リヴォリ戦役 15:ナポレオンの決断
Battle of Rivoli 15

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

1月13日のルシニャン旅団の行動

 1月13日午前7時前、ジュベール師団はバルド山からの後退中であり、最後尾がカプリーノ峡谷を通過しているところだった。

 ルシニャンは午前7時にフェラーラに到着してリプタイの前衛と合流し、その後、フランス軍の最後尾を追ってカプリーノへの道を進み、ペッツェナの背後の高地を通るルートでルミニに向かった。

 その途中、ルシニャン旅団本体とルシニャンがルミニに残した2個中隊の間に10人の士官と200人の兵士から構成されたフランス軍の分遣隊が残されているのを発見した。

 フランス軍の約200人の分遣隊はルシニャン旅団に包囲され捕らえられた。

 ルシニャンはルミニの前に到着すると散らばった部隊を集結させるために数時間の休息に入った。

 正午、ルシニャンはルミニの村を通ってガッツォ山(Monte Gazzo)を登り、午後4時過ぎ、ペッツェナの背後の山頂に到着した。

 ここでルシニャン大佐は、アルヴィンチが午後3時にカプリーノから送った命令書を午後4時半に受け取った。

 それは「第1列も前進し、左翼をカプリーノとの間に配置し、第2列の右翼と連絡を繋げよ」という命令だった。

 この時アルヴィンチはリプタイ旅団とともにあり、カプリーノにまで進んでいた。

 ルシニャン大佐はいったんルミニに降り、そこからカプリーノ方向に向かった。

 途中、フランス部隊と遭遇して撃退し、23人を捕虜とした。

 そして夜8時に野営に入った。

 第1列はこの3日間、非常に過酷な行軍を行っていた。

 特に木材の不足により寒さに耐えられず、すでに多くの兵が死亡し病気や疲労によって消耗していた。

ラウドンとミュラの小さな戦い

 ラウドン旅団はブレシアとサローへ向かって行軍していた。

 しかし、レイ師団所属のミュラ将軍が歩兵2,700人、騎兵50騎とともにラウドン旅団の前に立ちはだかった。

 両軍は小さな戦いを行った後、ミュラ旅団はヴァル・トロンピアとヴァル・サッビアのオーストリア軍前哨部隊を押し戻し、ラウドン旅団はイドロ湖の北側周辺に位置するサン・アントニオとカッファーロへの後退を余儀なくされた。

◎ラウドンとミュラの小さな戦い

 後退の途中、ラウドンはロッカ・ダンフォ(Rocca d'Anfo)に200人の伏兵を残した。

 しかし、ミュラはバルゲ(Barghe)経由でノッツァとヴェストーネに到達すると、それ以上の追跡を行わなかった。

勝利の鍵

 1月13日午前、リプタイ旅団とコボロス旅団の前衛はカプリーノ周辺の高地、サン・マルコ礼拝堂の前にまで進出してきていた。

 サン・マルコ礼拝堂の位置はアディジェ川右岸側から南下してくるオーストリア軍第4列と第5列と、バルド山から南下してくる第2列と第3列との間を分断しているため特に重要な地点だった。

 そのため勝利はこの重要な地点と周囲の高地の占領にかかっていた。

◎サン・マルコ礼拝堂の位置

 正午頃、コボロス旅団がサン・マルコ礼拝堂に攻撃を仕掛けた。

 ヴィアル(Vial)将軍は1個半旅団でコボロスの部隊を撃退した。

 そのためコボロスは隣接する高台に左翼を展開した。

オクスカイ旅団とロイス旅団の交替

 オクスカイ旅団は13日正午前にアディジェ川右岸沿いをクロアラを経由してインカナーレに向かっていた。

 1月13日正午、カスダノウィッチが午前1時半頃にペーリから送った書簡がロイス将軍の元に届いた。

 ロイス将軍はすぐにペーリに1個大隊を向かわせた後に8個大隊でインカナーレに向かい、続いてロイス旅団とオクスカイ旅団の騎兵隊を合計した13個半騎兵中隊が続いた。

 第5列ロイス旅団は日暮れまでにインカナーレのフランス軍の堡塁の前に到着した。

 オクスカイ将軍は4個大隊とともにクロアラとプレアボッコを経由してベッルーノに戻り、午後4時、近くの峡谷を通ってバルド山を登り始めた。

 オクスカイ旅団は夜7時にバルド山に到着し、右翼はカプリーノにいる第2列リプタイ旅団を、左翼はサン・マルコ礼拝堂近くの高台にいる第3列コボロス旅団を支援するためにリプタイ旅団とコボロス旅団の後を追った。

 第6列ビカソヴィッチ旅団はドルチェに舟橋用ボートと甲板乗組員を残してアディジェ川左岸を南下し、キウーサ砦とヴォラルニェ(Volargne)に向かい、13日夜にリヴォリの対岸に位置するチェライーノ(Ceraino)に到着した。

 その間、第1列~第5列がリヴォリの近くに到着するとすぐにドルチェに舟橋を架けた。

ナポレオンの決断

 コボロス旅団の正面攻撃をなんとか撃退したジュベールは、近い将来、師団左翼がオーストリア軍第1列に脅かされ、アディジェ川右岸に架かる橋を渡ってオーストリア軍第5列が進軍してきて師団右翼が脅かされるだろうことを午後2時までに察知していた。

 ジュベールは撤退を決断し、「これまでの状況報告」に「もし別の命令を受けることが無ければ夜に完全に撤退せざるを得ないこと」を付け加えた書簡をボナパルトに送った。

 13日午後3時、ボナパルトはジュベールからの状況報告を受け取ると、アルヴィンチは主力でリヴォリを突破するつもりであることを確信し、リヴォリに兵力を集中させることを決断した。

◎ナポレオンの決断

 ボナパルトはすぐにヴィクトール将軍とセリュリエ将軍に立て続けに命令書を送った。

 ヴィクトール将軍には全軍がリヴォリに向かっていると伝えた上で、カステル・ダーリオからロヴェルベッラを経由してヴィラフランカに向かうよう命じ、セリュリエ将軍には、騎兵をカステルヌォーヴォとロヴェルベッラに向かわせるよう命じた。

 カステルヌォーヴォに向かわせた騎兵はレイ師団と、ロヴェルベッラに向かわせた騎兵はヴィクトール予備旅団と合流するよう計らったものと考えられる。

 午後5時、ボナパルトはレイ将軍に翌14日午前2時にカステルヌォーヴォに到着し野営するよう命令を送った。

 そしてマッセナにシャボー将軍をヴェローナに残し、師団とともにリヴォリに向かうよう命じた。

 マッセナ指揮下のルクレール旅団を先行させ、翌14日夜明けの2時間前にリヴォリの前に到着するよう要求した。

 ボナパルトはジュベールがマドンナ・デッラ・コロナから撤退する前の報告の返答として、リヴォリで防衛態勢を整えるよう命令を出していたが、その書簡もそれ以外の書簡も夜の時点でジュベールの元には全く届いていなかった。

 そのためジュベールはボナパルトがヴェローナに到着したことを知らず、未だにボローニャにいるのではないかと疑っていた。

 夜8時、ボナパルトは副官をジュベールの元に派遣し、その後ボナパルトはすぐにヴェローナを発った。

 レイ将軍は夜に命令を受け取るとすぐに移動目標をカステルヌォーヴォへと変更した。