レオーベンへの道 05:タリアメント川への撤退の開始
Road to Leoben 05

ヴァルヴァゾーネの戦い、グラディスカの戦い、タルヴィスの戦い

勢力 戦力 損害
フランス共和国 ヴァルヴァゾーネの戦い:推定17,000~20,000人
グラディスカの戦い:推定約10,000人
タルヴィスの戦い:推定約11,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約500人
グラディスカの戦い:ほぼ無し
タルヴィスの戦い:約1,200人
オーストリア ヴァルヴァゾーネの戦い:推定約15,000人~18,000人
グラディスカの戦い:推定3,000~4,000人
タルヴィスの戦い:推定約8,000人
ヴァルヴァゾーネの戦い:死傷者と捕虜の合計約700人、大砲6門
グラディスカの戦い:死者約500人、負傷者 不明、捕虜2,513人、大砲8門
タルヴィスの戦い:1797年2月22日~23日にかけての一連の戦いの損害の合計約2,500人、大砲25門、荷車400台

アルヴィンチによる防衛準備

 2月中旬以降、ベルナドット師団及びデルマス師団の先頭がミラノに到着し始めていた。

 このことはオーストリア側の密偵によってアルヴィンチに報告された。

 これらの増援の到着やフランス側のいくつかの発表を総合して考えると、アルヴィンチにはピアーヴェ川への攻勢が差し迫っていることを示しているように思えた。

 そのためアルヴィンチはフランス軍の攻勢に積極的に対応するために必要な準備を行った。

 1797年2月23日朝、アウグスティネッツ旅団はロヴァディナ橋に対して戦闘隊形をとり、各翼には軽騎兵隊が配置された。

 そしてスポーク旅団とゼットウィッツ旅団も警戒態勢に入った。

 これらは明確な根拠のない情報に基づいた推測からの行動であり、フランス軍が積極的に攻勢に出ることは無かった。

 しかしオーストリア軍は撤退することにより、思いもかけずフランス軍の前哨基地の指揮官が攻撃を行うよう誘導していた。

 そのため、強力なフランスの偵察部隊がクエーロ(Quero)に現れ、前線もロイス旅団の反対側にあるサレット(Saletto)にまで押し上げた。

 オーストリア軍が誘導しなければ、この日は静かに過ぎ去っていただろうと考えられる。

アルヴィンチによるタリアメント川への撤退計画

 アルヴィンチは、フランス軍は休息しており攻撃を考えていないことを確信した。

 そのため、タリアメント川への本格的な撤退開始を翌24日に変更した。

◎アルヴィンチによるタリアメント川への撤退計画

 コボロス将軍は、スポーク旅団、セットウィッヒ旅団、アウグスティネッツ旅団の1個大隊とともにタリアメント川の背後にある冬の宿舎の防御のために4日間行進する。

 ロイス旅団の内、2個大隊、24個軽騎兵中隊がピアーヴェ川下流域にあるポンテ・ディ・ピアーヴェ(Ponte di Piave)、ロンカデッレ(Roncadelle)、オデルツォ(Oderzo)に残り、残りはモッタ(Motta)を経由して2日で冬の宿舎へ到着することになった。

 本部はサチレ(Sacile)、ポルデノーネ(Pordenone)、ヴァルヴァゾーネ(Valvasone)を経由してウディネ(Udine)に向かう。

 これらタリアメント川に向かうすべての旅団は、新たな担当地域に到着した直後に、正確に偵察する必要があった。

 そのため、タリアメント川左岸までの土手、および後方の道路、小道、橋などを注意深く調べるように命じられた。

 到着後、すべての旅団は一度解散して再編成され、増援の到着によって完成されることになっていた。

 バヤリッヒ将軍は、前哨部隊を部分的に救援するためにゼッケンドルフ旅団によって派遣された6個中隊と4個騎兵中隊がそこに到着するまで、旅団と共にピアーヴェ川に留まった。

 そしてその後、旅団とともにサチレを経由して冬の宿舎の防御のために移動することになっていた。

 ホーエンツォレルン将軍の旅団は、ロイス旅団から移管された部隊を含め、5個大隊、3個騎兵中隊を数えた。

 ホーエンツォレルン将軍はコネリアーノに宿舎を構え、旅団はピアーヴェ下流域の前哨基地に配置されており、フランス軍との休戦のための新たな提案を行う任務を与えられていた。

 右翼はルシニャン旅団がベッルーノの前に配置され、ホーエンツォレルン旅団との連絡線を繋ぐこととなった。

ピアーヴェ川周辺からの撤収の開始とフランス軍の進出

 1797年2月24日、オーストリア軍は計画通りタリアメント川に向かって後退を開始した。

 その後退は妨害されることは無かったが、25日までにフランス軍はピアーヴェ川の全戦線を前進させていた。

 ロヴァディナ、ビダジオ(Bidasio)、ボスコ・ディ・モンテッロなどのピアーヴェ川右岸沿いにフランス軍の強力な部隊が現れた。

 ケレルマン将軍は騎兵150騎とともにサンタ・ママ(Santa Mama)でピアーヴェ川を渡河し、コネリアーノへの道を30分進んだが、バヤリッヒ将軍の騎兵隊により撤退を余儀なくされた。

 フランス軍側の報告によると、2人のオーストリアの軽騎兵が死亡し1人が負傷しており、フランス側の損害は不明である。

 オーストリアの偵察はピアーヴェ川右岸側に進出することができなくなり、チアーノ(Ciana)からモンテベッルーナ(Montebelluna)、ネルヴェーザ(Nervesa)まで、川沿いの他のすべての町はフランス軍が勢力下に置いていた。

 この頃にはベルナドット将軍がミラノに到着しており、2月27日、ボナパルトは第19猟騎兵連隊をミラノに残し、ベルナドット将軍に師団を率いヴェローナに向かうよう命じ、一部をその先のバッサーノにいるマッセナの元に派遣するよう命じた。

 ベルナドット師団及びデルマス師団が続々と前線へ向かったことによりようやくオーストリア軍に対して数的優位を獲得し、これによりボナパルトは攻勢が可能な状態になると考えた。

 2月28日、両軍の哨戒部隊がロヴァディナとポンテ・ディ・ピアーヴェで視認し合った。

 コルテッラッツォ(Cortellazzo)から届いた報告によると、フランス軍の分遣隊がリベンツァ(Livenza)に向かって海に沿って進軍しているとのことだった。

 ホーエンツォレルン将軍はアルヴィンチの指示に従ってフランス軍の将軍達に休戦交渉を提案したが、2回目の提案も失敗に終わっていた。

 そしてこの日、敗北続きであるにも関わらずルシニャン大佐は昇進し少将となった。

 他の士官や将軍達の多くが2月28日~3月2日までの間に昇進していることから、上級士官不足を補うと同時に士気を上昇させることを狙ったのだろうと考えられる。