レオーベンへの道 03:トレンティーノ条約の締結
Road to Leoben 03

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

ローマへの道

◎ナポレオンによる第二次教皇領遠征の道程②

 ヴィクトール師団はロレート(Loreto)を出発し、2月12日にマチェラータ(Macerata)に入り、トレンティーノ(Tolentino)に向かった。

 1797年2月12日、ボナパルトはアンコーナの本部で財務担当官ルルー(Leroux)に、30,000着のズボン、30,000枚のジャケット、60,000足の靴を可能な限り短い時間でヴェネツィアで製造させるよう命じた。

 そして、ラヴェンナとウルビーノ(Urbino)を支配下に置くためにソーゲ師団を配置し、リミニかペーザロに師団本部を置くよう命じた。

 13日にヴィクトール師団がトレンティーノに到着した時、教皇の特使がすでに到着しており、翌14日から交渉が始められた。

 ヴィクトールはその後も前進を止めず、14日、前衛をカメリーノ(Camerino)を経由してセッラヴァッレに向かわせ、自身はポルヴェリナ湖の先にあるロマネスク様式の橋であるポンテ・ラ・トラヴェ(Ponte la Trave)に向かった。そして15日にフォリーニョ(Foligno)に到着した。

 コルトナから来たヴォーボワ師団の別動隊も16日にフォリーニョで合流した。

ジュベール将軍への書簡

 2月17日、ジュベール将軍が2月9日に送ったチロル方面の防衛に関する疑問点が書かれた書簡がボナパルトの元に届いた。

 ボナパルトは書簡を見ると、トレント撤退後に部隊を結集し数日防衛できる地点が無いことが書かれていた。

 しかしボナパルト視点では、以前ヴォーボワ師団がカッリアーノで強固に防衛していたこともあり、トレントとロヴェレトの中間地点(カッリアーノ)で防衛し、それをより強固にすることができると考えていた。

 もしカッリアーノの放棄を余儀なくされる状況となったとしても兵力を集中しロッピオ湖とアディジェ川を利用することによりアディジェ川右岸側に防衛線を構築できる。

 そして左岸側にはオーストリア軍がアラ(Ala)に進攻できないように、大砲数門と数個の分遣隊を(恐らくサン・マルコやセッラヴァッレに)配置するのである。

 そのため、ジュベールにトレントとロヴェレトの中間地点やモーリ周辺に橋を渡し、橋を前衛と塹壕で覆うことを勧め、ジュベール師団中央と右翼がトルボレからモーリの戦線の維持に危険が迫った場合、ペスキエーラ、ヴェローナ、マントヴァからの支援を受けるよう指示した。

◎ロヴェレト周辺の地形とナポレオンが思い描いていたであろう防衛案

 さらにボナパルトはオーストリア軍がラヴィースに到着してからすぐにトルボレを攻撃してきた場合、この作戦は失敗することを指摘した。

 ボナパルトはこれらのことを書簡にしたため、現地を詳細に観察し、書簡を読んで黙想するようジュベールに促した。

トレンティーノ条約の締結(教皇ピウス6世との和平)

 2月17日、フランス軍はローマに向かって圧力を強め、18日までにウンブリア(Umbria)州のすべてを勢力下に置き、ローマまで約3日の距離にまで迫った。

◎美術品の調査、接収が行われた主な地域とトレンティーノの位置

 フランスの学者で構成される科学芸術委員会は、2月18日までの間にフランスの勢力下にあるラヴェンナ、リミニ、ペーザロ、アンコーナ、ロレート、ペルージャで美術品などの調査を行い、それらを接収した。

 聖母マリア崇拝の中心地の1つであるロレートの聖域(Santuario di Loreto)においても調査は行われ、価値あるものは接収された。

 しかしロレートでは民衆がフランス軍に襲い掛かり、その報復として徹底的に略奪されたと言われている。

 そして2月19日、遂にトレンティーノにおいて和平条約が締結された。(トレンティーノ条約)

 これにより教皇は、フランスのアヴィニョン(Avignon)とヴェネサン(Venaissin)に保有している飛び地と資産、ボローニャ州、ラヴェンナ州、ロマーニャ州を莫大な賠償金(2,500万スクーディ(Scudi)) やその他の多大な費用のかかる物品とともに失った。

 その後、ヴィクトール師団はロマーニャを占領し、ボナパルトはボローニャを経由してマントヴァに戻った。

 和平締結後、コッリ中将はオーストリアに帰還した。

 後顧の憂いの1つを排除したフランス軍は、その後オーストリア軍に照準を定めることになる。

フランス政府とナポレオンの軋轢

 1797年1月に行われたオーストリアとの休戦交渉が決裂した後、クラーク中将はボナパルトにサルディーニャ王国との同盟交渉を依頼されていた。

 ボナパルトはピエモンテと同盟を結んで協力し、10,000人のピエモンテ軍を受け入れオーストリア軍に対抗することを考えていた。

 クラークはサルディーニャ王国の担当者と交渉し、フランス共和国はサルディーニャ国王に王冠を保証し、サルディーニャ王国はオーストリアに宣戦布告して20門の大砲を備えた10,000人の軍隊をフランス軍に参加させることを約束した。

 そしてボローニャで同盟協定が署名され、2月19日、ボナパルトはトレンティーノからフランス政府にサルディーニャ王国が同盟協定に署名したことを通知した。

 しかしフランス政府はこの同盟協定の批准を拒否し、新たな命令と権限をクラーク将軍に与え、サルディーニャ王国首都トリノに派遣した。

サン・マリノ共和国の平和

◎サン・マリノ共和国の位置

※サン・マリノ共和国は301年に建国され、現存する世界最古の共和国である。1992年には国際連合にも加盟している。

 トレンティーノ条約締結の前後、ボナパルトはリミニの南西15㎞ほどのところに位置する小国サン・マリノ共和国に対し科学芸術委員会に所属する数学者ガスパール・モンジュ(Gaspard Monge)を送り、同じ民主共和制の国どうし友愛と友情の印として国境を海まで広げることを申し出た。

 当時のサン・マリノの国家元首であるアントニオ・オノフリ(Antonio Onofri)はフランスの使節にその申し出を丁重に断り、ボナパルト宛の書簡を渡した。

 書簡には「サン・マリノ共和国は、その小ささに満足しており、寛大な申し出を受け入れることも、将来的にその自由を損なう可能性のある野心的な領土拡大に踏み込むこともありません。」と書かれていたと言われている。

 ボナパルトはサン・マリノ共和国の賢明な謙虚さに感銘を受け、フランス共和国の代表として善意を表し平和なサン・マリノ人に1,500トン(15,000 quintali)の穀物と4門の野砲を送り、オノフリはこれを受け取った。

これ以降、現存する世界最古の都市国家であり世界最古の共和国であるサン・マリノ共和国はフランスの友好国となった。