのためネルソンはこの2隻を攻撃するよう命じました。
トゥノンはすぐに拿捕されましたが、ティモレオンはどの船も接近できないほどの位置に座礁していたため遠くからの砲撃しか受けず、抵抗を継続しました。
午前10時12分、ティモレオン艦長トゥルレは拿捕されるのを阻止するために艦に火を放ち、少なくなった乗組員とともに海岸へ逃亡しました。
そして午前11時47分、炎が火薬庫にまで燃え広がったティモレオンが遂に爆発しました。
これによりナイルの海戦は終結し、アブキール湾にイギリスの国旗がはためきました。
8月4日朝、ネルソンは戦死者を海に埋葬し、戦後処理を行い、ヴィルヌーヴ少将率いる逃亡したフランス艦隊の4隻はコルフ島に向かいました。
ナポレオンによるナイルの海戦の評価、オリエントに積まれていたマルタの財宝などについて知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 18 ナイルの海戦直前のフランス軍の状況とベルベイス攻略準備
ナポレオンは、1798年7月21日に行われたピラミッドの戦いでマムルーク軍をベドウィン含め3方向に分断することに成功したため、カイロとギザ周辺の安全を確保するためにドゼー師団でムラード・ベイ軍ににらみを利かせ、メヌー師団やヴィアル旅団に支援されたレイニエ師団でイブラヒム・ベイ軍をベルベイスから追い出すことを計画していました。
そのためフランス軍はダミエッタの征服とナイルデルタ地域の征服に乗り出し、ネルソンがアブキール湾で戦っている頃、ベルベイスのイブラヒム・ベイ軍を攻撃する準備を開始しました。
エジプト戦役 19 アル・ハンカの戦い
イブラヒム・ベイの状況は、このままだと今いるベルベイスも手放さざるを得ず、その後も逃亡を余儀なくされるのではないかと考えられるほど不利なものでした。
ムラード・ベイとの連絡線も遮断されていましたが、ベルベイスでメッカから帰還するキャラバン隊を護衛するマムルーク部隊との合流したいと考えていました。
イブラヒム・ベイの背後にはヴィアル旅団がおり、もしシナイ半島へ逃亡したとしてもレヴァントを支配するジェザル・アフマド・パシャがイブラヒム・ベイを受け入れるとは限りませんでした。
そのため、イブラヒム・ベイはフランス軍に一矢報い、ベルベイス周辺で勢力を維持することを目的として、翌5日夜にフランス軍前衛への攻撃を行なうための準備を開始しました。
1798年8月5日、ボナパルトはカッファレリ将軍にカイロ周辺の要塞化を命令し、エル・コッベのレイニエ将軍に師団を率いてアル・ハンカ(Al Khankah)へ向かうよう命じました。
しかし、イブラヒム・ベイの方が迅速でした。
8月5日夜、イブラヒム・ベイはベルベイスを出発し、ルクレール将軍率いるアル・ハンカの前衛を瞬く間に包囲しました。
ルクレール将軍は銃撃とブドウ弾での砲撃で牽制してイブラヒム・ベイ軍を寄せ付けませんでしたが、後方連絡線の遮断を懸念して、整然と後退を開始しました。
ミュラ将軍とレイニエ将軍は大砲の音を聞きつけると、時間を無駄にすることなく前衛のいるアル・ハンカへ進軍し、8月6日にイブラヒム・ベイ軍を撃退しました。
イブラヒム・ベイはフランス軍の装備と統率を前に何の成果もあげることができずベルベイスに帰還すると、すぐに後衛を残して撤退しました。
エジプト戦役 20 ダミエッタへ向かうヴィアル旅団とアル・ハンカへの集結
1798年8月6日、ヴィアル旅団はダミエッタを占領しました。
本国やコルフ島との連絡を遮断されているナポレオンはダミエッタ占領の報告を喜びました。
そして8月7日、ナポレオンはイブラヒム・ベイ軍後衛をベルベイスから追い出し、追跡するためにアル・ハンカに軍を集結させるよう命じました。
エジプト戦役 021 カイロのドゼーとベルベイスの占領
1798年8月7日、イブラヒム・ベイ軍討伐に向かうナポレオンはドゼー将軍にカイロの指揮を一任しました。
ドゼー師団には、1、ギザ州を確保すること、2、カイロの予備軍を形成すること、の2つの目標が与えられることとなりました。
8月8日、フランス軍の先頭は数千人の住民が住む大きな町であるベルベイスに到着しました。
しかしイブラヒム・ベイ軍はすでにベルベイスを放棄してエル・サルヘイヤへ向かっていました。
8月9日、フランス軍の先頭はコライムのヤシの森で野営し、ここでメッカからのキャラバンが数日前にエジプトとシナイ半島の境に到達したことを知りました。
この時、イブラヒム・ベイ軍はエル・サルヘイヤからの後退を開始しており、その先頭は砂漠に侵入して約8㎞進んでいました。
フランス軍はその後も速度を落とさずイブラヒム・ベイ軍を追跡し、エル・サルヘイヤへの道を進軍しました。
エジプト戦役 22 エル・サルヘイヤの戦い
1798年8月11日、イブラヒム・ベイは、軍と財宝、そして女性たちとともにエル・サルヘイヤから出たところでした。
午後4時、前衛であるルクレール将軍は約300騎の騎兵を率いてエル・サルヘイヤを視界に収めました。
前衛の先頭が村に入るとイブラヒム・ベイは驚き、約1,000人のマムルーク騎兵で構成される後衛で財宝や女性たちの避難を護衛しながら急いで逃走しました。
この時、レイニエ師団の歩兵隊はまだ約6㎞離れていました。
ルクレール将軍は数的劣勢にも関わらず先頭に立ってイブラヒム・ベイを追撃しました。
ルクレール騎兵隊は周囲を多数の敵に囲まれた絶望の中で戦うことを余儀なくされにもかかわらず、イブラヒム・ベイ軍後衛は常に押し戻され、退却するときと退路を守るためにのみ戦いました。
イブラヒム・ベイは逃げる途中、貧弱な大砲2門とラクダ50頭を放棄しましたが、妻やマムルークの家族、財宝、そしてキャラバンから奪った商品を持って退却することに成功しました。
イブラヒム・ベイ軍の後衛は多くの損害を出し、後衛指揮官アリー・ベイは死亡し、イブラヒム・ベイは負傷したと言われています。
その後、イブラヒム・ベイは砂漠へと姿を消し、後退を続けてシナイ半島に入りました。
エル・サルヘイヤの戦いの詳細やイブラヒム・ベイへの降伏勧告などを知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 23 ナイルの海戦での敗報の到着とクレタ沖でのささやかな海戦
ナポレオンはイブラヒム・ベイ軍をエジプトから追い出すことに成功し、残るは上エジプトのムラード・ベイだけとなっていました。
しかし8月13日、エル・サルヘイヤを出発しカイロへの帰途についたばかりのナポレオンの元に急使が到来し、ナイルの海戦での敗報が届けられました。
ナポレオンは状況を把握し、深刻そうな様子も見せずに陽気に振舞っていましたが、対応策を指示するためにカイロへと急ぎました。
クレタ島沖でのリアンダーとジェネルーの遭遇戦については詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 24 ナポレオンのカイロへの帰還
1798年8月15日、ナポレオンは2日で約120㎞の距離を走破してカイロに到着しました。
そしてすぐにナイルの海戦での状況を把握するとガントーム少将にフランス艦隊の指揮権を与え、ダミエッタから連絡線を構築しようと試みました。
この時、アレクサンドリア及びロゼッタ沖ではサミュエル・フッド艦長が指揮する部隊が海上封鎖を行なっていました。
フランス本国からの供給が断たれたナポレオンは窮地に立たされました。
8月16日、ナポレオンはベルティエを通じてドゼー将軍にギザ州の南に位置するベニ・スエフ州とさらにその南のミニヤー州を征服する準備を開始するよう命じました。
イブラヒム・ベイをエジプトから追いやったナポレオンの次の標的はギザ州以南に逃れたムラード・ベイでした。
エジプト戦役 25 ベルナドットの幸福とナポレオンの不幸
1798年8月17日、ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドットとナポレオンの元婚約者デジレ・クラリーの結婚式がロシェ通りにあるベルナドットの邸宅で祝われました。
この2人を引き合わせたのは、ナポレオンの兄ジョセフでした。
一方、ナポレオンにはナイルの海戦での敗北という不幸が舞い降りていました。
ナポレオンはアラブ人と同化しようとしていると見せかけようと、アラブ人と同様の衣装を身にまとい、イスラム教をより尊重し始めました。
しかし、この行為は逆にカイロの人々を勇気付け、裏で冷笑される結果となりました。
エジプト戦役 26 敗北後の多忙とネルソン戦隊の出発
エジプトではナイルの海戦でのフランス艦隊の敗北により民衆が勇気づけられ、ダマンフールで反乱が起きていました。
今後、反乱や抵抗が増加するのではないかと予想されました。
ナポレオンは様々な手配を行いましたが、エジプトの外への連絡は遮断されているため書簡はロゼッタで止められました。
一方、8月19日、艦の修復を終えたネルソンは、アレクサンドリアとロゼッタの封鎖部隊の指揮を3等戦列艦「ジーラス」艦長サミュエル・フッドに一任し、アブキール湾を出発しました。
艦を修復したとはいえ応急的なものであり、尚且つネルソン戦隊の損害は大きく、ジブラルタルまでの航海に耐えられるだけの更なる修理を行う必要がありました。
ネルソン戦隊がアブキール湾を離れたことはナポレオンにとって朗報でした。
反旗を翻すことを考えているエジプトの首長たちに「ネルソン戦隊は別のフランス艦隊によって追跡されている。」と偽りを流布してなだめることに成功していました。
実際、陸上ではフランス軍は圧倒的な力でイブラヒム・ベイをエジプトから追い出し、ムラード・ベイもフランス軍に手も足も出ず、デルタ地帯を制圧し、フランス軍が勝利しているように見えていたのでした。
エル・ジャマリーヤでの戦闘やヴィルヌーヴ艦隊の動向を知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 27 オスマン帝国内部の情勢とエジプト遠征の全体像
ブリュイ提督率いるフランス東洋軍艦隊がネルソン戦隊に壊滅させられたことを知ったイブラヒム・ベイは「フランス艦隊が壊滅したことにより状況が一変し、(フランス軍は)もはや助けを得ることができず、あらゆる方向に敵が存在し、最終的には敗北するだろう」と語りシリア方面へ撤退して行きました。
ナポレオンはオスマン帝国大宰相とジェザル・アフマド・パシャ宛てに書簡を送り、敵対したくない旨を伝えていました。
オスマン帝国と事を構えるつもりは無く、エジプトを要塞化し、インドのマイソール王国と協力してインドのイギリス勢力を排除することを考えていました。
しかし、オスマン帝国側から見た場合、実質的にマムルークに支配されていたとはいえ、突然自国領をフランスに奪われたのであり、例え友好国だったとしても看過できない出来事でした。
この時、外務大臣タレーランの不義理によりエジプト遠征前から計画していた対オスマン帝国外交戦略はすでに崩れ去り、エジプト総督セイド・アブー・バクル・パシャも取り逃している状況でした。
ナポレオンが当初の計画であるイギリスをインドから排除するためのインドへの派兵を成し遂げるためには、オスマン帝国との和平、上エジプトとスエズの征服、地中海のイギリス海軍の排除とエジプト各地での住民反乱への対応が大きな課題となっていましたが、オスマン帝国との和平は成し遂げられない状況となりつつありました。
エジプト戦役 28 反乱の増加とドゼー師団の南下の開始
1798年8月中、ミヌフィーヤ州やマンスーラ周辺の村々をはじめ、エジプトのあちこちで反乱やフランス兵が襲撃される事件が起こっていました。
ナイルの海戦でのフランスの敗北によりエジプトの民衆が勇気づけられたのだろうと考えらえていたが、実際はデルタ地帯やダカリーヤ州周辺での事件はダカリーヤ州の支配者ハッサン・トゥバールの策動によるものでした。
この時、ハッサン・トゥバールは、自分の支配する村をフランス軍によって焼き払われ、大きな危機感を持っていました。
ナポレオンはこれらの反乱や襲撃事件に対して武力で解決を図り、寄付金を課したり、見せしめとして村を焼き払ったり、処刑するなどして対応しました。
しかし、ナポレオンがいるカイロでも、遠く離れたマルタにおいても住民の不満は燻っていました。
一方、8月25日夜明け、ドゼー将軍はカイロのブウラク港を出港し、師団の一部とともにナイル川を遡り、ナイル川右岸にあるアトフィへ向かいました。
残りの師団は陸からナイル川左岸側を南下しました。
エジプト戦役 29 イブラヒム・ベイのガザ到着とドゼー師団の侵攻準備の完了
1798年8月26日、イブラヒム・ベイ軍はシナイ半島の砂漠を越え、ガザ付近に到着していました。
しかし、過酷な砂漠での行軍で財宝を守り抜きながらも戦力を半減させていました。
ジェザル・アフマド・パシャはイブラヒム・ベイを逮捕することなく、マムルーク朝に亡命と保護を与えて歓待しました。
8月27日、前日にナイル川左岸側で進軍を開始したドゼー師団は、ギザ州とベニ・スエフ州の州境にまで移動し、ベニ・スエフ州への侵攻準備を整えました。
この時点でのドゼー師団の兵力は3,500人であり、ムラード・ベイ軍の約3倍の兵力を有していました。
エジプト戦役 30 ナポレオンの大ピラミッド内での一夜とドゼー師団の州都ベニ・スエフの占領
1798年8月30日、アル・フィエルディに集結しているドゼー師団はギザ州とベニ・スエフ州との州境を越えて侵攻を開始しました。
ムラード・ベイ軍はドゼー師団の前進を見るとすぐに撤退しました。
ドゼー将軍の進軍を阻むものは無く、瞬く間にブーシュを占領し、さらにその先の州都ベニ・スエフを占領しました。
ナポレオンの大ピラミッド内での一夜については詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 31 ムラード・ベイのアル・バーナサへの撤退とハッサン・トゥバールの態度の軟化
1798年9月1日、ドゼー師団が州都ベニ・スエフに本部を置き、見失ったムラード・ベイ軍の探索を行っている頃、ムラード・ベイはファイユーム州へ流れ込むジョセフ運河が通るアル・バーナサへの集結を計画していました。
ムラード・ベイ率いるマムルーク軍は陸路でアル・バーナサへ向かい、ベニ・スエフで分離されたナイル艦隊はダイルートへ行き、その後、ジョセフ運河を下ってアル・バーナサへ向かう予定でした。
ケナ州からの増援もアル・バーナサで合流することとなっていました。
フランス軍はナイル川の氾濫による地形の変化でアル・バーナサに近づくことが難しく、アル・バーナサはその場に留まって戦うこと、ファイユームへ行くこともアシュートへ行くこともでき、砂漠へ逃れることもできる位置にありました。
ハッサン・トゥバールの動向やムラード・ベイの考えなどについて知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 32 アル・バーナサへの進軍命令とムハンマド・エル・コライムの処刑
1798年9月4日、ドゼー将軍は、ムラード・ベイ軍がアル・バーナサに集結していることを知りました。
しかし、アル・バーナサへの道はナイル川の氾濫で現れた沼地で塞がれていました。
そのため、まずはアブー・ジルジに南下しそこからアル・バーナサに向かうことを決定しました。
9月5日、ドゼー師団は夜7時にアブー・ジルジに到着し、ムラード・ベイ軍がまだアル・バーナサにいることを知りました。
この時、アル・バーナサにいたムラード・ベイ軍は後衛であり、ナイル川で切り離した艦隊と合流しつつありました。
そのため、この日ドゼー将軍は休息し、6日に師団の集結を待ちつつムラード・ベイ軍後衛を打ち砕いて物資を奪うための準備に取り掛かりました。
元アレクサンドリア総督ムハンマド・エル・コライム・パシャの最後については詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 33 アル・バーナサでの戦闘
1798年9月7日夜明け、ドゼー将軍は艦隊にジョセフ運河の入り口まで航行を続けるよう命じた後、下馬して1個大隊とともにアブー・ジルジを出発し、アル・バーナサにあるムラード・ベイ軍後衛陣地に向かいました。
ナイル川からジョセフ運河の間は増水により平原にも水が入り込んで水路が通り、足元では周辺一帯のひび割れた溝に水が浸入して8つの運河を形成し、泥の湖が出現していました。
ドゼー将軍率いる大隊はドゼー将軍を見習って不平不満を言わず、水に浸かって泥まみれになりながら前進しました。
ドゼー将軍率いる大隊がジョセフ運河右岸の堤防を制圧した時、ムラード・ベイの艦隊がアル・バーナサを通過しようとしているところでした。
ムラード・ベイ軍後衛はフランス軍を発見すると艦隊を守ろうとしましたが、ドゼー将軍率いる大隊の一斉射撃により撃退されました。
その後、ムラード・ベイの艦隊は鹵獲され、積み荷はフランス軍に奪われました。
アル・バーナサで勝利したドゼー将軍でしたが、アブー・ジルジからアル・バーナサまでの連絡線を確立できませんでした。
そのため、一旦ムラード・ベイ軍を追跡することを諦め、アブー・ジルジに戻って師団と合流しました。
そして船に乗り、再びムラード・ベイを追跡するためにジョセフ運河の入り口のあるダイルート・エル・シャリーフへと旅立ちました。
反乱の鎮圧状況やハッサン・トゥバールの動向などを知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 34 フランスを取り巻く情勢情勢と世界初の軍へのコーヒーの配給
1798年9月上旬時点でのフランスを取り巻く情勢は、フランスにとって徐々に不穏なものとなりつつありました。
フランスは周辺地域を制圧して姉妹共和国を建国し、その勢力は大きく拡大していました。
まだ独立を保っているサルディーニャ王国などはほぼフランスの支配下となっていましたが、周辺の国々が結託しつつありました。
そのような中、ナポレオンはナイル川を利用した物流改革を行なおうとしていました。
ローダ島に物流倉庫を作り、アレクサンドリア、ロゼッタ、ダミエッタ、上エジプトなどへ物資を行き届かせようとしたのです。
ナポレオンとしてはフランス本国からの物資の供給が断たれた今、エジプト国内の物資でなんとかする必要がありました。
そしてこの物流改革はフランス軍がエジプトで生きていくために必要なものでした。
コーヒーの配給などについては詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 35 ドゼー将軍のアシュート遠征
1798年9月13日、ボナパルトが各師団にコーヒー豆の配給を命令している頃、ドゼー師団はアブー・ジルジから約120㎞南に位置するダイルート・エル・シャリーフ付近に到着していました。
そこでムラード・ベイ軍と合流しようとしていたマムルーク軍の増援部隊がアシュートを占領しているという情報を得ました。
そのため9月14日、ジョセフ運河の入り口に部隊を残し、師団とともにアシュートへ向かいました。
9月15日、マムルーク軍はドゼー師団が近づくと逃げ出し、ドゼー将軍は何の抵抗も無くアシュートを占領しました。
エジプト戦役 36 エル・ショアラの戦い
大艦隊を組織し、民衆を扇動したエル・マンザラの首長であるハッサン・トゥバールは、遂に裏で進めていたダミエッタ襲撃計画を実行に移しました。
1798年9月15日夜から16日未明にかけて、マンザラ湖周辺の住民達がハッサン・トゥバールの指導下でダミエッタの守備隊を攻撃しました。
トゥバール軍はダミエッタの前哨陣地でフランス衛兵を殺害することに成功しましたが、武器の性能差は明らかであり、圧倒的数的優勢にもかかわらず、僅か数百人のフランス守備隊に撃退されました。
9月16日、ダミエッタへの攻撃を撃退されたトゥバール軍はダミエッタの大砲の射程内にあるエル・ショアラ村に集結し、本拠地としました。
トゥバール軍とダミエッタ守備隊は双方とも17日と18日に増援が合流し、エル・ショアラ村は塹壕が張り巡らされて要塞と化しました。
そして増援を受け取り攻撃の準備を整えたヴィアル将軍は19日夜明けにエル・ショアラ村を攻撃することを決定しました。
トゥバール軍は一列に整列し、ナイル川からマンザラ湖までの全域を占領し、その数は10,000人を超えていました。
ヴィアル将軍が僅か400人~500人で攻撃するとトゥバール軍は蜘蛛の子を散らすように逃亡し、エル・ショアラ村は略奪され、燃やされました。
フランス側の損害は、死者1人、負傷者4人だけであり、トゥバール軍の損害は、1,500人以上が死亡または溺死したと言われています。
エル・ショアラの戦いの裏で勃発したロゼッタでの反乱については詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 37 ナポレオンによるファイユーム州遠征の承認
1798年9月15日にアシュートを占領したドゼー将軍でしたが、ファイユーム方面にいるムラード・ベイ軍の脅威による後方連絡線の安全への懸念を持っていました。
そのため、ドゼー将軍はギルガに後退したマムルーク軍の追跡を諦め、総司令官に「ジョゼフ運河に入りムラード・ベイを追跡する計画」を提案し増援を求める書簡を送りました。
9月20日、ファイユーム州遠征の承認を得たドゼー将軍はすぐに準備をし、その日の夜、ファイユーム州に向かったムラード・ベイと対決するために師団と小艦隊とともにアシュートを出発しました。
エジプト戦役 38 ナイルの海戦以降のフランス軍の懐事情とネルソン戦隊のナポリへの寄港
ナイルの海戦での敗北以降、フランス軍の懐事情は酷いものでした。
フランス軍はエジプトでの自給自足を強いられたため、税制改革を行い、富裕層や商人などに寄付金などを課して資金を調達していましたが、寄付金の支払いに協力的でない者、金銭的に支払えない者もいました。
フランス軍はマムルーク朝からの解放を謳っていたため、あからさまな略奪を行なうことはできませんでした。
そのため、何とか平和裏に資金を確保するために、罪人に罰金を課す代わりに刑を減免し、反抗した村に重い寄付金を課し、何かにつけて金銭を要求しました。
これらの過剰な要求はフランス軍にとっては必要なことでしたが、水面下で民衆に反フランスの意識を植え付けていきました。
ネルソン戦隊のナポリへの到着について知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 39 ナポレオンのピラミッド観光とスフィンクスの鼻の伝説
1798年9月23日、建国記念日の翌日、ナポレオンはピラミッドに行くことを希望した幹部に、ギザへの集合を伝えました。
23日はギザで就寝し、グレジュー将軍が率いる200人の部隊に護衛されて24日午前6時にギザを出発しました。
ベルティエをはじめとする側近たちや科学者数人がピラミッドの頂上まで登る傍ら、ナポレオンはピラミッドの麓の陰で計算をしながら休憩していました。
側近たちが下りてきてナポレオンの元に行くと、ナポレオンは「ピラミッドの石材で高さ6ピエ(1ピエ=約32.48㎝, 6ピエ=約194.88㎝)の壁を作ると仮定すると、壁は長さ1,000リーグ(約4,000㎞)となりフランスを一周することができる。」と語ったと言われています。
この時、ナポレオンは首から下が砂に埋もれたスフィンクスも見物しています。
エジプト遠征時に「ナポレオンがスフィンクスに向かって大砲を撃ち、鼻を破壊した。」という伝説が残されていますが、これは事実ではありません。
エジプト遠征の時にはすでにスフィンクスの鼻はなくなっていたからです。
エジプト戦役 40 ファイユーム州遠征の始まりとダカリーヤ州への遠征準備
1798年9月22日、ドゼー師団はジョセフ運河の入り口に到着し、ムラード・ベイ軍と対決する準備を開始しました。
ムラード・ベイもこの半月でドゼー師団に対抗すべく計画を練り、フランス軍に対抗できるよう準備を整えていました。
そしてアシュートを占領したドゼー師団がジョセフ運河の入り口に向かったことを知ると、これを撃退するためにジョゼフ運河を遡り、マウズーラへ向かいました。
9月24日、ドゼー将軍は、師団をジョセフ運河に沿うように進軍させ、自らは船に乗り込み師団の行軍に合わせてファイユーム州へ向かって出発しました。
一方、ハッサン・トゥバールが武力蜂起し、エル・ショアラの戦いでヴィアル旅団に敗北したことを知ったナポレオンは、ハッサン・トゥバールを討伐しダカリーヤ州を制圧する以外にダカリーヤ州を利用する術がないと悟りました。
そのためドゥガ将軍にダミエッタのヴィアル将軍やエル・サルヘイヤのラグランジュ将軍と協力してハッサン・トゥバール討伐を命じました。
ドゥガ将軍はマンザラ湖の探索を進めつつ、ダミエッタに師団を集結させました。
エジプト戦役 41 カイロでのスパイの蔓延と軍資金の枯渇
1798年9月25日、カイロではオスマン・ベイの妻がムラード・ベイ陣営と書簡のやり取りをしていたことが判明しました。
オスマン・ベイの妻の件は氷山の一角であり、フランス軍のほとんどの者はアラビア語が理解できず、カイロではスパイが蔓延っていました。
フランス軍もスパイの摘発をしてはいましたが、ムラード・ベイにカイロの状況は筒抜けでした。
しかし、フランス軍の軍資金も枯渇していたためオスマン・ベイの妻に罪を赦す代わりに罰金を課したのでした。
ナポレオンは宝くじなどを発行し、遅滞している寄付金の取り立てを強化して軍資金を確保しようとしましたが、この厳しい取り立てによりフランス軍の統治への不満はさらに高まっていきました。
これらの間、ダカリーヤ州の支配者ハッサン・トゥバール討伐準備が整っており、ナポレオンは遂にハッサン・トゥバールの本拠地であるエル・マンザラの占領を命じました。
エジプト戦役 42 ヴィルヌーヴ艦隊のマルタへの到着とファイユーム州遠征でのムラード・ベイ軍との戦いの始まり
1798年9月24日にジョセフ運河を出発したドゼー師団は、様々な困難に直面しながらも10月2日にようやくアル・バーナサにたどり着きました。
そして10月3日、ドゼー師団の前衛部隊はバニ・ミ二ヤン村の近くでムラード・ベイ軍の駐屯地を発見しました。
前衛同士の戦いがはじまりましたが、しばらく後、ムラード・ベイ軍の前衛部隊が撤退し、逃走してフランス軍を艦隊から引き離そうとしました。
ドゼー将軍がその作戦に引っかかることは無く、師団は再び乗船して運河を下って追跡を続けました。
ヴィルヌーヴ艦隊のマルタへの到着についてやナポレオンが発行した約束手形などについて知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 43 マウズーラの戦いとダカリーヤ州遠征の成功
1798年10月4日朝、運河が砂漠に近づく場所でムラード・ベイ軍が待ち伏せしているのが見えました。
そしてドゼー師団がマウズーラ村に近づいたとき、マウズーラ村に突如として大軍勢が現れました。
ドゼー将軍は反転してバニ・ミニヤン村付近で上陸するよう命じましたが、マムルーク騎兵に追いつかれ後部のボートが攻撃を受けました。
ドゼー師団は攻撃を受けながらも上陸を成功させ、マムルーク騎兵を撃退することに成功しました。
ドゼー師団は方陣を形成してムラード・ベイ軍前衛の攻撃を撃退しつつ前進を続け、夜、マウズーラ村の向かい側に陣取りました。
10月5日、ドゼー師団はジョセフ運河沿いの行進を再開しました。
ムーラド・ベイ軍本体はまだ遠く離れており、遠目では2列に編成されているように見えました。
ドゼー師団が近づくにつれ、ムラード・ベイは師団の左翼側に移動してより高い位置を獲得し、突撃できる位置に陣取りました。
ドゼー将軍は方向転換を命じ、高い位置にいるムラード・ベイに真っ直ぐ向かっていきました。
そして砲撃を開始するとムラード・ベイ軍は崩れ、後退していきました。
10月6日、ドゼー将軍は師団に休息を命じ、前進を再開しました。
その後、ドゼー将軍は偵察から、ムラード・ベイがセドマン・アル・ジャバルで待ち構えており戦うつもりであると報告を受けました。
ドゼー将軍はセドマンにいるムラード・ベイ軍を攻撃するための準備を開始しました。
ダカリーヤ州遠征については詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 44 セドマンの戦い
1798年10月7日、日の出とともに約2,500人を有するドゼー師団は動き始めました。
騎兵がほとんどいなかったため、ドゼー将軍は師団で方陣を形成し、両側面に200人で構成される小方陣を配置し、氾濫原と砂漠の端に沿って前進しました。
午前8時、ムラード・ベイが軍の先頭に立っているのが見えました。
その軍勢はマムルーク騎兵2,000騎、アラブ騎兵8,000騎(恐らくベドウィン)、そしてフェラ民兵(歩兵)で構成されていました。
ムラード・ベイは師団に近づくとすぐに騎兵を出陣させ、砂埃が舞い上がりました。
ムラード・ベイ軍は瞬く間にドゼー師団を包囲し、最大の勢いで方陣の後部に突撃しました。
しかし方陣からの大砲と銃による攻撃によって激しく撃退されました。
ムラード・ベイは包囲を解いて軍を集結させつつ、ドゼー師団右翼の小方陣に部隊を突撃させました。
最初の突撃はすべて撃退されましたが、2回目の突撃で小方陣を崩すことに成功しました。
小方陣の兵達は白兵戦を繰り広げた後、大方陣へ退却しました。
ムラード・ベイはドゼー師団左翼の小方陣も崩そうと部隊を突撃させましたが、すべて撃退されました。
その後、これまで集団で行動していた多数の騎兵を分割し、再び師団を包囲しました。
ムラード・ベイ軍はいくつかの砂の山を占領し、その内の1つで、隠されていた4門の大砲で構成される砲台を露わにしました。
この砲台は有利な位置に配置されており、ドゼー師団に致命的な砲弾の雨を降らせました。
ムラード・ベイはピラミッドの戦いでエンバベからの砲撃によりボン師団の方陣が崩れそうになったことを覚えていました。
この危機にドゼー将軍は砲台のある砂丘に向かって前進を命じ、ジャン・ラップ大尉率いる部隊が砲台を占領することに成功しました。
高地と砲台を手に入れたドゼー将軍は、ムラード・ベイ軍への砲撃を指示しましたが、ムラード・ベイ軍はすぐにあらゆる方向に逃亡して行きました。
師団は負傷者を連れ戻し、しばらく休息し、午後3時にセドマンに向けて出発しました。
エジプト戦役 45 失明の恐怖と州都ファイユームへの到着
ドゼー師団はムラード・ベイ軍を追ってセドマンを通過し、10月8日にファイユーム州へと続く渓谷の入り口にあるエル・ラフンに到着しました。
ジョセフ運河はこの地点で2方向に分岐し、一方はナイル川と平行に流れ、もう一方は人手の入った隘路を通ってファイユームの湖に流れ込んでいました。
ドゼー将軍は部下の強い要望もあって休息を許可しました。
そして師団の誰もが運河で水浴びをしました。
しかし衛生状態は悪く、数日後、ドゼー将軍と師団の約半数が眼炎に罹患して片目ないし両目を失明してしまいました。
失明の恐怖に怯えたフランス兵達はジョセフ運河に沿ってファイユームの町に向かって移動し、そこで治癒手段を見つけることを希望しました。
両目が見えなくなったドゼー将軍は数人の兵士とともにボートに乗せられました。
この時のドゼー師団は、軍というより病院からの避難者のように見えたと言われています。
ドゼー師団は行軍を続け、遂に州都ファイユームに到着し、療養しました。
エジプト戦役 46 ネルソン戦隊のナポリでの休暇とマルタ封鎖
1798年10月初旬、ナイルの海戦の報告がロンドンに届けられ、戦勝に沸き立ちました。
イギリス本国のお祭り騒ぎとは反対に、ネルソンはナポリで傷を癒し、穏やかな日々を過ごしていました。
ネルソンとは対照的に、ナポレオンは忙しくしていました。
地中海の海岸線の強化、反乱の鎮圧、連絡線の中継地点の防御強化、ダミエッタ~エル・サルヘイヤ間の連絡線の確立、ペルシウムでの砦の建設、そして金策に駆けまわることを余儀なくされていました。
ナポレオンの金策は不評であり、利害関係者やそこで働く者たち、そしてその家族の不満は並大抵のものではありませんでした。
10月中旬、ムラード・ベイはセドマンの戦いの敗北に打ちのめされ、ガラクにある湖の裏で態勢を立て直していました。
そこへ近い内にカイロで反乱が起きるという情報が舞い込んできました。
ムラード・ベイはカイロでの反乱を利用してより有利な立場を築くためにすぐに準備を整え、ドゼー師団が動けない隙を突いてカイロ方面へ出発しました。
マルタ封鎖などについては詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 47 カイロの反乱
カイロの反乱のトリガー
フランス軍の財政は逼迫しており、このままでは10月21日に支払う予定である兵士達の給料の支払いも滞ることになるのは目に見えていました。
そのためボナパルトは支払いに対して約束手形を発行する実質的な後払い制度を実施しました。
この制度は、その多くがカイロに住んでいる利権者たちに損害を与えるものであり、兵士の給料の支払い日である10月21日までの間の寄付金の取り立ても酷いものだったため、水面下で反乱を実行に移す決定的な動機となりました。
カイロでの反乱の呼びかけと反乱の始まり
エジプトのイスラム教ではアザーン(礼拝時間の呼びかけ)を1日に3回行なうのが習慣となっており、利権者たちはこのアザーンの文言を反乱の呼びかけに変えて民衆を扇動しました。
カイロの街が静まり返っている頃、ナポレオンは有力者や科学者、そして幹部たちとともにローダ島に集まり、司法や警察組織について真剣に議論していました。
1798年10月21日夜明け、カイロ市内のさまざまな地区、特にエル・アズハル・モスクで騒々しい集会が形成されました。
集会の指導者は、「オスマン帝国宮廷がフランスに宣戦布告し、ジェザル・パシャ司令官が軍を率いてベルベイスに到着した」と民衆に告げ、ムアッジン(アザーンの呼びかけを行う役職者)はカイロの400本のミナレットの頂上から一晩中、異教徒たちに対する非難を街中に響かせました。
朝7時、多くの人々が法執行者の邸宅の前に集まって連れ出し、その後、全員でフランスの総司令官の元に嘆願書を提出するために彼を馬に乗せました。
しかし、法執行者が嘆願書を提出するだけにもかかわらず人数が多すぎることに驚いて邸宅に戻ると、それに不満を抱いた暴徒は石や棒で彼とその家族や従者達に襲い掛かり、彼の邸宅を略奪しました。
その間にも群衆の波は刻一刻と大きくなっていき、自分たちはフランス軍よりも十分強いと考えるようになりました。
集会は反乱へと変わり、カファレッリ将軍の邸宅は略奪され、中にいた人はバラバラに引き裂かれました。
同時に別の反乱グループがローダ島のセレモニー会場を取り囲みました。
ナポレオンは幹部とその部下たちとともに邸宅に立て籠もり、この反乱グループに抵抗しました。
科学者や芸術家たちも自ら武器を取って戦いました。
科学者や芸術家たちは、注意深く観察し、頑強に自分たちを守ったため、反乱グループの攻撃はすべて撃退されました。
ボン師団による反乱軍への攻撃
カイロの司令官であるデュプイ将軍が死亡したというニュースがカイロ中を駆け巡ると、ボン将軍は大砲を発砲して警報として使い、カイロ周辺の軍で移動縦隊を形成して集結させました。
間もなく、ボン将軍麾下のいくつかの大砲を持った強力な歩兵の分遣隊が大通りに派遣され、殺気立って騒いでいる反乱軍に発砲しました。
反乱軍の内の15,000人は射撃と銃剣によって追い立てられ、大モスクと呼ばれるエル・アズハル・モスクに避難していきました。
そしてボン将軍はエズベキエ広場周辺から反乱軍を排除すると、ローダ島へ救援部隊を派遣しました。
ナポレオンとボン将軍の合流
8月21日夕方、ローダ島に救援部隊が到着し、ナポレオン一行は包囲から解放され、カイロの反乱について報告を受けました。
その後、ナポレオンは少数の護衛とともに急いでカイロの街に向かいました。
ナポレオンはカイロに入ることを考えていましたが、ローダ島から近い門は反乱軍によって覆われており、そこから街に入ることはできませんでした。
そして3つ目のブウラク側の門に到着した時、ようやくカイロの壁を越えて街の中に入ることができ、ボン将軍との合流に成功しました。
ナポレオンによる指揮の開始
ナポレオンは、21日の夜の内に、ルマイラ広場(サラディン城塞前にある広場)、エジプト研究所、エズベキエ広場との間の連絡線を再確立するため部隊を派遣し、その周辺の門や軍事施設を占領し、司令部をエズベキエ広場からサラディン城塞に移しました。
フランス軍は武装したままで夜を過ごしたが、エル・アズハル・モスク(大モスク)の東に広がる死者の町(北墓地)を拠点としている反乱軍の大多数は、日没後には何もしないという習慣のために自宅に帰り、大モスクを占拠している者でさえも砲撃を中断しました。
大通りをバリケードで封鎖したエル・アズハル・モスクの周囲を除いて、カイロの街全体がほとんど静まり返っていました。
そして夜が明ける前までに反乱の中心部以外の周辺地域を制圧していきました。
総攻撃のための準備と作戦の開始
8月22日朝、ベドウィンや農民たちは(恐らく北側と東側の門から)カイロの町に入り始めました。
朝8時、ナポレオンはデュマ将軍を騎兵とともに平原を破るために派遣しました。
そしてこの日、エル・アズハル・モスクへの一斉砲撃を行なうための準備を行いました。
22日夕暮れ時、反乱軍は再び北墓地に集結しましたが、ナポレオンはそこへ歩兵縦隊を送り込んで虐殺しました。
死者の町だけではなく、カイロの町のあらゆる大通りも同様に血なまぐさい虐殺の現場となったと言われています。
一部の強い反乱支持者はカイロの町で抵抗したが、その他の者達は戦いを放棄して逃亡しました。
騎兵隊を率いるデュマ将軍とランヌ将軍はカイロの周囲の田園地帯で急いでカイロから逃亡しようとしているベドウィンや農民の集団を追撃し、カイロに入ろうとする人々を阻みました。
休戦交渉の決裂
反乱軍は依然としてエル・アズハル・モスクを占拠しており、この場所で最後の最後まで持ち堪えることを考えているようでした。
ナポレオンはエル・アズハル・モスクへの一斉砲撃の態勢が整ったため砲撃準備を命じ、その準備の間、休戦交渉使節を派遣しましたが銃撃で迎えられました。
ナポレオンはその後も諦めずに休戦交渉使節を派遣しましたが、寛大さは反乱軍にとっては弱腰にしか見えず、反乱軍は自分たちの数的優位を過信して、すべての提案を拒否しました。
和平の道は閉ざされ、残された選択肢は強硬手段しかありませんでした。
エル・アズハル・モスクへの砲撃の開始
23日午後1時、ナポレオンが命じると砲撃がエル・アズハル・モスク周辺一帯に降り注ぎました。
反乱軍はモスクから出撃してデュプイ砦付近にある砲台を一時的に撤去しましたが、ドマルタン将軍によって撃退されました。
午後4時、ボナパルトは「彼(アッラー)は遅すぎる。お前たちが始めたが、私が終わらせる!」と叫びました。
そして即座に準備されていた4つの歩兵縦隊に合図を出しました。
4つの歩兵縦隊がエル・アズハル・モスクに到着したのは、ちょうどデュプイ砦からの恐怖に怯えた逃亡者たちが入ってきたときでした。
デュプイ砦付近の砲台も再建されて砲撃を開始し、サラディン要塞からもエル・アズハル・モスクに砲弾が降り注ぎました。
火災が始まった瞬間、晴れていた空が雲で覆われ、雷鳴とフランス軍の大砲の音が混ぜ合わさり、カイロの住民達は畏怖したと言われています。
エル・アズハル・モスクの制圧
砲撃は大モスクの周辺に大きな混乱をもたらし、瓦礫の下に埋もれる危険を感じた反乱軍は戦う意思を失い、砲撃から20分も経たないうちにバリケードは解除されました。
反乱軍はナポレオンの寛大な提案を拒否したにもかかわらず、フランスへの服従を約束するために使者を派遣しました。
しかし、反乱軍の提案は遅すぎました。
ナポレオンは「私が許しを与えたとき、あなたたちは拒否した。今、復讐の時が来た。あなたたちが始めた戦いであり、それをいつ終えるのかは私次第だ。」と使者に伝えました。
この厳しい返答を聞いた反乱軍は、生き延びるために武器を手に持って突破口を作ろうと包囲軍に向かって突撃しました。
しかし、フランス歩兵の銃剣によって迎撃され、突撃した者たちに残された選択肢は死だけでした。
その光景を見た指導者たちは、自分たちの呼びかけが道を誤ったと群衆に訴え、武器を持たずに兵士たちに向かって進み、助命を懇願しました。
ナポレオンは反乱軍が最後の隠れ家で敗北を認めたことに満足して攻撃を止め、まだモスクに残っている武器を放棄した反乱軍全員の助命に応じました。
そして午後7時、ようやく街に静寂が訪れました。
エジプト戦役 48 ムラード・ベイの下エジプトへの接近と周辺地域への影響力の回復
ボナパルトがカイロの秩序を完全に取り戻した10月24日、ムラード・ベイはガラクの湖の裏側から騎兵の先頭に立って移動し、下エジプトに接近しつつありました。
ムラード・ベイが下エジプトに接近した目的は、イギリスと連絡を取り合うことももちろんだが、カイロを初めエジプト各地での反乱が起こることを知っており、あわよくば反乱に乗じてギザやカイロを取り戻すことができるのではないかと期待していました。
しかしもうすでにカイロの反乱は鎮圧され、フランス軍の監視下で平穏を取り戻しつつありました。
一方、カイロに平和を取り戻したナポレオンはカイロの反乱で扇動されたナイルデルタ周辺地域の制圧に乗り出しました。
ベルベイスでの戦闘やイギリス戦隊によるエジプト上陸作戦などについて知りたい方は詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 49 デュマ将軍のホームシックとイブラヒム・ベイの策動
11月初旬、ジェザル・アフマド・パシャ、イブラヒム・ベイ、シリアのパシャ、そしてオスマン帝国軍がエジプトに向かって進軍しているという情報が発表されました。
これらはイブラヒム・ベイの工作員が商人に扮して流布したものであり、エジプトでフランス軍に抵抗している人々を勇気づけ、エジプトを混乱に陥れることが目的でした。
しかし、この時すでにエジプトでフランス軍に抵抗していた人々にはもうすでに力は無く、フランス軍はエジプト全土の征服に乗り出していました。
11月4日、これらの書簡が偽りであることを見破ったナポレオンは、エジプトの民衆がオスマン帝国の進軍の情報に希望を持ち更なる反乱を起こす可能性を封じるために各州の司令官や村の長老たちにこれらの工作員を捕らえて州都に送るよう強く求めました。
イギリスによる地中海の支配やデュマ将軍のことなどについては詳細記事をご覧ください。
エジプト戦役 50 「正義のスルタン」の異名の始まりとエジプト戦役の終わり
1798年10月下旬、カイロの反乱がすでに鎮圧されたことを知ったムラード・ベイはすぐにファイユーム州に戻り、ドゼー将軍に対抗しました。
ムラード・ベイはファイユーム州の民衆を焚きつけ、武器を手にして警戒する村も出てきていました。
11月6日、眼炎が治癒し視力が戻ったドゼー将軍はファイユーム州での税と馬の徴収と反乱の芽を摘むことを目的としてファイユームの町に2個中隊350人と病人150人を残して出発し、ファイユーム州を旅しました。
村人たちははじめフランスの将軍の接近に大きな恐怖を感じており、
首長たちは、各村の入り口でドゼーを出迎え、砂埃の中で額を下げて恩赦を懇願し、怒りを避けるための贈り物を差し出しました。
しかしドゼー将軍は足元に置かれた贈り物を受け取らず、正規の税のみを受け取りました。
一方でムラード・ベイに焚きつけられた村々は武器を手に取ってフランス軍に対抗しました。
ドゼー将軍はそれらの村の1つを攻撃し、見せしめのために略奪して燃やしました。
しかし11月7日にはドゼー将軍の知らぬところですでに膨大な数の群衆が武装して集まっていました。
その後、ドゼー将軍不在の州都ファイユームは襲撃されましたが、わずか350人の兵士と150人の病人しかいないロビン旅団によって撃退されました。
カイロの反乱の失敗とフランス軍によるナイルデルタの征服、ムラード・ベイによる州都ファイユームの襲撃の失敗はエジプト戦役の終わりを告げ、これから新たな戦役が始まることを示していることを予感させました。
参考資料
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・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第5巻
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・Vertray著「L'Armée française en Égypte, 1798-1801 : journal d'un officier de l'Armée d'Égypte」(1883)
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・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」
・James Stanier Clarke and John M'Arthur著「The Life of Admiral Lord Nelson from His Manuscripts: Volume 2」(1809)
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・Cooper Willyams著「A Voyage Up the Mediterranean in His Majesty's Ship the Swiftsure」(1802)
・Edward Pelham Brenton 著「The Naval History of Great Britain: From the Year MDCCLXXXIII to MDCCCXXII,Vol II.」(1823)
・John Marshall著「Royal Naval Biography,Vol 1. Part 2.」(1823)
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