リヴォリ戦役 16:リヴォリの戦い前夜
Battle of Rivoli 16

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

リヴォリへの攻撃計画

 アルヴィンチは第2列の後方に位置するパッツォン(Pazzon)にいた。

 そして1月13日夜7時、翌朝リヴォリへの攻撃を実行するために、各列に命令を下した。

◎オーストリア軍のリヴォリへの攻撃計画

Battle of Rivoli(1797) Austrian plan

 第1列ルシニャン旅団はペッツェナ周辺を出発し、コステルマーノ(Costermano)を経由してフランス軍左翼を迂回し、アッフィ(Affi)を背にし、ガルダの町と湖方向の退路を確保する。

 その後、カヴァイオーン周辺の山を勝ち取り、アディジェ川右岸に到達してフランス軍の退路を遮断する。

 第2列リプタイ旅団は第3列よりも遅く攻撃を開始し、トロンバローラ(Trombalora)とゾアンネ(Zoanne)の山々を勢力下に置き、フランス軍をリヴォリの平原に追いやる。

 第3列コボロス旅団は、夜明けとともにコルデスピーノ山(Monte Cordespino)の尾根の先へと前進することになっていた。

 サン・マルティーノとサン・マルコ礼拝堂を占領して拠点とし、フランス軍が設置したアディジェ川に向けられた砲台を奪う。

 第4列オクスカイ旅団は第2列と第3列の間に進出し、サン・ミケーレ(San Michele)とルビアラ(Lubiara)にいるフランス軍を攻撃して周囲の建物をすべて占領する。

 第4列はあくまでも第2列と第3列の支援に徹し、第2列と第3列を先行させる。

 第5列ロイス旅団はブレンティーノ、プレアボッコ、クロアラを経由してインカナーレへ向かい、第2列~第4列の攻撃が成功した瞬間右側の山を歩兵に登らせてオステリアへ向かう道に沿うように配置されている砲台を襲撃し、リヴォリ陣地にいるフランス軍の右側面へ攻撃を行う。

 騎兵隊はできるだけ早く歩兵を突破し、夜間に突撃を仕掛ける。

 第6列ビカソヴィッチ旅団はチェライーノ(Ceraino)に大砲を配置し川の向こうに位置するリヴォリ陣地にいるフランス軍を砲撃し、同時にキウーサ砦を制圧する。

 最後に第1列はカヴァイオーン周辺の山々に広がり、第2列~第5列がフランス軍を打ち破ったとき、山々から降りてフランス軍の後部を攻撃する。

 このようにアルヴィンチは翌朝にリヴォリを防衛するジュベール師団の包囲殲滅計画を実行しようとしていた。

 ジュベール師団を撃破し、有利な立場でマントヴァ要塞へと南下するのである。

リヴォリの戦い前日のオーストリア軍の状況

 1月13日夜、オーストリア軍の第1列~第4列を構成する17個大隊、24個騎兵中隊、合計約16,000人はカプリーノとサン・マルコの間のバルド山に並んでおり、第5列は8個大隊、13個半騎兵中隊(合計約8,000人と推定)で構成され、インカナーレ近郊のアディジェ川右岸側にいた。

 第6列(約1,800人と推定)はアディジェ川左岸でリヴォリに向かって砲台を設置し、キウーサ砦の前と側面を占領していた。

 ペーリに向かった1個大隊は翌14日に到着し、その後サンタ・アナに2個中隊、ブレオーニオに2個中隊を派遣し、グレッツァーノに位置する左翼の支援を行う予定となっていた。

 本来であれば13日に行われるはずだったリヴォリへの攻撃は1日遅れ、各列が所持している食料はすでに底をついていた。

 周囲は人口がまばらな地域であったため現地調達を行ったとしても全く満たされることは無く、食糧調達の手段を見つけることはできなかった。

 尚且つオーストリア軍は雪と氷に覆われた不毛な岩山での行進により疲弊していた。

ジュベール師団の撤退停止とリヴォリでの決戦準備

 1月13日夜10時、サン・マルコ礼拝堂とカプリーノの手前に留まっていたジュベールはボナパルトの決断について確信が持てず、翌日にオーストリア軍が大挙して押し寄せてくることを恐れたため、カンパラを経由してカステルヌォーヴォへ退却するよう命令を下した。

 しかし師団が退却を開始するやいなやボナパルトの副官がジュベールの元に到着し、総司令官の到着が近づいていることを告げ、サン・マルコの位置にしっかり留まることを求めるボナパルトからの命令を伝えた。

 ジュベールは師団の退却を停止し、増援の到着を待っている間、オーストリア軍をリヴォリで迎え撃つべく防衛態勢を整えた。

◎リヴォリの戦い直前の両軍の配置

Arrangement of both armies just before the Battle of Rivoli

 リヴォリの前に4個半旅団、カステッロ(Castello)の堡塁に右翼を、マローネ(Marogne)の山のふもとに左翼を、そしてゾアンネ(Zoanne)の高地に前衛を配置した。

 このわずかな退却の間に、オーストリア軍はトロンバローラとロヴィネの山、勝利の鍵であるサン・マルコ礼拝堂を労せず手に入れた。

 マッセナ師団はシャボー(Chabot)将軍指揮下の1個半旅団をヴェローナに残し、日付が変わる前にリヴォリに向かって出発した。

 マッセナは第18半旅団1,640人にペスキエーラに繋がる道を辿ってロッカ・ディ・ガルダ(Rocca di Garda)へ向かわせ、自身はカヴァイオンを経由するルートでリヴォリへ向かった。

 そしてボナパルトはシャボーにカルディエーロのバヤリッヒ旅団を監視するよう命じた。

ナポレオンの到着

 1月13日夜12時前頃、アルヴィンチはジュベールが緊急に大規模な援軍を要請したことを知った。

 しかし、攻撃命令の本質的な変更を行う時間は無く、わずかな変更のみを行うに留めた。

 ロイス旅団の前線を押し上げ、オクスカイ旅団の左翼をサン・マルコ礼拝堂に向かって移動させた。

 1月14日、ボナパルトはレイ将軍にできるだけ早くピオヴェッツァーノを経由して歩兵はリヴォリの左の山の尾根を辿り、騎兵と砲兵隊はセーガの道を辿るよう命令を送った。

 レイ将軍は移動目標をカステルヌォーヴォからカンパラへ変更し、強行軍を行った。

 そして午前2時、遂にフランス軍の総司令官がリヴォリに到着した。