リヴォリ戦役 13:サン・ミケーレでの戦闘
Battle of Rivoli 13

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

サン・ミケーレでの戦闘

 1月12日、プロベラは遂にアンジャーリへの橋の建設命令を下した。

 しかしその直後、プロベラはアンジャーリに向かう途中でべヴィラックアの舟橋用ボートの運搬を停止させた。

 同日、バヤリッヒ将軍はヴェローナを2個大隊、1個騎兵中隊で攻撃し、ヴェローナの前のサン・ミケーレ周辺の平原に駐留するよう命じられていた。

 ヴェローナ周辺を防衛しているマッセナ師団の部隊は約4,000人と推定され、バヤリッヒが直卒する2個大隊、1個騎兵中隊よりもはるかに数的優位であり、大砲の数においても勝っていた。

 それにもかかわらずバヤリッヒ将軍はマッセナ師団の前衛が防衛するサン・ミケーレへ攻撃を仕掛けた。

 サン・ミケーレを防衛するブルーン将軍とルクレール騎兵隊は激しい攻撃に耐え、マッセナに師団の一部とともに駆け付けるための時間を稼いだ。

 バヤリッヒ将軍は3度もの攻撃を行ったが、多くの部隊を展開できる平原という地形と数に打ち勝つことはできなかった。

 マッセナはバヤリッヒ旅団を包囲するために左側面に縦隊を前進させた。

 バヤリッヒ将軍は包囲され680人を失った後、カルディエーロまで撤退した。

 大砲6門が解体され、その内の2門といくつかの弾薬ケースがフランス軍の手に落ちた。

 サン・ミケーレでの戦闘後、ブルーン将軍の服には7発の銃弾の穴が空いていたが身体には1発の銃弾も受けておらず元気にしていたと言われている。

 この戦いの最中、ボナパルトはヴェローナに到着した。

 夜9時、ボナパルトはレイ将軍に師団の大部分とともにヴァレッジョに移動するよう命じ、セリュリエ将軍にレイ師団を指揮下に置き、ロヴェルベッラに移動するよう命じた。

 恐らくこれらの配置はレニャーゴ方面への攻撃とヴェローナ方面への攻撃のどちらがオーストリア軍の主攻だった場合でも対応できるようにしたものだと考えられる。

 ボナパルトは当惑し、兵力をどこに集中させるべきか決断できずにいた。

 この点でアルヴィンチは目的を達成したと言えるだろう。

ヴェローナへのさらなる攻撃

 夜9時、バヤリッヒ将軍麾下のアウグスティネッツ大佐は3個大隊の内の2個大隊を率い、パンテナ渓谷を通ってヴェローナに前進した。

 そして途中で遭遇したフランス軍の歩哨をヴェローナに追い払った。

 しかし、フランス軍はヴェローナから出撃し、サン・ミケーレとサン・マルティーノから攻撃し、アウグスティネッツ大佐の部隊の左側面を脅かした。

 大佐は士官3人、兵士300人を失い、パンテナ渓谷のスタラヴェーナ(Stallavena)に戻り、グレッツァーナ(Grezzana)に駐屯地を置いた。

◎3度に渡るヴェローナへの散発的な攻撃

 12日夜~13日未明にかけて、主力軍第6列ビカソヴィッチ旅団の分遣隊10個中隊とバヤリッヒ旅団右翼の分離である1個大隊は協力してヴェローナの街の北に位置するサン・ジョルジョ門を攻撃した。

 この城壁前での戦闘は夜通し続いたが失敗に終わった。

 13日夜明け前、オーストリア軍はネグラール(Negrar)に撤退した。

 500人のフランス兵がオーストリア軍を追跡してヴァルポリセッラ(Valpolicella)に向かい、別のより強力な分遣隊が山頂にあるサン・フェリーチェ城(恐らくCastello di Montorioのこと)の尾根に野営した。

 12日~13日にかけての幾度もの攻撃を撃退するために、マッセナは師団全体をヴェローナの前に展開しなければならなかった。

 マッセナはすぐにより深刻な攻撃に備えるためにヴェローナを防衛する準備を整えた。

 ヴェローナの農民を徴用し掘りを深くし、柵を作らせるなどして要塞をより強固にした。

ジュベール師団のバルド山からの撤退と取り残されたポール大隊の抵抗

 1797年1月13日午前2時、1個大隊の分遣隊がフェラーラへ攻撃を行い、フランス軍は武器を放棄し18人を捕らえたという報告を受けた。

 ルシニャンはすぐにフェラーラを包囲する手配を行った。

 13日午前8時に10個中隊を3列に分割して襲撃し、残りの部隊でその攻撃を支援する予定だった。

 しかしコスタベッラ山頂からフェラーラまでは夏でも草が絡み合い進むことができない場所だった。

 縦隊は休むことなく行進したが、前夜に降り積もった雪や、氷に覆われた岩の上を進むのは困難を極めた。

 200人以上が本体から離れ、疲労や寒さにより何人かは死亡した。

 13日午前4時、ジュベールはルシニャン旅団がバルド山の西側を経由して左側面に進出してきたことを知った。

 これによりバルド山のジュベール師団は圧倒的数的優位であるオーストリア軍に囲まれることとなった。

 新たな攻撃を迎え撃つのは賢明ではないと考えたジュベールは、アディジェ川に架かる橋を破壊した後、リヴォリに後退した。

 冬の夜の闇の中での後退は秩序正しく行われ、オーストリア軍は野営地の火が消えるまでジュベール師団の後退に気づかなかった。

 リプタイ旅団とコボロス旅団の前衛はジュベール師団の後退を知るとすぐに攻撃をしようとしたがフランス軍はすでに去っており、追跡を行った。

 しかし、ジュベール師団のポール(Paul)大尉率いる1個大隊の元には連絡が届かずバルド山に取り残されてしまった。

 午前5時、ポール大尉率いる大隊は前進を再開したルシニャン旅団に包囲されて攻撃された。

 ポール大尉は大隊を1列に展開して対抗し、この作戦によってルシニャンは攻撃を停止した。

 恐らく、広い範囲からの攻撃により想定よりも多くのフランス兵がいると思ったのだと考えられる。

 明るくなるとルシニャンは自分の過ちに気付き、ポール大尉に降伏を呼び掛けた。

 ポール大尉は銃撃でそれに応えた。

 ポール大尉は抵抗を長く続けることはできないと考え、麾下の伍長をジュベール将軍の元に送った。

 伍長はジュベールの元にたどり着き迅速な救援の約束を取り付けた後、勇敢にもポール大尉の元に向かったが、到着することなく疲労で死亡した。

 しかしこの約束は果たされることなく、その後、ポール大尉は降伏を余儀なくされた。