リヴォリ戦役 23:プロベラ師団のマントヴァ要塞到着
Battle of Rivoli 23

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

プロベラ師団のマントヴァ要塞到着

 1月15日午前3時、プロベラ師団はノガラを出発した。

 前衛であるホーエンツォレルン旅団はカステル・ダーリオで50人のフランス軍前哨部隊を倒した。

 サン・ジョルジュを守るミオリス将軍の元には総司令官からの書簡は届いておらず、プロベラ師団の接近を知らなかった。

 そのため朝の時点でミオリスは要塞にのみ注意を払っていた。

 サン・ジョルジュの門は開いており、兵士たちは木材を扱う作業を行っていた。

 ホーエンツォレルン旅団はサン・ジョルジュ近郊に出ると門に近づいた。

 オーストリア騎兵の白い外套がフランス軍のものとよく似ていたため、周囲のフランス兵達はどこかの軽騎兵の分遣隊が来たのだと思い、何も疑問に思わずに作業を続けた。

 しかし軽騎兵達が身に着けている外套が新しいことに気付いた年配の軍曹が疑念を抱き、ホーエンツォレルン旅団の進路上に馬防柵を設置し、警鐘を鳴らした。

 オーストリア騎兵は急いで馬防柵の方向に駆け寄った。

 しかし、フランス軍の対応の方が速く、守備隊によって阻まれた。

 その後、プロベラは師団本体とともにサン・ジョルジュに到着した。

プロベラからヴルムサーへの合図

 サン・ジョルジュで防衛態勢をとっているミオリス旅団は約1,500人ほどしかいないように見えたが、プロベラ将軍はこの要塞化された地点を攻撃するのは大胆すぎると考えた。

 プロベラ師団はここ数日の戦闘で多くの兵士を失っており、さらにオージュロー師団の追撃があったときのための対応として約2,500人の分遣隊をタルタロ川とモリネッラ川に分散して配置していた。

 そのためサン・ジョルジュに到着したプロベラ師団の兵力は5,000人に満たなかった。

 プロベラは師団が到着したことを砲撃によってマントヴァ要塞駐屯軍に知らせ、内外からサン・ジョルジュを攻撃することを計画し、サン・ジョルジュに向けて重砲を発砲した。

 しかし要塞内では、この砲撃はフランス軍による罠であり、要塞内から出撃したところを伏兵によって襲う作戦であると受け取っていた。

ヴルムサーの呼応

 正午頃、要塞内からの反応が無かったため、ヴルムサーと連絡を取り合うためにヴァルダロ(Valdaro)に移動したプロベラはサン・ジョルジュを包囲してヴルムサーの元に使者を派遣した。

 同時に十分要塞化されたサン・ジョルジュを防衛するミオリス将軍に降伏を呼び掛けた。

 しかしミオリスは降伏を拒んで発砲した。

 同じ頃、ヴルムサーがようやくオーストリア軍が要塞前に到着したと確信し、その合図として要塞内のすべての鐘を鳴らした。

 マントヴァ要塞駐屯軍は急いで出撃準備を整えた。

 しかし、これらの準備の間に午後4時になり、日は沈もうとしていた。

 そのため出撃は翌朝に延期され、この日は宿舎で休息することが決定された。

 その間、正午にプロベラが派遣した使者がマントヴァの下部湖のほとりに到着し、深い沼地を通り抜け、手配されたボートで湖を渡り要塞に入った。

 プロベラの書簡には、「師団がマントヴァ要塞前に到着したこと」、「プロベラ師団の砲弾は尽きかけていること」、「マントヴァ駐屯軍がいつ、どこで、どのように攻撃するのか教えて欲しいこと」が書かれていた。

 ヴルムサーは「翌16日の朝5時にチッタデッラから出撃しモンタータ、ラ・ファヴォリータ、サン・アントニオに向かう予定であること」、「プロベラ将軍は一部の部隊のみサン・ジョルジュに残し、マントヴァ要塞との連絡を確立するためこれらの地域をフランス軍から奪取し占領する必要があること」、「この計画が失敗した場合、プロベラ将軍はフランス軍がマントヴァの下のフォルミゴーサ(Formigosa)の近くのミンチョ川に建設した橋を占領し、ヴィルジリアーナ(Virgiliana)を経由してチェレセ(Cerese)に進軍する必要があること」をしたためた。

 しかしマントヴァ要塞内の兵士達のほとんどは病気に侵され、疲弊の極致にあり、生気は失われていた。

 そして午後5時頃、使者はプロベラの元に戻り書簡を手渡した。

 夜に向かってプロベラはサン・ジョルジュ周辺を撤収し、フォッサマナを通りチッタデッラとラ・ファヴォリータを観察した。

 その後、ヴェローナとレニャーゴに通じる道が交差するカステルベルフォルテ(旧名:ドゥエ・カステッリ)を経由してカステル・ダーリオ(旧名:カステッラーロ)に通じる道で野営した。

ヴルムサーの計画

◎ラ・ファヴォリータの戦いにおけるヴルムサーの計画

Wurmser's plan for the Battle of La Favorita (1797)

 1月15日夜、要塞の将校がプロベラ将軍にヴルムサー元帥からの書簡を渡し、その地域の詳細な計画、及び1月16日に陸軍元帥が計画の実行を決定したことを伝えた。

 第1列はオット将軍が指揮し、歩兵1,000人と騎兵隊で構成され、第2列はミンクウィッツ将軍が指揮し、歩兵1,200人とヴルムサー直属の騎兵隊で構成される。

 予備の騎兵隊が後ろに控え、予備の砲兵はカテナ港近くのアルジーネ(Argine)にある。

 そしてセボッテンドルフ将軍が全体を指揮し、朝5時に攻撃を開始する。

 第1列はサン・アントニオを征服し、第2列はモンタータを征服し、その後、2列ともラ・ファヴォリータへの攻撃を実行する。

 同時に第2列は、当面の間の監視を目的として、サン・ジョルジュに対して300人の兵士を派遣する。

 チッタデッラ要塞からは大砲で支援砲撃を行い、サン・ジョルジュに対しては要塞から最も近い砲台から砲撃を行うことになっていた。

 そしてセボッテンドルフ将軍はモンタータでプロベラ師団との合流を実行するように命令された。

プロベラの計画

◎ラ・ファヴォリータの戦いにおけるプロベラの計画

Provera's plan for the Battle of La Favorita (1797)

 ヴルムサーの計画を知ったプロベラ将軍は、その計画を元に作戦を立案し命令を下した。

 プロベラは師団を2つに分けた。

 師団左翼をホーエンツォレルン将軍が指揮し、約2,000人の兵でサン・ジョルジュを攻撃し、ゴベルノロ、カステル・ダーリオ、カステルベルフォルテからの進入路を占拠する。

 師団右翼をプロベラ将軍が自ら指揮し2,000人を少し超える歩兵と騎兵を率いてラ・ファヴォリータとモンタータに向かって前進する。

 つまり、ホーエンツォレルン旅団でサン・ジョルジュを占領して後方(レニャーゴ方面)から迫ってくるであろうオージュロー師団とミンチョ川右岸側のダルマーニュ師団に対応し、プロベラ本体でヴルムサーの攻撃に合わせてラ・ファヴォリータを占領して合流を果たし、セリュリエ師団本体と対抗するのであるのである。

 これらの計画は翌16日夜明け前に実行されることになっていた。

 この計画が成功裏に終わった後、主力軍の状況によってヴェローナ方面へ攻め上るか撤退するかを決めるのだろうと考えられる。