リヴォリ戦役 17:リヴォリの戦い(1797)<1st Day>
Battle of Rivoli 17

リヴォリの戦い、ラ・ファヴォリータの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 リヴォリの戦い:19,000人~22,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:セリュリエ師団約6,000人+オージュロー師団とマッセナ師団の一部
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約3,200人、大砲2門
ラ・ファヴォリータの戦い:不明
オーストリア リヴォリの戦い:約28,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:プロベラ師団約7,000人、マントヴァ要塞駐屯軍約10,000人
リヴォリの戦い:死傷者と捕虜の合計約12,000人
ラ・ファヴォリータの戦い:死傷者不明、捕虜約6,000人、大砲22門

サン・マルコ礼拝堂の争奪

 1月14日午前2時にリヴォリに到着したボナパルトは、サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(Chiesa di San Giovanni Battista)で総司令官の到着を待っていたジュベール将軍の元に赴いて状況を聞き、教会の尖塔に登ってオーストリア軍を観察したと言われている。

 ボナパルトは事態を把握し、オーストリア軍の2列目~4列目がトロンバローラやサン・マルコ礼拝堂の位置に完全に橋頭保を築くことができた場合、リヴォリ盆地でオーストリア軍のすべての列が合流してしまうことに気付いた。

 フランス軍は3方向から攻撃され、撤退を余儀なくされるだろうことは目に見えていた。

 そのためボナパルトはマッセナ師団とレイ師団の到着を待たずジュベール師団のみでオーストリア軍を攻撃することを決断した。

◎サン・マルコ礼拝堂及びトロンバローラ、ロヴィネ山奪還計画

Napoleon's first plan of attack at the Battle of Rivoli

 ボナパルトはサン・マルコ礼拝堂を奪還し、サン・マルコ礼拝堂から斜面を降りた位置にあるサン・ジョバンニからルビアラ(Lubiara)周辺のオーストリア部隊を追い出し、トロンバローラとロヴィネ(Rovine)の山をオーストリア軍から奪い返すようジュベールに命じた。

 ヴィアル将軍はサン・マルコ礼拝堂へ、サンドス将軍はロヴィネへ、レブリー将軍はトロンバローラへ向かった。

 インカナーレ方面では1個半旅団がオステリア・デッラ・ドガーナの塹壕を防衛しロイス旅団の進軍を阻んでいた。

 ボナパルトはゾアンネ(Zoanne)の高台に本部を設置した。

 サン・マルコ礼拝堂周辺では激しい戦いが行われ一進一退の攻防を繰り広げられたが、ヴィアル将軍はコボロス旅団とオクスカイ旅団左翼を撃退し、サン・マルコ礼拝堂周辺を完全に勢力下に置いた。

 夜明け頃、オクスカイ旅団左翼を攻撃し、サン・ジョバンニとガンバロン(Gambaron)への撤退に追い込んだ。

 そしてサン・ジョバンニ村がある谷に向かった。

 中央のサンドス旅団はサンドス将軍が致命傷を負いながらもロヴィネからオーストリア軍を追い出し、トロンバローラの高台からオーストリア軍を撃退するのを支援した後、ロヴィネに陣取った。

 サンドス将軍の後をベルティエ将軍が引き継ぐこととなった。

 サンドス将軍は後方に運ばれて療養したが、2月8日、ミラノで死亡した。

 左翼のレブリー将軍はトロンバローラからオーストリア軍を撃退し、トロンバローラの高台とカステッロ山の塹壕に部隊を配置した。

 こうしてリヴォリでの最初の激突はフランス軍が勝利し、トロンバローラ、ロヴィネ、サン・マルコ礼拝堂は再びフランス軍の手に渡った。

攻勢の失敗とフランス軍左翼の崩壊

 リヴォリの戦いにおける最初の戦闘に敗北したオーストリア軍は不活発なままではなく、後方の部隊をフランス軍の前に配置し、カスダノウィッチ将軍がインカナーレの後方に到着してドルチェの前に部隊を向かわせた。

 ビカソヴィッチはドルチェの北側にあり、ルシニャンはサン・ロッコ(San Rocco)に触れていた。

 ボナパルトは、カスダノウィッチを封じ込めインカナーレの出口を塞ぐのに十分な戦力があると判断し、撃退したコボロス旅団とオクスカイ旅団が態勢を立て直す前に、時間を無駄にすることなくカプリーノにいるリプタイ旅団を攻撃し、それを打ち倒すことを決意した。

 しかしヴィアル旅団はコボロス旅団の前哨部隊を撃退した後、反撃に合いサン・マルコ礼拝堂に戻された。

 左翼のレブリー旅団はトロンバローラとゾーヴォ(Zovo)の高地を越え、中央のベルティエ旅団は既にロヴィネの高地を越えて前進していた。

 同じ頃、ルシニャン旅団はモンテ・ガッツォとコル・デ・ラヴァレッテ(Col de Lavalette)を越えてサン・ロッコに出てペッツェナに到着していた。

 そして4個中隊をトッリとガルダ方面の防衛に向かわた後、タッソ(Tasso)川に沿って進み、コステルマーノ(Costermano)を経由するルートでアッフィに向かった。

◎フランス軍左翼の崩壊

Battle of Rivoli( 1797 ), Collapse of the French left flank

 午前9時頃、ベルティエ旅団の第1大隊がサン・ジョバンニを占領するために前進した瞬間、リプタイ旅団が優勢な部隊でレブリー旅団を攻撃した。

 リプタイは迂回部隊にレブリー旅団の左側の峡谷をすり抜けさせ後方を脅かしたためレブリー旅団左翼は恐慌状態に陥り、それにつられて旅団右翼が敗走を始めた。

 ヴィアル旅団もコボロス旅団の攻勢に耐えきれずサン・マルコ礼拝堂からの後退を開始しようとしていた。

 そのためベルティエ旅団のみでオーストリア軍の攻撃を受け止めることを余儀なくされた。

ベルティエの奮闘とフランス軍の危機

 ベルティエ旅団の第1大隊は生垣の後ろやサン・ジョバンニの前の家々で防御を固めてオーストリア軍を止めた。

 ベルティエはサン・マルコ礼拝堂周辺で戦うヴィアル旅団が山を下りリヴォリへ続く道へと後退できるようにするために第2大隊を第1大隊の支援に送り、中央の第3大隊の先頭にその身を置いた。

 ベルティエはコボロス旅団とオクスカイ旅団に包囲され、3方向を正面とし、2門の野砲を使用して30分間持ち堪えた。

 オーストリア軍は急いで彼らを捕らえようと激戦が続けられた。

 第3大隊はオーストリア軍の数に圧倒されて敗走を余儀なくされた。

 しかし一人の将校の声で転進し、オーストリア軍に真っ向から立ち向かい、大砲を奪い取った。

 ボナパルトはこの勇敢なベルティエ旅団の抵抗が長く続くことはないことを理解していた。

 リプタイは第3大隊を通り過ぎた後、リヴォリ高原まで妨害するものが無くなり、ロイス旅団の動きを支援し、ジュベールをアディジェ川に投げ返そうとした。

 フランス軍はすべての部隊が交戦状態にあり、予備兵力はなかった。

 この時点で交戦状態にある兵数は、フランス軍約10,000人に対しオーストリア軍約15,000人であり数的に1.5倍ほどオーストリア軍が優勢だった。

 フランス軍の左翼は崩壊しつつあり、ボナパルトは危機的状況に陥っていた。

マッセナ師団の到着

 午前11時頃、オーストリア軍の勝利が決定しようとしたまさにその時、第32半旅団の先頭に立ちヴェローナから一晩中行進を続けたマッセナが戦場に到着した。

◎マッセナの到着

Battle of Rivoli( 1797 ), Arrival of Massena

 マッセナはすぐに突撃を命じられた。

 この予想外の強化により崩壊しつつあった左翼はマッセナ率いる第32半旅団の後ろで態勢を立て直し、マッセナとともにリプタイ旅団への反撃を行った。

 リプタイ旅団はこの反撃で後退を余儀なくされトロンバローラの高台を失い、マッセナはリプタイ旅団への追撃を行った。

 しかしその頃、ジュベール将軍率いるヴィアル旅団はサン・マルコ礼拝堂をコボロスに明け渡し、ビカソヴィッチ旅団はアディジェ川左岸のチェライーノ(Ceraino)まで進んでいた。

 ジュベールはヴィアルを後衛としてオステリアに向かって山を下りた。

 オクスカイは鹵獲した2門の大砲を後退するヴィアル旅団に向けて発砲し、それによってヴィアル旅団の混乱は増大した。

 ビカソヴィッチはチェライーノ村の前に砲兵隊を配置してオステリアへの砲撃を行った。

 オステリア・デッラ・ドガーナの塹壕前ではカスダノウィッチ指揮下のロイス旅団がビカソヴィッチ旅団の砲撃支援の下で攻撃を行い、約900人の1個半旅団(第39半旅団)によって防御されていた。

 一方、ルシニャンはアッフィに到着し、3個中隊をカヴァイオーンの山に派遣してペスキエーラに向かうガルダ湖の下部の地域を観察させていた。

危機の中での泰然たる意思

 正午頃、第39半旅団は粘り強い防御の後、同時にサン・マルコ礼拝堂方面から降りてきたコボロス旅団とカスダノウィッチ師団によって攻撃され、リヴォリの高原をオーストリア軍に明け渡さざるを得ない状況となっていた。

 このような圧倒的劣勢な状況においても、フランス軍の中に絶望する者はいなかったと言われている。

 そこへサン・ジョバンニから後退してきたベルティエとサン・マルコ礼拝堂から後退してきたジュベールがリヴォリ村の北の主要道路上で出会った。

 2人の将軍は陽気に挨拶を交わし、ベルティエはジュベールに、どこの戦線に向かうかを尋ねた。

 ジュベールは「そこに」と答え、騎兵2人の腕を掴んだ。

 それからジュベールはビカソヴィッチ旅団からの砲撃を受けカスダノウィッチ師団に対抗している第39半旅団の支援に向かった。

 ベルティエもそれにならい、ジュベールの支援を行った。

 ボナパルトはルクレール騎兵隊約300騎にベルティエと同じ地点に移動するよう命じた。

ルシニャン旅団のフランス軍後方への機動

 同じく正午頃、アッフィのルシニャンはリヴォリ方面への前進を開始し、その後、第2列との連絡を繋ぐために左側面をコステルマーノ(Costermano)近くまで伸ばそうと数回に渡って部隊と伝令を派遣した。

 ルシニャンの前進とほぼ同時にボナパルトは左側面をカバーするために、ブルーン将軍麾下の第75半旅団にフィッファーロ(Fiffaro)に到達するよう命じた。

◎ルシニャンとブルーンの衝突とマッセナの反転

Battle of Rivoli( 1797 ), Confrontation between Lussignan and Brune , and Massena reverses.

 恐らく、この時点でナポレオンはルシニャン旅団の位置を把握しており、その対応のためにブルーン将軍をフィッファーロに派遣したのだと考えられる。

 この日、ルシニャンの道程は順調に見えたが、この時点でコステルマーノ方面に伸ばした連絡線に危険が迫っていた。

 マッセナがロッカ・ディ・ガルダに配置したモニエ(Monnier)将軍率いる第18半旅団は、その内の2個大隊をモニエ将軍が率いてリヴォリ方面に向い、カルシーナ(Calcina)でルシニャンの左側面と遭遇して攻撃し彼らを倒したのである。

 この思わぬ方向からの攻撃によりルシニャン旅団とリプタイ旅団との連絡線は遮断された。

 第18半旅団の2個大隊は周辺のオーストリア軍を一掃するとリヴォリ方面に向かって進んだ。

 ルシニャンがリヴォリとアッフィの間の丘の上に到着した頃、ブルーン将軍の前哨部隊はすでにフィッファーロに到着しており、ルシニャン旅団の進軍を阻止しようとしていた。

 ルシニャンは前進し、ブルーン旅団を追い返した。

 ブルーン旅団はロッカ・ディ・ガルダから来たモニエ将軍率いる第18半旅団の2個大隊と合流し、リヴォリの西側に位置するポッツォーロに退却した。

 その後、ルシニャンは妨害されることなくブルニシ山(Monte Brunisi)を占領し、カンパラからリヴォリへの道に配置されていた200人の歩兵と40騎の騎兵隊からなるフランスの小さな部隊を敗走させ、ピポロ山(Monte Pipolo)を占領し、急いで列の右翼をアディジェ川の右岸に伸ばした。

 同時にカヴァイオーンの山に派遣していた部隊から到着した旨の連絡を受け取った。

隘路への砲撃とカスダノウィッチの後退

 カスダノウィッチ率いるロイス旅団はオステリアの渓谷から出現し、その出口の隆起した場所にある塹壕地帯にフランスの砲台が配置されていた。

 ロイス旅団の1個大隊と1個騎兵中隊がその隆起した場所に足を踏み入れ、残りは戦闘態勢に無いか、狭い隘路を通りリヴォリ平原に出るために列に並んでいた。

 オーストリア軍の数人の歩兵が急いで大砲を確保し、塹壕から運び去ろうとした。

 しかし、そこにベルティエ旅団が到着しマスケット銃を発砲すると、オーストリアの数人の歩兵は大砲を放棄して逃亡した。

 すかさずベルティエは第22軽騎兵連隊約200騎を向かわせ、奪い返した大砲をカスダノウィッチ率いるロイス旅団の先頭に向けた。

◎カスダノウィッチの後退

Battle of Rivoli( 1797 ), Retreat of the 5th Column

 ジュベールは自らマスケット銃を手にし、ベルティエによって前進を阻まれたカスダノウィッチの先頭に3個歩兵大隊を導いた。

 ジュベール将軍の圧迫によって隘路に詰め込まれた状態のカスダノウィッチ率いるロイス旅団は大砲の砲撃によって大混乱に陥った。

 オステリアの隘路からアディジェ渓谷に押し出されたカスダノウィッチは、その後、ロイス旅団を危険に晒すことなしにリヴォリ高原に再び出ることはできず、第2列~第4列をリヴォリの戦場に残して後退した。

 その後、フランス軍は第3列と第4列を撃退することに注力したため、第5列ロイス旅団を積極的に追撃することはできなかった。

決着

 ベルティエとルクレール、そしてジュベールが第39半旅団とともにカスダノウィッチと対抗している頃、マッセナは第32半旅団とレブリー旅団とともにトロンバローラの高所からリプタイ旅団を撃退し、レブリー旅団にリプタイ旅団の追撃を任せ、自身はサン・マルコ礼拝堂方面に向かっていた。

 ヴィアル旅団をサン・マルコ礼拝堂の向こう側に押しやったオクスカイ旅団とコボロス旅団はムトーレ(Mutole)に向かって行軍を開始した。

 カスダノウィッチを撃退したジュベールは、オクスカイ旅団を止めるために部隊を集結させた。

 オクスカイ旅団の前哨部隊は逃亡するヴィアル旅団に対して銃撃で混乱を増大させながら追撃し、起伏が多い地形のためその隊列は崩れていたが、そのままリヴォリの平原に足を踏み入れた。

 この瞬間、ラサール中隊長は騎兵50騎を率いてヴィアル旅団の集結を保護するために前進し、オクスカイ旅団の前哨部隊約600人の前に現れた。

◎ラサール騎兵中隊の出現とマッセナの側面攻撃

Battle of Rivoli( 1797 ), Lasalle's success and the flanking attack carried out by Massena

 ラサール騎兵隊の出現はオクスカイ旅団の前哨部隊に壊滅的な影響を与えた。

 疲労し砲兵隊も騎兵隊も欠いていたオクスカイ旅団の前哨部隊は後退を開始した。

 オクスカイは山を駆け上がってくる前哨部隊の後ろにフランス騎兵隊を発見し、同時に右側面からマッセナの歩兵がいるのを発見した。

 オクスカイはトロンバローラでリプタイが敗北し、右側面と後部が脅かされていると考え、すぐにサン・ジョバンニへの後退を命じた。

 しかし後退はすぐに敗走に変わり、オクスカイ旅団の歩兵はサン・ジョバンニを経由するルートで逃亡し、コボロス旅団はサン・マルコ礼拝堂とモンテ・マニョーネで懸命に抵抗したが放棄することを余儀なくされ、約1,800人が捕らえられた。

 オクスカイ旅団とコボロス旅団は圧倒的数的優位でありながら、少数のフランス騎兵隊に驚いた兵士達の混乱と数的に劣るマッセナの歩兵隊の側面攻撃によって態勢を崩され、もろくも撤退に追い込まれている。

 これらの旅団が新兵で構成されていたこと、真冬の雪山を行軍してきた疲労の蓄積、食糧不足に原因があると考えられる。

 オクスカイとコボロスの敗北を見たリプタイはカプリーノを経由してパッツォン(Pazzon)に撤退した。

 これによりこの日のリヴォリ高原におけるフランス軍の勝利が確定し、残るはルシニャン旅団のみとなった。

ルシニャン旅団後退の決断

 1月14日午後2時、ルシニャン大佐は第1列がリヴォリの背後の高地に到着したことを砲撃によって伝えた。

 しかし、この時点ですでにリヴォリ高原でのオーストリア軍の敗北は決定付けられていた。

 ルシニャンは、時々チロルに向かって伸びる山々で銃声が鳴り響くのを聞いた。

 そして、正午以降コステルマーノ方面に派遣していた部隊と連絡役の何人かが捕らえられ、残りは何も達成できずに戻ってきたことから、ルシニャン大佐は他の列の攻撃が失敗したことを確信した。

 第1列は侵攻開始当初4,556人の兵士を有していたが、この時点でまともに戦うこと無く4,000人未満に減少しており、他の列が後退する中、第1列のみでフランス軍に攻撃したとしてもフランス軍に何の影響も与えないことは明らかだった。

 1月4日のバッサーノにおける会議でアルヴィンチは「リヴォリへの攻撃が初日に失敗した場合、次の日にそれを繰り返すだろう」と宣言していた。

 そのためルシニャン大佐は安全な位置まで移動して夜を明かし、翌日に再び他の列の攻撃が始まった時にリヴォリへの攻撃を行うことを決断した。

レイ将軍の躊躇と弟ルイ・ボナパルトの活躍

 ルシニャン旅団がピポロ山を下り始めた頃、第11半旅団と第58半旅団の3個大隊で構成されるレイ師団はオルザ(Orza)手前でルシニャンの前哨部隊(カヴァイオーンの山に派遣していた3個中隊)と交戦しており、オルザより先に進むことをためらっていた。

 この時のレイ師団の兵力は約3,000人、ルシニャン旅団は約4,000人弱であり、ルシニャン旅団は山の上という有利な位置を占領しているように見えた。

 そのためリヴォリの戦況が分からないレイは前進をためらったのだと考えられる。

 そこへペスキエーラからリヴォリへ向かっていたナポレオンの弟であるルイ・ボナパルトが逃亡兵をかき集め第15竜騎兵戦隊とともにレイ将軍の元に現れた。

 ルイは目の前のオーストリア軍(ルシニャン旅団)を攻撃するようレイに求めたが拒否され、増援を求めても1個大隊すらもらえなかった。

 そのため手持ちの兵でルシニャン旅団へ攻撃を行った。

 このルイの攻撃はモニエ将軍率いる第18半旅団と第75半旅団の1個大隊、そして騎兵の分遣隊がルシニャン旅団の前に到着し、カンパーナ(Campana)の丘に15門の12ポンド砲と榴弾砲を配備した4つの砲台を設置する時間を稼いだ。

ルシニャン旅団の敗北

 午後3時以降、15門の大砲が火を噴き激しい砲撃を開始し、3つの小さな攻撃隊がモンティドン(Montidon)とカゼッラ(Casella)の間をピポロ山に向かって前進した。

 ルシニャンはこの砲撃に対抗するすべを持っておらず、被害を最小限に食い止めるべくブルニシ山への撤退を開始した。

 ピポロ山に未だ残っていたルシニャン旅団の右翼はピポロ山に現れたフランス軍と1時間以上に渡って抵抗したが撤退し、左翼と合流するためにピポロ山を下りた。

 フランス軍は騎兵隊を集結させルシニャン旅団右翼と本体の間に割り込もうとしたが、数個中隊が前進して射撃を行いこれを阻んだ。

 そのためルシニャン旅団右翼は本体との合流に成功した。

 砲撃から逃れたルシニャンがブルニシ山に到着した後、レイ師団がようやくオルザ(Orza)から離れタッソ(Tasso)川の右岸に師団を展開した。

◎ルシニャン旅団の崩壊

Battle of Rivoli( 1797 ), Destruction of the 1st Column

 ルシニャンがブルニシ山の頂上に到達するとすぐにモニエ将軍とブルーン将軍に率いられた第18、第75半旅団は正面攻撃を行い、レイ師団は後方から突撃した。

 戦闘は長くは続かなかった。

 最初の衝撃で崩壊したルシニャン旅団は逃亡し、大部分はフランス軍の捕虜となった。

 ルシニャン旅団はアッフィとコステルマーノを経由するルートでペッツェナ方向とガルダ方向に逃亡し、ガルダ方向に逃亡した約1,000~1,200人の兵士達は第18半旅団所属のレネ(Rene)大尉が指揮する50人の兵士によって降伏を余儀なくされた。

※ナポレオン1世書簡集において、ナポレオンは政府に1,000~1,200人が降伏を余儀なくされたのではなく、1,500人が止められたと報告している。